「ルカの福音書」 連続講解説教

あなたを探し求める神

ルカの福音書講解(75)第15章1節から10節
岩本遠億牧師
2013年4月14日

15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。 15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、 15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。 15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

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今日、聖書が私たちに語りかける最も重要なことは、神様はあなたを探し求めておられるということであります。私を探し求めておられるということであります。見つかるまで、決して諦めず、必ず見つけ出し連れ帰ってくださるということであります。

皆さんには、見つからなくなったら、必ず見つかるまで探し続けるものがあるでしょうか。どこででも簡単に手に入れることができるものであれば、あまり熱心に探しもせずに、新しいものを買うかもしれません。珍しいものでプレミアがついたりするものであれば、かなり熱心に探すかもしれません。

しかし、二度と手に入らないものでも、自分の心が離れたら、なくなったことにも気が付かないでしょう。私は、日本人がほとんど誰も行ったことのないパプア・ニューギニアのジャングルの中で生活し、そこで幾つか現地のものを手に入れて帰って来ました。その中でも現地の人が数十年前まで使っていた磨製石器は、珍しいもので、そんなに簡単に手に入れることができるものではありません。大学の研究室にある筈ですが、もう一年以上見ていません。明日研究室に行った時に確認しようとは思いますが、もしなくなっていたら、非常に残念ではありますが、それほど探さずに諦めるだろうと思います。他の物で代用できる物ではありません。しかし、私の本質と結びついていないからです。

しかし、どうでしょうか。家族が見つからなくなった、連絡が取れなくなったとなると、私たちの心は騒ぎ、何とか安否を確認しようとし、見つかるまで探し続けないでしょうか。

数年前、あるクリスチャンの婦人の息子がいなくなりました。年齢は40歳ぐらいでしたが、日本の社会に不適応で、うまく生きられず苦しんでいました。いつも家に帰って来る時間になっても帰って来ず、母親は警察に捜索願を出しました。数週間にわたって所属教会の方々が心当たりのところを探してくださいましたが、見つからず、数ヶ月が経ちました。

その母は、警察に行って、死亡した身元不明者の遺品の写真数千枚を一つ一つ見て、ついに自分の息子の下着の写真を見つけました。なぜ、見つけるまで探し続けたのでしょうか。それは、その母親にとって息子は自分の本質と結びついていたからです。自分のアイデンティティの一部が失われたままだったからです。

東日本大震災の津波で家族を失った方々も同様です。家族が見つからなければ、自分自身の一部が失われたままなのです。だから探し続けるのです。北朝鮮に娘のめぐみさんを拉致された横田滋さん、早紀さんも同様です。何故、絶対に諦めないのか。娘のめぐみさんは横田さんご夫妻の本質の一部だからであります。

他のもので代用がきくかきかないかということでは説明がつかないのです。自分の本質の一部となっているかどうか。ここに、今日の箇所を理解するための鍵があります。

15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

取税人というのは、神の民イスラエルの敵であり、支配者であったローマに代わってイスラエルから税金を取り立てていたイスラエル人であります。ローマ帝国の権威を傘に、不当に多額の税金を取り、豪奢に暮らしていたため、悪魔に心を売った神の敵と見なされていました。

また、罪人というのは、「地の民」(アム・ハ・アレツ)と呼ばれる人々でした。彼らは、他民族との混血や他宗教からの影響などを受け、律法を守らない者たちで、社会的には最下層に置かれ、正統的ユダヤ人からは憎まれ、家畜以下の存在、神の敵とされていた人々でありました。当然、パリサイ人、律法学者たらからは神の民イスラエルの範疇には入らないものとして見なされていたのが、「地の民」、この「罪人」たちであったのです。

だから、パリサイ人、律法学者たちはイエス様が彼らと交わりを持つことが理解できなかった。食事を共にするとは、単に会食するということではありません。最も親しい関係を表す行為で、その人たちの存在を全て受け入れるという意味でもあったのです。いやしくも聖書の教師であるイエスが、イスラエルの神の敵である地の民と深い交わりを持つなどということはあり得ない、そのように呟いた、批判したということです。

イエス様は言われました。15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、 15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。 15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

イスラエルは乾燥地帯です。草や水の少ないところで、羊飼いは羊を飼い、水や草のあるところに羊を導いて行くのです。檻の中で飼っているわけではありません。羊飼いは目を見張りながら羊を導いて行きますが、羊はすぐにあっちに行ったりこっちに行ったりする。羊は非常に目が悪く、かつ愚かな動物です。すぐに迷子になってしまう。しかも、自分を守る術を何も持っていないのです。オオカミなどに襲われたら、ひとたまりもありません。

羊は、自分を愛してくれる良い羊飼いの声にはついて行くけれども、羊飼いが良くないとすぐに散り散りになってしまうそうです。私は、小学校6年生の時にイスラエルに行きました。草がボソボソとしか生えていない荒野をバスで行っている時に、羊飼いの見習いをしていたという日本人伝道者の話しを聞きました。

羊たちは羊飼いの親方が声をかければすぐに集まって来て、親方の行く方向に一緒について来る。ある時、親方から羊を任され、親方は別のところに行ってしまった。見習いの羊飼いは、親方が羊たちに声をかけているように同じ言葉で羊を呼びますが、羊はどんどん散り散りになって行く。この人は、本当に羊を全部失ってしまうと思ったそうです。どんなに声をかけても、追いかければ追いかけるほど、どんどん遠くに行ってしまう。

彼は、どうすることもできなくなり、その場に跪き大声で祈ったそうです。大声で無我夢中で祈っている間に、彼自身が羊を失って親方から叱られたらどうしようという恐れる思いが、羊を大切に思う思いに変えられて行った。そしたら祈りが天に届いた。祈っている言葉がいつの間にか羊を呼ぶ言葉になり、気が付いたら羊たちが全部自分の周りに集まり、祈っている自分に顔を摺り寄せて来たというのです。彼は、それで羊の信頼を得て、見習いの仕事を続けることができたと言います。

イエス様は、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言われました(ヨハネ10:27)。また、言われました。「わたしは良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」(ヨハネ10:11)。

イエス様が良い羊飼いだから、羊たちはついて行く。しかし、その中に群れから逸れて行ってしまう者がいるということも、イエス様はおっしゃっている。羊飼いの声が聞こえなくなるようなことがあるからです。いやなことがあったり、大変なことがあったりすると、礼拝に来てもメッセージが全く耳に入らないということがあるのと同じです。また、誘惑に引きずられるということもある。目がひどく悪いのに、自分の思いで一杯になり、自分が思う方向が正しいと思い込み、そちらのほうに行き、羊飼いの声が聞こえなくなるということもあります。そして、群れからはぐれてしまう。しかし、羊飼いは、その羊を見つけるまで、探し続けるのです。

何故か。先ほども言いましたように、その失われた羊が羊飼いの本質の一部だからです。99匹羊が残れば良いということにはならないのです。この羊が失われたままであれば、この羊飼いの本質の一部が失われたままだからです。この一匹が見つかって初めて、羊飼いの喜びは完全なものとされるのです。

だから言われます。15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、 15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。 15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

また言われました。「女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。」

どの注解書にも書いてありますが、この銀貨というのはドラクマという銀貨で、1日分の賃金にあたるものだということです。貧しい女性にとって10枚のうちの1枚をなくすとは重大なことです。当時、貧しい人の家には窓はなかったか、仮にあったとしてもとても小さなものであったということです。だから、昼間でも明かりを灯して探し、家を掃いて、念入りに探すのだと。

しかし、それだけではありません。この10枚の銀貨というのは、10枚で1セットであったというのです。夫からの結納金として10枚の銀貨を繋いだ首飾りや髪飾りをもらっていた。その一枚がなくなったら夫からの贈り物が不完全なものとなってしまう。当時の女性にとって、夫は自分のアイデンティティの拠り所でした。自分のアイデンティティを表すものが欠けてしまう。だから、必死になって探すのです。見つかるまで探すのです。そして、

「15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

1匹の羊も、1枚の銀貨も、その持ち主の本質を構成するものだったのです。だから、見つけるまで探すのです。そして見つかったら、近所の人たちと大喜びする。その人の本質が完全なものとなるからです。喜びが満たされるからです。

この100匹の羊を飼う人も、10枚の銀貨をもっている女性も、神様を表しているのです。神様は一人の人が失われるということを、平気で見ていられる方ではないのです。一人の人が失われる時、神様の本質の一部が失われる。だから、神様は見つけるまで探すのです。その一人の人が見つかった時、神様の喜びが完全なものとなる。天に満ち溢れる喜びが湧き起る。

創世記に神様が人間を創造なさったときのことが書かれています。「神は人をご自分のかたちに創造された」とあります。ここで「かたち」と訳されている言葉tslmは、写真に写った姿、また、影という意味です。詩篇39篇6節にこのtslmが「影」と訳されています。「39:6 まことに人は影のように、さまよいます。」(口語訳聖書)

影とは本体のあるところ、いつもそこにあるもの。本体が行くところ必ず影も共について行く。神様は人をご自分の影として、いつもご自分のそばにあるもの、ご自分の姿を表すものとして創造なさったのです。しかし、人は神様から禁じられた善悪の知識の木の実を食べて罪を犯しました。そして、神様とともにあることを拒否し、神様の顔を逃れ、神様から離れたものとなってしまった。影が本体からはなれて、ふらふらと彷徨うようになってしまった。詩篇39:6「まことに人は影のように、さまよいます」とは、まさにこのことを述べているのです。

失われた人とはまさに、神様から離れた神様の影であります。神様はご自分から離れた影を取り戻すために、これを呼び、探し求めておられるのです。「人よ、あなたはどこにいるのか」と。

聖書は語りかけます。あなたこそが、その失われた影なのだと。神様の声も聞こえない、どこに行った良いのか分からない、どうしたら神様のところに戻れるか分からない。あなたは穴に落ち込んでいるかもしれない。イバラの薮に引っかかってしまい、身動きが取れず、怪我をしているかもしれない。自分で水も草も見つけることができず、弱り果てているかもしれない。しかし、神様はあなたを見つけるまで探し続けると。見つけたらあなたを肩に乗せ、大喜びで連れて帰ってくださる。みんなで大喜びしてくださると。

愛する者を失った人は完全ではあり得ない。そのことを最も深く味わわれたのは父なる神様であります。父なる神様は、愛するその独り子イエス様を十字架の上で失ったからです。人の罪を全部背負ってイエス様は十字架にかけられ、殺されました。それは父なる神様の御心でありましたが、御心が行なわれたからといって、神様は喜んでおられたのではありません。愛するイエス様を失うことは、神様ご自身が自分自身を失うことと同じだったのです。

だから、父なる神様は全人類の罪の呪いを受けて地獄の底に落とされたイエス様を地獄の底まで捜しに行かれたのです。聖書は、「イエスは甦らされた」と受け身形で語ります。イエス様は自分で甦ったのではありません。父なる神様が甦らせなさったのです。全人類に代わって地獄の底に行ったイエス様を捜しに地獄の底に行き、イエス様を甦らせなさいました。

失ったものを見つけるまで探し求めるお方、これが父なる神様のご性質なのです。先ほど、息子を失ったクリスチャンの母親の話しをしました。お母さんは息子を見つけるまで探し続けました。しかし、その息子もクリスチャンでした。私たちがよく知る人です。私たちが深く愛する人でした。この教会に来てくれたこともありました。彼と一緒に祈ったときのことを、わたしは決して忘れません。

純粋で傷つきやすく、また壊れやすい心を持った彼が行きて行く場所は、この地上にはありませんでした。しかし、地獄の底までイエス様を捜しに行かれた父なる神様は、彼を捜しに行かなかったでしょうか。彼を見つけなかったでしょうか。母親は言っていました。神様が見つけてくれた。だから私も見つけることができたと。

あなたを探し求めている神様がいるのです。あなたを見つけるまで決して諦めず、必ず見つける神様がいるのです。あなたを見つけた時、神様の喜びが完全なものとなり、その喜びがあなたの中に満ち溢れる。あなたは神様と一つとされるのです。

祈りましょう。

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