「ルカの福音書」 連続講解説教

「神はこの命を愛してくださっている」

ルカの福音書第4章1〜13節
岩本遠億牧師
2022年1月9日

“さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、
四十日間、悪魔の試みを受けられた。その間イエスは何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。

そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」イエスは悪魔に答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」イエスは悪魔に答えられた。「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」

また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから下に身を投げなさい。『神は、あなたのために御使いたちに命じて、あなたを守られる。彼らは、その両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」するとイエスは答えられた。「『あなたの神である主を試みてはならない』と言われている。」

悪魔はあらゆる試みを終えると、しばらくの間イエスから離れた。”
ルカの福音書 4章1~13節

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イエスが宣教を始める前の悪魔の試み

誤解:聖霊に満たされたら、悪魔の誘惑を感じることはない。誘惑を感じるのは聖霊に満たされていないからだ。

さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダンから帰られた。そして御霊によって荒野に導かれ、四十日間、悪魔の試みを受けられた。イエスは聖霊に満たされてヨルダンからガリラヤに帰った。

聖霊に満たされているからこその試み、誘惑

あなたが神の子なら=あなたは神の子なのだから

第一の試み、誘惑←イエスが飢えで命の危険が近づいていた時

そこで、悪魔はイエスに言った。「あなたが神の子なら、この石に、パンになるように命じなさい。」イエスは悪魔に答えられた。「『人はパンだけで生きるのではない』と書いてある。」

申命記8:3の言葉で悪魔の誘惑を退ける

「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのもので生きる。」

誤った理解
×体のいのちを支えるパンだけでなく、霊を生かす神のことばを聞く必要がある。
×体は飢えていても、神のことばを聞いているから大丈夫。

誤解の根=霊肉二元論の考え

申命記第8章2〜6節
あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられたすべての道を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試し、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの父祖たちも知らなかったマナを食べさせてくださった。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の御口から出るすべてのもの(意訳:ことば)で生きるということを、あなたに分からせるためであった。

この四十年の間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。

マナは、神の口から出た食物であった。

イエスが受けた第一の試み、誘惑:餓死の危険が迫った時

自分のいのちの必要を自分で満たせば良い
=神様に自分の命を預けなくても良いのではないか?自分の命を第一にし、それを自分で守るからこそ、神の働きが十分にできるのではないのか?

イエスの答え
=神の口から出る全てものが、この体の息(=いのち)、この全存在を生かす。
=神はこの体のいのちを愛し、これが失われないよう守ってくださっている。

マタイの福音書 16章24~26節

“それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う(手放す・握りしめない)者はそれを見出すのです。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。”

マタイの福音書 6章25~34節

“ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。

なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。

ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。”

私たちのこの肉のいのちを、私たちが大切にする以上に愛し、大切にしてくださっている天の父がいることを知れ!

主イエスが自ら十字架に向かっていかれた理由もここにある。

命よりも大切なものを知る
=自分の創造者、天の父を知る
=このお方が私たちのいのちを、わたしたちが大切にする以上に大切にしてくださっていることを知る。
=この体が死んでも、それをそのままにしないお方(甦らせてくださるお方)がいることを知る。

“私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。

私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。”

ローマ人への手紙 14章7~8節

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