「マタイの福音書」連続講解説教

あなたにも安息日は来る

マタイの福音書第12章9節〜21節
岩本遠億牧師
2020年6月28日

イエスはそこを去って、彼らの会堂に入られた。すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」それからイエスはその人に「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は元どおりになり、もう一方の手のように良くなった。パリサイ人たちは出て行って、どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた。イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると大勢の群衆がついて来たので、彼らをみな癒やされた。そして、ご自分のことを人々に知らせないように、彼らを戒められた。これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」マタイの福音書 12章9~21節

安息日のイメージ
 王の宮殿と農園で働いている人々が、毎週金曜日の夕方に王宮に招かれ、王と一緒に食事をし、そのまま王宮に泊ま流。次の日、夕方になるまで、ご馳走をたくさん食べながら、王と話をして悩みを聞いてもらったり、教えてもらったりして心の平安を取り戻す。王宮で昼寝をしたり、ゆっくり楽しんで、元気を回復する。
 夕方になったら、自分の家に帰り、次の朝から6日間働いたり、自分のことをしたりする。

安息日論争

人命救助と安息日遵守のどちらを優先すべきか?
人命救助を優先するとの決着→紀元150年ごろ
イエスの時代は、論争の時代

この会堂での出来事=片手の萎えた人(脳卒中か脳梗塞か)をネタにパリサイ人たちが安息日論争をイエスに仕掛けてきた。「あなたはどちらの立場か?」

イエスの怒り(マルコの福音書)=人の苦しみをネタに論争をすること
                人よりも神学論争を大切にすること

苦しみの中にある=安息はない
片手が萎えている=働くことができない
そもそも6日間働く(創造の業)ことができない
→安息日は永遠にやってこない

病んだ人たちを安息日に癒す
→6日間働く(創造の業)ことができる
→真の安息日の休みに入れる

パリサイ人たちが自分を殺そうとしている状況の中で、ご自分のところにやってきた病む人々を全員癒された。
→命がけの癒し

傷んだ葦=パピルス職人が折って捨てるもの
くすぶる灯芯=燃え尽きようとしているランプの芯
→役に立たず捨てられる

神は、人が捨てる者を捨てることはない。癒して、再び用いる

さばく krino=選ぶ、区別する、分離する→判断する、裁く、

人の裁きの動機と目的=支配欲
人間の罪の根源=自分が善悪の基準

自分=善、正しい
あなた=悪、間違っている

裁く=分離する→私は上、あなたは下
           人を排除する
自分の支配欲実現のために律法を利用する→パリサイ主義の病根

神の裁きの動機と目的=救い

神の裁き=公正
高ぶる者を低める
低められた者を高める

「人間すべて塞翁が馬」の世界観ではない。
(悪いことの後に良いことが、良いことの後に悪いことがやって来る。世はその繰り返し)

高慢のまま→滅んでしまう。
神の前にひれ伏すことができるようにして、救う。

低められた者→救い、キリストの栄光を与える。

神の願い=全ての人の救い

裁き=救い
ダビデの祈り:
私を裁いてください。主は諸国の民にさばきを行われます。私の義と私にある誠実にしたがって主よ私をさばいてください。どうか悪しき者の悪が後を絶ちあなたが正しい者を堅く立てられますように。正しい神は心の深みまで調べられます。詩篇7

なぜ、大勢の群衆がイエスの後をついてきたのか?
神の安息に入れない人が大勢いたから。

傷のついた葦、くすぶる灯芯として、パリサイ人たちから、社会から捨てられていた人たちが大勢いたから。

イエスは、彼らを全員安息日に癒し、彼らに真の安息を与えられた。
キリストこそ、安息日の癒し主 あなたに真の安息を与える方

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