「マタイの福音書」連続講解説教

あなたの教師は誰か?

マタイの福音書23章1節〜12節
岩本遠億牧師
2021年4月25日

“そのとき、イエスは群衆と弟子たちに語られた。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうともしません。彼らがしている行いはすべて人に見せるためです。彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。宴会では上座を、会堂では上席を好み、広場であいさつされること、人々から先生と呼ばれることが好きです。しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上で、だれかを自分たちの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただ一人、天におられる父だけです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただ一人、キリストだけです。あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。”マタイの福音書 23章1~12節

先生=ラビ(rabbi)=我が尊師
父=宗教指導者を「父」と呼んでいた。

すべての人に永遠の教師が必要である
すべての人に永遠の父が必要である。
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永遠の教師がいる。永遠の父がいる。

「ラビと呼ばれたい。」「父と呼ばれたい。」
=人と神との間に立って指導したいと思う
→人と神との直接の関係を阻害する。

律法(=モーセ 五書)は神から与えられたもの
→それを守れ

しかし、律法の教師のまねをするな。

例 「安息日を守れ」と教える。しかし、安息日に飢えた人がいても、彼らと食べ物を分かち合おうとはせず、彼らが麦の穂を揉んで食べると「それは、律法違反だ!」と言う。

「彼らは聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのです。」

申命記6:4〜9
6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。 6:6 私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。 6:7 これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。 6:8 これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。 6:9 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

マルコの福音書 10章42~45節

“そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められている者たちは、人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。

人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」”

古屋安雄『日本のキリスト教』
 何故、日本ではクリスチャンが増えないのか。何故いつまでたっても1%のままなのか。明治維新後、キリスト教が主にかつて支配階級であった士族たちに受け入れられていったことと無関係ではない。
 ごく僅かな士族たちが福音の担い手となったため、日本では、キリスト教が民衆の宗教になりえなかった。そして、それが教職と平信徒という他の国にはほとんど見ることのできない大きな階級的な差別を教会内に生み出した。そもそも、この「平信徒」という言葉自体が、教会のありかたを歪めている。教職も一人の信徒である。そこには、何の違いもない筈である。しかし、そのような悪しき伝統のため、信徒たちが支配される側に身を置かされることになり、自ら伝道していこうという意欲を持たずに来てしまっていると。

賀川豊彦の伝道論
 日本のキリスト教は、最初それが士族の宗教となったため、知識階級の宗教となった。そのために、牧師たちが難しい神学議論に現をぬかし、キリストの十字架の贖罪の愛を実践しなくなっている。
 「教理や教条の懐疑を、幾百万回繰り返したところで、愛の実践方法を討議しないところに、どうして人間の血を湧き立たすような生命宗教を発見することができようか。いわゆる今日の宗教大学が、みんな死に学問を教えているのは、教理や教条の高等批評に没頭しているからである。教理や教条は着物であって、生命ではない。それだから、真の宗教は、職業的宗教家を排して、信仰の民衆化を唱導する時に初めて、発見することができるのである。信仰を職業的宗教家のみに委託するとき、いつも宗教の堕落が始まる。」

すべての人に永遠の教師が必要である
すべての人に永遠の父が必要である。
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永遠の教師キリストがいる。永遠の父がいる。

「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」
マルコの福音書 10章42~45節

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