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ルカの福音書講解(82)第17章11節~19節

岩本遠億牧師

2013年5月26日

神を知られ、神を知る喜び
ルカの福音書第17章11節から19節
岩本遠億

17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。 17:12 ある村にはいると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。 17:14 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。 17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、 17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。 17:17 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。 17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」 17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

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日本では1990年代に入ってから「癒し」とか「癒し系」という言葉がブームのように使われるようになり、社会に定着しました。この癒しブームというのは、バブル崩壊以降、社会的にストレスを感じることが多くなった人々がストレスを軽減させてくれるものを「癒し系」と呼ぶようになったことから起こったと言われています。ほんわかした雰囲気の人を「癒し系」と呼んだり、「癒し系のペット」がいたり、「癒しグッズ」と呼ばれるものまであります。最近ではもう少し神秘的な雰囲気を出すために「ヒーリング」という英語が音楽やアロマセラピー、スピリチュアルカウンセリングなどで用いられています。

このように一時的なストレス軽減を「癒し」と呼ぶ現代日本社会は、恒久的な人間存在に関わる「癒し」は求めても手に入らないという人々の諦めを反映したもののように思えます。

では、恒久的癒し、人間の存在を根底から癒す癒しとは何か。私たちが今毎週礼拝を捧げるために集まる早稲田奉仕園には、以前伊藤早奈先生という方が勤務しておられました。この方は、高校生の時洗礼を受け、早稲田奉仕園に就職なさいましたが、26歳の時、脊髄小脳変成症という進行性の難病を発病しました。いずれ歩けなくなる、手も動かせなくなる、声も出なくなるということが運命付けられた病気だということを知り、深く苦しみました。

彼女は、カウンセリングを勉強するために東京三鷹市にあるルーテル学院大学に入りました。牧師が向き合ってくれたと言います。しかし、そのままの自分を神様が愛してくれていることを実感できるようになるまで2〜3年かかった。

体が治ることと癒しは違う。癒しとは、神がそばにいてくださるということを知ること、そして、そのままの自分を生きる勇気をもらうこと。そのままの自分で立ち上がること。向き合わなければならない自分よりもさらに近くにイエス様がいて支えてくれる。まさに、自分よりも近くに神を見出す、これが真の癒しであるということをおっしゃっています。

その後福音ルーテル教会の牧師となりますが、最初は老人ホームで説教や勧めをしておられました。車椅子に乗っておられますが、自分で車を運転して活動しておられました。しかし、いずれ自分で動くことができなくなる。声を出すこともできなくなる。説教もできなくなるときが来る。しかし、何も言えなくなったときも、私がそこにいるだけで神様が働いてくださる。そこで行なわれる神様の業がある。そのことを信じることができる。そのようなお話しをしておられます。

今日、私たちが開いた聖書の言葉の中には体の病を直していただいた10人の人の中で一人だけがイエス様のところに帰って来たということが書かれています。私は、何故9人は戻って来ず、1人だけが戻って来たのか、そのことを理解することが重要だと思います。単に、体を治していただいたのだから、感謝するために戻って来なければならないと律法的にこの箇所を理解してはならないと思います。何故、この人だけが帰って来たのか。

イエス様がこの地上を歩かれた時、今のイスラエルの地域は、大きく3つに分割されていました。エルサレムを中心とするユダヤ、ガリラヤ湖を中心とするガリラヤ、そして、ユダヤとガリラヤの間にはサマリヤという地域がありました。ユダヤには保守的なユダヤ人たちが住み、ガリラヤには進歩的、自由主義的なユダヤ人が住んでいましたが、その間のサマリヤは、ユダヤ人と他の民族とが混合したところでした。元々旧約聖書の時代にはバアル信仰という偶像崇拝の中心地であり、新約の時代にもローマ皇帝に捧げられた神殿があるなど、ユダヤ人とは敵対関係にあるのがサマリヤでした。

イエス様は、そのガリラヤとサマリヤの境を歩かれたということですから、敵意や憎しみがあるところを歩かれたということです。しかし、ある村に入られると、そこに酷い皮膚病にかかった人が10人いました。これは今のハンセン氏病と全く同じであった訳ではなかったと言われますが、社会的には隔離され、差別され、一般社会人との接触を禁じられた病でした。道を歩く時には、自分のことを「汚れている。汚れている」と言いながら歩かねばならず、人の風上に立ってはならないと決められていました。

そのような人たちが10人集まって隔離生活をしていました。そこにはユダヤ人とサマリヤ人との違いはなく、ただ汚れているということだけが彼らを一つにし、共同生活を行なわせる力となっていたのです。

彼らは、イエス様がこの村に入られた時、遠くからイエス様の名を呼びました。「イエス様、先生。私たちを憐れんでください」と言いました。イエス様には病気を治し、悪霊を追い出す力があると聞いていたのでしょう。彼らは、この汚れた病から清められることを願いました。しかし、ここで注意しなければならないのは、「イエスよ。先生」と呼びかけていることです。新約聖書の他の箇所を読みましても、この当時霊的な力で病気の治療を行なっていたのはイエス様だけではなく、パリサイ人の仲間にもそのような人たちがいたことが分かります。この酷い皮膚病にかかった人たちは、イエス様をそのような霊能者の一人として助けを求めた訳です。

イエス様は、彼らを深く憐れんで、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われました。律法によれば、このような酷い皮膚病は、祭司が隔離検査した上で発病を宣言し、また、同じように祭司による検査によって完治が宣言されていました。イエス様は、自分の体を祭司に検査してもらいに行きなさいとおっしゃいましたが、祭司は、エルサレムを中心とするユダヤに住んでいます。ガリラヤとサマリヤの境からユダヤまでですから、かなりの距離があります。直線距離でも歩いて二日以上の距離です。彼らはイエス様の言葉を聞いて歩き始めました。信じて行動したのです。すると、彼らの病は清められた。病気は治ったのです。病気を治すイエス様の力がこの10人の人たち全員に注がれました。

しかし、その中の一人だけが自分の病気が清められた、治ったことが分かり、大声で神を誉め讃えながら、イエス様のところに帰って来たのです。そして、その足許にひれ伏して感謝した。ひれ伏すというのは、礼拝の姿勢です。イエス様を礼拝したのです。先ほどは、「イエス様、先生」と読んでいたものが、イエス様こそ神であるということを知ったのです。大声で神を誉め讃えながら帰って来たとありますが、叫び出さずにはいられない大きな喜びが満ち溢れた。神ご自身が自分を見出してくれた、自分は神を見出した。全存在が全く造り変えられる経験をこの人はした。そして、その神、自分の神となって下さったイエス様のところに帰らずにはいられなかったのです。

一方のユダヤ人の9人は、イエス様のところには帰って来なかった。彼らも自分の体が治ったことは分かったに違いありません。しかし、彼らは自分の体を祭司に見せ、祭司のお墨付きをもらうことを優先しました。彼らにとってイエス様はあくまでも霊能者の一人であって、この方を自分の神だとは認めなかったのです。ユダヤ人たちは、酷い皮膚病にかかって社会から隔絶されていたけれども、自分がアブラハムの子孫であり、神の民であるという意識を持っていたからかもしれません。エルサレムにいる祭司のところに行って、清められた証明をもらい、エルサレム神殿に捧げ物を捧げ、礼拝しようと思っていた。しかし、そのような固定的、律法主義的な信仰ではイエス様のところに戻ることはできなかった。真に礼拝すべき方を見出すことはできなかったのです。

しかし、このサマリヤの人はユダヤ人ではありませんでした。彼は清められても、エルサレム神殿で捧げ物を捧げ、礼拝することはできません。9人の人たちが、祭司に体を検査してもらって清められたことが確認されたら、神殿に行って捧げものを捧げよう、そうして社会復帰しようということを話し合っていた時、彼は、自分が礼拝すべきところ、礼拝すべき方はどなたかということ考えずにはいられなかった筈です。彼は、自分が真に礼拝すべきお方は誰か、それに気が付いたのです。自分が礼拝すべきなのは、神殿ではありません。形式的に捧げ物をすることではありません。

自分の存在を根底から癒し、救ってくださったお方、イエス様だけが礼拝すべきお方なのだ。この方が、私を見出してくださった。私もこの方を見出した。この方こそ、私の神、この方こそ、私が礼拝すべきお方。このことが本当に分かった時、彼は叫ばずにいられませんでした。大声で神様を誉め讃えずにいられませんでした。そして、イエス様のところに帰って来て、イエス様を礼拝せずにはいられなかったのです。

イエス様は、彼を喜ばれました。そして、言われました。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」「治したのです」と訳されている言葉は、単に体の病気の治癒だけを意味するものではありません。他の9人も治ったのです。ここでは、全存在的な癒し、全存在的な救いということをおっしゃっている。「あなたの信仰が」とおっしゃっている。それは、イエス様こそ神だ。この方こそ、自分が礼拝すべきお方だということが分かったということです。そしてこの方のところに戻って来た。

私たちも同様です。イエス様の力に触れる、イエス様の御霊に触れるという経験をすることがあります。しかし、それが単なる一時的な経験に止まるなら、あの時は感動した、あの時は病気が治ったということで終ってしまうでしょう。勿論、それだけでもものすごい経験です。イエス様はこの世で生きる力を与えてくださる。しかし、この方以外に自分が戻るべきところはない、他のところには自分が礼拝すべきところはない。この方の足許こそ自分が礼拝を捧げる場所である。このことを知るとき、私たちには真の信仰が与えられるのです。「あなたの信仰は立派だなあ。素晴らしい信仰だなあ。その信仰によって、あなたは救われたのだ」とイエス様が喜んでくださるような関係が与えられるのです。

私たちの霊の目が開かれ、この方こそ、真に礼拝すべきお方、この方こそ真の神であることが分かる時、私たちの全存在が変わるのです。

祈りましょう。


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