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天からのしるしが見えるか

ルカの福音書講解(60)第11章29節~36節

岩本遠億牧師

2012年12月2日

11:29 さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。 11:30 というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。 11:31 南の女王が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、彼らを罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。 11:32 ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。

11:33 だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。 11:34 からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。 11:35 だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。 11:36 もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」

+++

今日の礼拝から2012年のアドベントが始まります。アドベントとは、日本語で待降節とか降臨節と訳され、クリスマスを迎える4週間の間をこのように呼びます。イエス様がこの世に来られたのは何故だったのか。誰のためだったのか。そのことを覚える季節です。私たちはいつもそのことを覚えながら日曜日の礼拝を捧げていますが、そのことを特に覚える季節と言って良いでしょう。

クリスマスは喜びの時です。イエス様がこんな者のために来てくださったからです。この地に来てくださり、悪魔の力を打ち砕いてくださったからです。そして、今こんな者の中に住んでくださっているからです。そのことを皆さんと共に喜びたいと思います。

今日、私たちは先週に引き続きルカの福音書を読んでいますが、この箇所からもまた私たちはイエス様がこの地に来られた意味を知ることが出来ます。イエス様は、ご自分が祈っておられた祈りを弟子たちにも祈るようにとお教えになりました。それが「主の祈り」です。これを数週間にわたって学びましたが、それに続くところにこの箇所があることは、決して偶然ではありません。

「私たちを試みに会わせないでください」という祈りは、「しるしを求める」人々の誘惑を退ける祈りであるからです。先週読んだ箇所に次のように言われています。

11:14 イエスは悪霊、それも口をきけなくする悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、口がきけなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。 11:15 しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。 11:16 また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。

病気を癒す、悪霊を追い出すだけではイエス様が天から来られたことの証拠にはならない。あなたが神から遣わされているなら、その証拠を出せというのです。旧約聖書の時代にはモーセ、エリヤといった大預言者がいました。彼らは、万人が驚愕するような天変地異を主の御名によって行い、主こそがただ一人の神であることを顕わす働きをしました。「あなたが神から遣わされているのなら、あなたにもそれが出来る筈だ。それを行え、そうすれば信じるから」と言うのです。

しかし、イエス様はそれを行われません。何故でしょうか。出来なかったからでしょうか。そうではありません。人が驚愕するような天変地異を引き起こして自分が神の子であることを示す、それは、イエス様が伝道をお始めになるときからの悪魔の誘惑でありました。

4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。4:10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、4:11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」

人が大勢いるエルサレム神殿の頂きから飛び降り、御使いたちの手によって支えられ、空中を飛ぶようにして地上に降り立ったら、皆があなたを神の子と認めますよ。皆があなたの前にひれ伏しますよ。神の国を作るのも容易ではありませんか。そのような方法であなたが神の子であることを示したら良い。あなたにはそれができるのだから。これが悪魔の誘惑でありました。皆さんはどのように思われるでしょうか。

ここ20年ほど、日本では「宗教は危ない。宗教には近寄らないほうが良い」という声を聞くようになりました。それは、カルト的新興宗教が出て来て、信者をマインドコントロールして、その人生を破壊するという出来事が次々に起こったからです。そのほとんどのところで、教祖には超人的な力があると言われ、中には空中を浮かんでいるのを見たという人がいたりします。人を騙すために嘘の目撃証人を作ってまで、自分を偉く見せようとするのが、新興宗教の教祖と言われる人々です。

しかし、イエス様はそのようなことは行われないのです。それを行えば、人は驚き、自分を恐れるでしょう。自分の言うことを聞くでしょう。自分にひれ伏すでしょう。しかし、それによって人が救われることはないのです。

神の御子が自分自身を証明する方法は何か。それは、イエス様にとって最も重要な事柄でありました。神の御子の自己証明は、人を救うこと、その一点に集中しているのです。そのことを考えながら、イエス様はいつも祈っておられた。「試みに会わせないでください。誘惑に引き込まれないようにしてください」と。そして、イエス様が到達した答えは、自ら十字架にかけられて、死に、全人類の罪の贖いを成し遂げて三日目に甦らされること、であったのです。

今日の箇所で、イエス様は言われました。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。 11:30 というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」

ヨナというのは旧約聖書の時代の預言者です。紀元前900年頃からメソポタミアにはアッシリアという帝国が台頭します。暴虐と残虐の限りを尽くして周辺の国々を飲み尽くす、まさに悪の権化ともいうべき国がアッシリアで、イスラエルも圧迫を受け、やがてアッシリアに滅ぼされます。その首都がニネベでありました。イエス様が「ヨナのしるし」と言われたものが何であったのか、今日はヨナ書を開いてそれを聞き取りたいと思います。

1:1 アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。 1:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」 1:3 しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。

1:4 そのとき、主が大風を海に吹きつけたので、海に激しい暴風が起こり、船は難破しそうになった。 1:5 水夫たちは恐れ、彼らはそれぞれ、自分の神に向かって叫び、船を軽くしようと船の積荷を海に投げ捨てた。しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。 1:6 船長が近づいて来て彼に言った。「いったいどうしたことか。寝込んだりして。起きて、あなたの神にお願いしなさい。あるいは、神が私たちに心を留めてくださって、私たちは滅びないですむかもしれない。」

1:7 みなは互いに言った。「さあ、くじを引いて、だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったかを知ろう。」彼らがくじを引くと、そのくじはヨナに当たった。 1:8 そこで彼らはヨナに言った。「だれのせいで、このわざわいが私たちに降りかかったのか、告げてくれ。あなたの仕事は何か。あなたはどこから来たのか。あなたの国はどこか。いったいどこの民か。」 1:9 ヨナは彼らに言った。「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を礼拝しています。」

1:10 それで人々は非常に恐れて、彼に言った。「何でそんなことをしたのか。」人々は、彼が主の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた。ヨナが先に、これを彼らに告げていたからである。 1:11 彼らはヨナに言った。「海が静まるために、私たちはあなたをどうしたらいいのか。」海がますます荒れてきたからである。 1:12 ヨナは彼らに言った。「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」

1:13 その人たちは船を陸に戻そうとこいだがだめだった。海がますます、彼らに向かって荒れたからである。 1:14 そこで彼らは主に願って言った。「ああ、主よ。どうか、この男のいのちのために、私たちを滅ぼさないでください。罪のない者の血を私たちに報いないでください。主よ。あなたはみこころにかなったことをなさるからです。」 1:15 こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。 1:16 人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた。

1:17 主は大きな魚を備えて、ヨナをのみこませた。ヨナは三日三晩、魚の腹の中にいた。

主の預言者の中でヨナほど、内的に屈折し、主に反抗した人はいません。彼は、当時の世界帝国アッシリアの首都ニネベに行き、その罪を糾弾するようにとの命令を主から受けます。しかし、ヨナは主の命令を拒否して、地の果てまで逃げて行こうとするのです。それは、迫害を恐れたからではありません。最後の章に書いてありますが、ヨナは、ニネベの人々が罪を指摘されて悔い改め、主の救いがニネベにもたらされるようになることを知っていたのです。

悪魔を崇拝してきた人々に主の救いがもたらされるための働きなどに関わりたくないという思いが彼にはありました。ニネベは滅ぼされるべきであって、救われるべきではないと。人は、自分の思いが最善と思いやすいです。そして神様が自分の考えた最善のとおりに動いてくれることを望みます。自分を苦しめる者を裁き、滅ぼしてくれることを望む場合もあるでしょう。

しかし、神様の愛は深く大きく、私たちの理解を越えるものです。

自分の思いと神様の御思いが違っている時、私たちは神様が分からなくなり、神様から離れて行こうとする傾向があります。しかし、そんな私たちのためにも神様は救いの御手、導きの御手を差し伸べて下さっているのです。

ヨナを乗せた船は遭難し、その原因となったヨナは海に投げ込まれます。しかし、神様は大魚を備えてヨナを荒海からお救いになりました。神様から逃げて、自ら滅びの中に落ち込もうとしていたヨナを救った神様がいたのです。

2:1 ヨナは魚の腹の中から、彼の神、主に祈って、 2:2 言った。「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えてくださいました。私がよみの腹の中から叫ぶと、あなたは私の声を聞いてくださいました。 2:3 あなたは私を海の真中の深みに投げ込まれました。潮の流れが私を囲み、あなたの波と大波がみな、私の上を越えて行きました。

2:4 私は言った。『私はあなたの目の前から追われました。しかし、もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです。』と。 2:5 水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつきました。 2:6 私は山々の根元まで下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました。しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを穴から引き上げてくださいました。

2:7 私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。 2:8 むなしい偶像に心を留める者は、自分への恵みを捨てます。 2:9 しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。」

2:10 主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた。

人は、自分が正しい、自分の考えが最善であるという思いに駆られると、どんどん神様の御思いから離れていき、心は硬直化して行きます。そして逆に自分自身が苦しみのどん底に陥ってしまうのです。海に投げ込まれたヨナがまさにそうでした。「ニネベは滅ぶべきだ」との自分の考えを第一にし、主のご命令を無視したヨナは、溺死寸前の状態にまで落ち込んで行くのです。

その時、彼は主を思い出しました。彼は、主を忘れよう、忘れようとしていました。忘れようとしていたのですから、決して否定できない存在が主だったのです。しかし、苦しみのどん底で、彼は主を仰ぎ見ました。何か言えるような状態ではなかったかもしれません。ただ、自分の心を主のほうに向けただけだったかもしれません。

しかし、彼が心を向けた主は、憐れみに富む主、反逆者にも救いの手を差し伸べる主でした。主は大魚を備え、彼を救われます。その中で、彼は感謝の祈りを捧げました。「私は、主を思い出しました。私の祈りは、あなたに届きました。救いは主のものです」と。

どんなに遠くに逃げているつもりでも、溺死寸前の状態にあっても、すぐそばで、心の叫びを聞いておられる主がいたのです。

思い出すだけで良い。思い出すだけで、心の叫びが天に届くと言うのです。聞いて下さっている主がいるのです。

3:1 再びヨナに次のような主のことばがあった。 3:2 「立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。」 3:3 ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。 3:4 ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」と言った。

3:5 そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。 3:6 このことがニネベの王の耳にはいると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。 3:7 王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。 3:8 人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。 3:9 もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」

3:10 神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。

海の深みから救われたヨナに再び主の言葉がありました。主は、ヨナに以前命じられたと同じ働きをお与えになったのです。それは、ニネベがその罪のために滅ぼされるというメッセージを伝えることでした。今度は、ヨナは主の言葉に従い、ニネベに行って主の言葉を告げ知らせます。「あと40日でニネベは、滅びる」と。

すると、ニネベの人々は身分の高い者から低い者まで、さらに王まで全員が荒布をまとって断食し、悔い改めて神を信じるようになりました。彼らは、それまで偶像崇拝しか知らなかった訳ですから、彼らの悔い改めの方法や祈願の方法は、聖書の基準から見ると、ずれていたところもあったに違いありません。

しかし、主は彼らの努力をご覧になったと言います。外に現れる形式よりも、彼らの心を主はご覧になったのです。そして、彼らを憐れみ、滅ぼさないとお決めになりました。

私たちは、主の救いを得るためには、聖書の基準に100%従った悔い改めと信仰告白が必要であると、過度に思い込んでしまっているかもしれません。それまで聖書に触れたことがない人にとって、それは難しいことでしょう。しかし、主は、彼らが自分なりの方法で悔い改め、悪の道、暴虐の道から離れようとした、その努力と心を見て、滅ぼされなかったという言葉に、私たちは目を留める必要があると思います。

聖書の基準に生きることは大切なことです。しかし、その基準に満たない者にも主の憐れみは届くということを知ることも、さらに大切なのかもしれません。

4:1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、 4:2 主に祈って言った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。 4:3 主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。」

4:4 主は仰せられた。「あなたは当然のことのように怒るのか。」

4:5 ヨナは町から出て、町の東のほうにすわり、そこに自分で仮小屋を作り、町の中で何が起こるかを見きわめようと、その陰の下にすわっていた。 4:6 神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。

4:7 しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がそのとうごまをかんだので、とうごまは枯れた。 4:8 太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」 4:9 すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」

4:10 主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。 4:11 まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

ニネベの人々が主に立ち帰ろうと努力しているのを見て、主は彼らに災いを下そうとしていたことを思いとどまられました。しかし、このことがヨナを非常に不機嫌にしたと言います。ヨナには、ニネベの人々の悔い改めが十分でないと思われたのかもしれません。礼拝すべき方が「主」だけであるということをニネベの人々は知らず、偶像もまだ町の中に残っていたかもしれません。

彼は、主の憐れみに対して「甘い」との認識を持っていたようです。それで心の中で怒りが燃え上がりました。

そんなヨナに主はお語りになります。この右も左も分からない人々、真の悔い改めとは何かということも知らない人々を、主ご自身が創造し、育み、愛しておられるのだと。

ヨナは、自分の基準でニネベの人々を裁くだけでなく、主さえも裁き、怒りに満たされました。しかし、主の基準はヨナの基準とは違いました。主の基準は「愛」だったのです。

私たちは、自分の基準で人を裁き、神を裁き、そして自分を裁き、身動きができなくなっているのではないでしょうか。しかし、人が愛するに値しないと思うようなものも、主は愛して下さった。だから、私たちは救われるのです。救われたのであります。

+++

これが、イエス様がお語りになる「ヨナのしるし」です。右も左も分からぬ者たち、それは一体誰だったのでしょう。何が神様の方法なのか、どうすれば良いか分からない者たち、どうしたら神様のところに帰れるのか分からない者たち、それは私たちではなかったでしょうか。しかし、聖書の言葉を聞き、自分の過ちに気が付き、主の道を歩みたいと思った時に、こんな者たちを憐れみ、慈しんでくださる圧倒的な愛と命が私たちに注がれ、私たちを救ったのです。この神様の愛がこの悪の時代に示される天からのしるしなのです。

イエス様はこれを十字架と復活によって実現なさいました。それが、この時代に与えられる「ヨナのしるし」です。イエス様が神の子であることの証明なのです。全ての人に捨てられ、全ての人に否定され、殺される。全ての人の罪、私の罪、あなたの罪がイエス様を殺したのです。しかし、そういう者たちのために血を流し、罪の贖いを成し遂げることが、イエス様が神の子であることの証明だったのです。ここに神の愛があるのです。悪魔の力を打ち砕く神の愛の力がここに現されたのであります。

私たちには、イエス様によってもたらされた天からのしるしが見えているでしょうか。イエス様は言われました。「あなたの目が健全なら体全体が明るい」と。ここで言う「目」とは身体の目ではありません。単数形で書かれているので、心の目、霊の目を意味します。また、健全と訳されている言葉は、「一つ」とか「単純」という意味です。あなたの霊の目が一つなら、つまり、あなたの霊の目が一つのもの、この神様の愛、神様ご自身を見つめているなら、あなたの存在全体が明るい、ということです。その一つの目が窓となり、イエス様の光が私たちの存在全体を照らすからです。

私たちの心には幾つの目があるでしょうか。私たちの霊には幾つの目があるでしょう。私たちの目は何を見ることを願っているのでしょうか。神様でしょうか。金でしょうか。暮らしぶりでしょうか。人からの賞賛でしょうか。あるいは芸術でしょうか。

神様がただ一つの目をもってわたしを見つめよ。わたしを求めよ。と仰る時に、私たちも一つの霊の目を持つものになりたいと思います。どうしたら、一つの目を持つことが出来るようになるのか、私たちにはその方法は分かりません。しかし、右も左もわからないニネベの人たちが神様からの滅びの警告を聞いて悔い改めた時に、溢れる恵みを注いで彼らを慈しみ、赦し、救われた神様は、一つの目を開いてくださいと祈る私たちの祈りの声に答えてくださらないでしょうか。

主は、私たちに一つの目をお与えになります。分裂した私たちの心を一つにしてくださる方がいる。この目がはっきり見えるようになり、そこに立っておられるイエス様を見ることが出来るのです。私たちの目を開いてくださる方がいます。この方が私たちの中に満ち溢れる光を満たしてくださるのです。

エペソ5:8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

祈りましょう。


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