「ルカの福音書」 連続講解説教

あなたに安息を与えるために

ルカの福音書講解(70)第13章10節〜17節
岩本遠億牧師
2013年2月24日

13:10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。 13:11 すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。 13:12 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました。」と言って、 13:13 手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。

13:14 すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に言った。「働いてよい日は六日です。その間に来て直してもらうがよい。安息日には、いけないのです。」

13:15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。 13:16 この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」

13:17 こう話されると、反対していた者たちはみな、恥じ入り、群衆はみな、イエスのなさったすべての輝かしいみわざを喜んだ。

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先日、ある学生から質問されました。「キリスト教の礼拝というのは、クリスチャンでなくても行って良いものなのでしょうか。ただ見に行くということは許されるのですか。」皆さんは、このような質問にどのようにお答えになるでしょうか。私たちは一人でも多くの方々がイエス様に出会い、救われ、神の子としての人生を歩いてほしいと願っていますので、「礼拝は、どんな人が来ても良いのですよ。是非お出で下さい」と答えますね。

しかし、一度だけ礼拝を覗きに来るというのと、都合が良ければ来るというのと、毎週来る、あるいは毎週礼拝に行こうという心構えでいるとでは、全く意味が違って来ます。毎週礼拝に来る、あるいは毎週礼拝するようになると、その人のアイデンティティが礼拝と結びつくようになる。礼拝によってその人のアイデンティティが特徴付けられるようになる。礼拝者としてのアイデンティティが一人一人の中に確立して行くようになります。

つまり、礼拝が一人一人の存在の基盤となる。これなしには生きて行けないものとなる。それほど礼拝はクリスチャンにとって大切なものであるのです。先ほどの学生の質問は、「礼拝は、クリスチャンとそうでない人を区別するものではないのか」という意味であって、本質をついたものであったと思います。そこまで深く考えておられたでしょうか。

勿論、いろいろな事情で礼拝に出席できない時があります。そのような時は、礼拝の日には特別の時間をとり、一人だけでも礼拝を捧げることが必要です。礼拝において神様との深い交わりを頂く、いのちを受ける、力を受ける、祝福と喜びを受けるということを毎週体験することは、クリスチャンとして生きて行く上でまさに不可欠なのです。水泳をする時には、規則的に息継ぎをしないと、長く泳ぎ続けることはできません。礼拝はまさに息継ぎの時なのです。

このことを理解した上で今日の箇所を読むなら、イエス様が安息日に為しておられることの意味、お語りになっておられることの意味も良く分かるようになると思います。

「13:10 イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた」とあります。今まで礼拝の話しをしてきましたが、ここでの話題は安息日のできごとです。礼拝と安息日は同じなのか、違うのか。

安息日は、そもそも旧約聖書に記されている天地創造に由来するもので、モーセをとおして与えられた十戒によって制定されたものです。金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日で、この日に一週間のうちで最も重要な礼拝が行われます。

創世記2:1-3「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」

出エジプト記20:8-11 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」

神様はイスラエルを他の民族から聖別して宝の民となさったと言います。そして、彼らを聖別する方法が、安息日における彼らとの交わりだったのです。神様との交わりにおいて彼らにいのちを与える。元気にさせる。安息日には3度の食事(普段は2食)と純粋なワインを飲むように、また、奇麗な服装で身を包むことになっていたそうです。それは、安息日を喜びの日とするためです。

神の民とそうでない者たちとの違いは、安息日を守るか否かということにかかっていました。実際、聖書に記録されているイスラエルの歴史を見ると、安息日を守らないことは偶像崇拝者になることでありました。それによってイスラエルは他国の支配を受けるようになったのです。

ですから、神様は、イスラエルに対して安息日を守るようにとの厳命をお与えになりました。全ての労働を休めと言われる。それは、神様の祝福を受けるためであり、神様が聖別されたこの日の中で、人が聖別されるためなのです。礼拝者としてのアイデンティティをイスラエルの中に確立するためです。

しかし、何もしてはいけないという律法が形式化すると、本来の安息日の趣旨、すなわち神様の御思いからずれて行く。安息日遵守と人命救助という働きのどちらを優先すべきかという議論があったと言います。律法主義に陥ると、本当に大切なことは何か、神様が求めておられることは何かということが分からなくなる。イエス様は、このような律法主義と命がけで戦われたのです。以上が安息日についての簡単な説明です。

一方、キリスト教徒の多くは日曜日に礼拝を持っています。それは、イエス様が日曜日に復活なさったからです。復活なさったイエス様を礼拝する日として最も相応しいのが日曜日です。パウロによる地中海伝道で、ユダヤ人以外の人々がクリスチャンになった。ユダヤ人でない人たちは安息日を守らなければならないという律法の外にありますから、キリスト教徒は安息日ではなく日曜日に礼拝を持つようになった。私たちキリストの平和教会では、ほぼ毎週1曲は主イエスの復活の賛美を歌います。今日も歌いました。それは、死を打ち破って復活なさったイエス様を礼拝するのが日曜日の礼拝だからです。私たちはそのことを大切にしたいと思います。

そして、ユダヤ教徒が1週間に一度安息日を守るように、キリスト教国では礼拝の日である日曜日を休日としました。日曜日が休日だからクリスチャンは礼拝に集まるのではありません。日曜日が礼拝の日だから、休日になったのです。

このようにクリスチャンは日曜日を安息日にしたわけですが、それならば、もっと私たちは日曜日に休まなければなりませんね。礼拝に来て、いろいろな奉仕をし、会議をし、活動をして疲れ果てて帰るなどということがあってはならないと思います。礼拝の後、疲れているのは牧師だけで十分です。他の方々には元気になって、休みを得て帰って頂きたい、それが私の願いです。

牧師は、クリスチャンに取っての安息日である日曜日に最も重要な働きをします。日曜日だからこそ働くのです。それは、礼拝に集う方々にいのちを得て頂くためです。神様が与える平和と安息の中に入って頂きたいからです。イエス様は、「あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか」と言われました。これは、牛やろばを休ませ、そのいのちを守るために、それを飼う者たちが働くということです。

神様が安息日を制定なさったのは、何もさせないことが目的なのではなく、彼らを聖別し、いのちを得させることが目的であったのです。

聖書を読むと、イエス様はたまたま安息日に病人を癒されたのではないということが分かります。律法主義者、パリサイ人たちから攻撃されることは分かっていながら、わざわざ安息日に癒しの業をなさっておられたのです。なぜイエス様はわざわざ安息日に病人を癒しておられたのか、もうそのことはお分かりかと思います。安息日にこそ安息に入れさせなければならないからです。病気の霊、悪霊に苦しめられている人たちから、病霊、悪霊を追い出し、彼らを休ませる、彼らに平安を与える、安息を与えることは、イエス様が絶対に行わなければならないことだったからです。

聖書は言います。2:1-3「こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。」

しかし、人は悪魔の囁きに耳を傾け、罪を犯しました。完全であった神様の創造の業が壊されたのです。イエス様は、この創造の業をもう一度完成するためにやって来られました。皆さん、創世記に神は六日間で天地創造の業を行い、七日目に休まれたとありますが、八日目、九日目ということが語られているでしょうか。聖書のどこにも語られていないのです。アダムとエバは、まさに安息日である七日目に罪を犯しました。神様は、安息日に彼らと交わりを持つために彼らのところにやって来られましたが、彼らは神様の目を避けて隠れました。

罪とは、安息日に神様との交わりを持つことを避ける心、すなわち、神様を礼拝しないようにする心であったのです。人は罪を犯し、安息日を壊しました。神様は、壊された安息日を再び完成するまでお休みになることはないのです。神様にとってそれが完成するまで七日目は終らなかったのです。いや、まだ終っていないのです。神は天と地を六日間で創造し、七日目に休まれたという言葉を、私たちが日常的に使っている1日24時間という概念でとらえようとすると分からなくなります。象徴的な言葉が使われているのです。まだ七日目は終っていない。七日目における完全な安息が完成するのは、聖書の最後、黙示録に預言されているように、悪魔が完全に滅ぼされ、新しい天と地が作られるときです。

ですから、イエス様はこの地上の生涯では休むことがなかった。イエス様が休まれたのは、あの十字架の上で「贖いの業を完了した」とおっしゃり、頭を垂れて死なれた時です。それまでは、休むことがなかった。そして、あえて安息日に癒しの業を続けられたのです。それがなければ安息日の完成はないからです。

今日の箇所には、18年間も病気の霊に取り憑かれ、体が曲がったままになっていた女性がいました。イエス様は、この女性をお癒しになりますが、その時、どのような状況があったのでしょうか。

当時のユダヤ会堂について書かれていたものを読んでみると、男性の席と女性の席は分けられていたようです。そして、男性の席では、誰が上席に座るかということで競争があり、中には、上席を金で買っていた人までいたということです。イエス様が教えておられたところの周りには、上席を好む高慢な偽善者たちが陣取っている。

この女性はどこにいたのでしょう。上席を好む人たちからは見えないようなところにいたのではないでしょうか。体が曲がってまっすぐに座ることもできなかった。余程注意深く見なければこの人がそこにいるということは分からなかったのではないのでしょうか。この人がここにいるということをどれだけの人が気にかけていたのでしょうか。

この会堂管理人は、この人の存在を完全に無視しています。この女性は、イエス様に癒され、神様を誉め讃えていました。しかし、会堂管理人は彼女を無視し、彼女に向かって語らず、人々に向かって語るのです。「直してもらいたいのなら別の日にしなさい。安息日は駄目だ」と。律法主義は、人を見なくなる。人の存在を無視するようになるのです。

しかし、この女性はどうだったでしょうか。彼女は体が完全に曲がっていたと言います。単に年をとって腰が曲がったということではありません。脊椎の病気だったのでしょう。歩く時はどうしていたのでしょうか。歩くのも困難だったのではないでしょうか。杖をつきながら、本当に少しずつ進むことしかできなかったのではないでしょうか。

彼女の家から、この会堂はどのぐらい離れていたのでしょうか。隣だったのでしょうか。すぐ近くに住んでいたのなら、会堂管理人が彼女を無視することはないと思います。彼女は、苦労して、かなりの時間をかけ、痛みに耐えながら、会堂にやって来たのではないでしょうか。

何故でしょうか。何故そこまでして礼拝に来ていたのでしょうか。彼女は不自由な体、痛みの中で18年間、安息日の礼拝に来ていました。何故でしょうか。彼女は、礼拝を愛していたからではないでしょうか。神様を愛していたからではないでしょうか。体の痛みに耐え、困難を乗り越えてやってくる価値が礼拝にあることを彼女は体験的に知っていたのではないでしょうか。だから、毎週来ていたのです。この時だけではありません。礼拝がこの人のアイデンティティとなっていた。イエス様は言われました。「この人はアブラハムの娘である。神様の約束の娘である」と

イエス様は、この人の姿の中に、それをご覧になったのです。そして彼女の目を見て、呼び寄せられました。「こちらに来なさい」と。彼女は隅の席から立ち上がり、ゆっくりゆっくり、杖をつきながら、イエス様のほうにやって来ました。イエス様は彼女の目を見ておられ、彼女もイエス様の目を見ながらやって来ました。

イエス様は、この人に語りかけられます。「ギュナイ」と。これは新改訳聖書には訳出されていませんが、欄外の注に「ギュナイ」という言葉があると記されています。「ギュナイ」とは女性に話しかける時に使う言葉ですが、イエス様がこの言葉をお使いになる時、「あなたは尊い存在です」という思いを込めてお語りになっています。「あなたはアブラハムの娘、神様の約束の娘、尊い存在です」とお語りになっているのです。

そして言われました。「あなたの病気はいやされました。」この言葉は、「あなたはすでに病気から自由にされています」というのが本来の意味です。イエス様の御声を聞き、イエス様に呼び寄せられ、イエス様のところまでやって来ました。もう病気の霊は彼女を支配することはできなかった。イエス様が彼女を招き、彼女がそれに応えた時、悪魔は彼女から逃去ったのです。そして、イエス様は彼女の上に手をおいて癒されました。

皆さん、皆さんは今日どのように礼拝に来られたでしょうか。毎週、どのように礼拝に来ておられるでしょうか。礼拝に来るために、多くの犠牲を払っておられる方がいらっしゃいます。礼拝を第一にするために仕事を犠牲にした人もいます。具合の悪い中、歯を食いしばるようにしてやって来ておられる方もいらっしゃいます。イエス様はあなたのその姿を見ておられます。あなたのその心を知っておられます。イエス様が「わたしのところに来なさい」と招いてくださっている。その声を聞いて、立ち上がり、イエス様のほうに歩き始めた時、あなたを縛っていた悪魔の力は切って落とされたのです。イエス様はあなたに向かって言っておられるのです。「あなたもアブラハムの子だ。約束の子だ。尊い存在だ」と。あなたは自由にされたのです。イエス様があなたを癒してくださるのです。神様を誉め讃える生涯が始まるのです。

祈りましょう。

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