「マタイの福音書」連続講解説教

この石ころからでも

マタイの福音書講解説教(4)3章1節から12節
岩本遠億牧師
2006年7月16日

3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。3:2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。3:5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、3:6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

3:7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

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マタイの福音書を連続で学んでいます。いよいよイエス様の働きが始まるのですが、イエス様の働きの前に、その道備えをしたバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)の活動が記されています。今日は、そのことから学びたいと思います。

イエス様は、歴史の中に唐突に現われたのではなく、神様のご計画の中にあったのだと聖書は語りますが、その出現を道備えする者が現われるということも、その数百年前から預言されていました。マラキという預言書が旧約聖書の最後にありますが、「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ」と預言されています。

預言者エリヤと言うのは、旧約の時代、王妃が主導する偶像礼拝と不道徳によってイスラエルの民が退廃、堕落していた時に立てられた預言者で、ただ一人で王と王妃、そしてバアル神という偶像宗教に立ち向かって勝利し、民の心を神様に立ち帰らせた人です。

イエス様がやって来られたのは、罪の根源である悪魔を打ち砕くためであり、悪魔に縛られた人類をその縄目から解き放つためです。そのために十字架による罪の贖いをなし、復活によって勝利を得られました。私たちにとってイエス様がやって来られたのは、絶対的な神様の恵みであり、存在の回復、喜びでありますが、それは同時に神様に信頼して、その愛により頼んで、従って生きるか、それとも反逆を続けるか、態度を決めなければならない時でもあると言うのです。

ですから、神様はいきなりイエス様をこの世に送るのではなく、その前に私たちが神様の御心に従う心を持つことができるように導く働きをする者を送ると言うのです。それが、預言者エリヤの働きであり、その働きをする者として立てられたのがバプテスマのヨハネです。ここに神様の私たちに対する憐れみがあります。

今日は、バプテスマのヨハネの言葉から神様の御心を学びたいと思います。

(1)神様に立ち帰るべきこと。

ヨハネについて、この聖書の箇所で引用されているのは、イザヤ書40章の言葉ですが次のように言っています。3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。3:4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。

「荒野で叫ぶ者の声がする」と言っています。人のいない荒野、水のない、渇き衰えた地が荒野です。しかし、そこは物質によって満たされていないが故に、人の心は物質から切り離され、神様を求めるようになります。そこから声が叫んでいる。「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ」と。「主の道」とは物質的な道のことを言っているのではありません。私たちの心の中の曲がりくねった道、何が正しい神様の求められる道なのか、あるいは、何が間違った道なのかが分からなくなっているような混乱が私たちの心の中にある。否、正しくない、曲がった道だと分かっていても、それを自分でまっすぐにできないような状況が私たちの心にあるのです。それをまっすぐにする働きをするのがエリヤの働き、バプテスマのヨハネの働きです。

彼は、何と叫んだか。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言いました。「悔い改める」と訳してある言葉は、「神に立ち帰る」という意味の言葉です。「帰って来い。天の御国が近づいたから」と言うのです。それは、不道徳な行いをしていた者が、自分の決心で道徳的な生き方をしようとするということ以上の意味がありました。

まず、そこには、そもそも私たちは神様の側にいるものとして創造された貴い存在であるということを思い出させる力があります。神様のところこそ、私たちが存在すべきところ、神様と共に歩むために私たちは造られた。そんな貴い存在が私たち一人ひとりだと言っています。

そして、「帰って来い!」という言葉は、人の言葉ではなく、神様ご自身が私たちに向かって語っておられることだということを覚えたいと思います。これは、父が出て行った子どもに対して呼びかける言葉です。罪を犯して、神様を神様とも思わず、高慢になっている者たちに対して、なおこれを赦し、待ち続ける神様がおられる。「帰って来い」と今も呼び続けておられるのです。

神様との絆の中に生きることが、私たちの存在に永遠のアイデンティティを与え、永遠の平和と安らぎをもたらすのです。ここに私たちの永遠のホームがあります。私たちは、自分の家に帰るのに、ためらう必要はありません。そこには、あなたのための場所があるからです。あなたの帰りを待っている方がいるのです。

一方で、洗礼者ヨハネのこの言葉は、両刃の剣のように二者択一を迫りました。「天の御国、神の支配は近い」と。新しい霊の時代がやってくる。これまでのような神様を軽んじる生活はやめなさい。心を入れ替えて、新たな生き方をしなさい。それを望む者たちは、これまでの罪を告白し、水に浸って、それを洗い清め、古い自分に死になさいと教えたのです。

そのような意味で、ヨハネのバプテスマは、自分の決心による新たな正しい生き方の表明と言う意味がありました。この教えは、非常に強力な教えで、イスラエル全土に旋風を巻き起こし、地中海世界に大きな影響を与えました。確かにイエス様を迎えるための道備えとなったのです。

しかし、これは、人間が自分の決心と努力によって正しい生き方を志向するという、倫理的意識に訴えかける改革でした。ですから、古い自分に死んで、新たに生きなさいと言われても、どうしたらそうなれるかは教えられず、道徳的な行為の実践の教えに留まりました。私たちが真に必要とする存在そのものの転換、罪の子から神の子への生まれ変わりという解決は、イエス様によって与えられる聖霊と火によるバプテスマを待たねばならなかったのです。

ヨハネのバプテスマは、イエス様が行われる聖霊による新生、新たな創造とは異なったものです。ですから、ヨハネのバプテスマは、イエス様の御名によって行われるバプテスマとは意味が異なったのです。。

(2)この石ころからでも

ヨハネは、当時の宗教家たちに対して非常に厳しい言葉を投げかけます。

「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。3:8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。3:9 『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。3:10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

パリサイ人というのは、律法主義者とも言われますが、律法の形式的遵守を至上命令として、その根本にある神への愛、人への愛を忘れていました。さらに、律法に様々な解釈をほどこして、人々を支配し、雁字搦めにしていたと言われます。またサドカイ人とは、祭司の血統を継ぐもので、当時の上流階級、特権階級でした。動物や穀物、ぶどう酒などの捧げ物をすることによって神様に受け入れられると考え、その心は神様から離れていました。

彼らが共通して持っていた考えに、イスラエルの選民思想というのがありますが、自分たちは信仰の父アブラハムの子孫だから、救われているのだと、他の民族の人々は救われないのだという考えです。

しかし、ヨハネは言います。「良い行いの実、立ち帰りにふさわしい実を結ばせる命が、あなたがたの中にあるのかないのか、その命の存在の有無が最も重要なのだ。あなたがたは、この命を持っているのか。これは、アブラハムの子孫だからといって既に与えられているわけではない。これを与える神様との個人的関係においのみ与えられるのだ。この命を創造なさる方がいる。この方は、この道端の石ころの中にも、この命を創造することができるのだ」と言うのです。

(3)聖霊と火でバプテスマする方

そして、さらに続けます。誰がこの命を創造することができるのかと。

3:11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。3:12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

ヨハネの主張は明快です。「私は、立ち帰りのためのバプテスマを授けているが、これはあなた方を新しく創造する力はない。しかし、その力を持っている方がいて、私の後から来ようとしておられる。この方は絶対的な方、神ご自身、聖霊と火によってあなたがたを新たに造り清める方だ。私たちの中にある不純なもの、実を結ばせない肉の思いを焼き尽くしてくださる。そして、本当にキリストの姿という実を結ばせる神の子の実体を私たちの中に形成なさるのだ」と。

(4)結論

私たちは、今日の聖書の箇所から、「この石ころからでもアブラハムの子を起こすことができる」という言葉、「聖霊と火によってバプテスマする」という言葉に心を留めたいと思います。

「この石ころ」とは誰のことでしょうか。それは、私のこと、あなたのことではないでしょうか。その中に命がなく、固い冷たい心で、神様のことも分からず、その御心に従った生き方も考え方もできなかった者、それは私自身でした。

しかし、イエス様は、こんな者のところにやって来て、聖霊を注いでくださった。今も注いでくださっている。聖霊の火で、私の内側を少しずつ鍛え直してくださっている。私は、確かに聖霊と火によってバプテスマする方によって神の子とされたのです。

この方は、あなたをも聖霊と火によってバプテスマし、神の子とするのです。

エペソ人への手紙に次のような言葉があります。

2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

私たちは、望みのないものでありました。アブラハムに与えられていた約束の契約からは除外されていた異邦人でした。しかしイエス様の十字架の血は、そんな私たちの上にも注がれ、石のように固くかたまった私たちの存在に命を与え、神の子としたのです。

十字架の血こそ、イエス様の本質を表す言葉、聖霊の別名です。「この石ころからでもアブラハムの子を起こすことができる」お方が、今も私の上、あなたの上に聖霊を注ぎ、新たにして下さいます。

私たちは、自分を石ころのような存在だと感じることがあるでしょう。自分の存在の価値を自分で信じることができず、誰にも認められず、踏みつけられ、あってもなくても他に何の影響も及ぼさない存在だと感じることもあるかもしれない。また人に否定される時、いなくても良いと言われるような時、イエス様が私たちに語られるのです。

「この石ころの中に、わたしは、わたしの命を注ぐ、アブラハムの祝福を受け継ぐもの、わたしの子とする。この石ころの中に、わたしの聖霊を注ぐ、わたしの火を注ぐ。お前は生きたものとなる。わたしの姿を映す者となるのだ。お前こそ、わたしの宝、わたしの尊いもの、わたしにとってなくてはならない存在なのだ」と。

祈りましょう。

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