「ルカの福音書」 連続講解説教

しかし、愛は成し遂げる

ルカの福音書講解(73)第13章31節から35節
岩本遠億牧師
2013年3月17日

13:31 ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」 13:32 イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。 13:33 だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』

13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。 13:35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」

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皆さんは、イエス様に対してどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。優しく柔和な羊飼いのイメージを持っている方もいらっしゃることでしょう。しかし、今日の箇所で語られるイエス様の言葉は、非常に厳しいものです。優しさとか柔和というものの対極になるようなものです。ガリラヤの国主ヘロデを「狐」と呼んで蔑んでおられます。このような蔑みの言葉は、他の福音書を含め他に見ることはできません。

しかし、これはイエス様らしくない言葉なのではなく、戦う王であるイエス様の本質が現れた言葉であると私は思います。

ここで出て来るヘロデというのは、イエス様がお生まれになった後、ベツレヘム周辺にすむ2歳以下の男の子たちを虐殺したヘロデ大王の4番目の妻の子です。ヘロデ・アンティパスと呼ばれ、ローマ帝国からガリラヤとペレヤを領土として与えられていました。

このヘロデ・アンティパスは、ヘロデ大王第3の妻の子、つまり異母兄ピリポの妻ヘロデヤと通じ、後にヘロデヤと略奪婚をした者です。その罪を洗礼者ヨハネに糾弾され、その首を刎ねて殺害したのがこのヘロデ・アンティパスでした。悪魔に魂を売った男です。

ヨハネを殺害したヘロデ・アンティパスは、病気を癒し、悪霊を追い出すイエス様の宣教活動が自分の領地の中で急速に拡大しているのを知り、イエス様をも殺害しようと考えるようになりました。自分の権力基盤が脅かされると思ったからです。

しかし、ヘロデ・アンティパスによるイエス様殺害計画がパリサイ人たちの知るところとなりました。パリサイ人の何人かがイエス様のところに行き、ヘロデ・アンティパスの領地の外に出るように言います。イエス様のことを心配して助言したのか、あるいは、イエス様を領地から追い出すことができればそれでも良いと考えたヘロデ・アンティパスからの使いとして脅しに来たのか、それは分かりません。

しかし、これに対するイエス様のお答えは、「あの狐にこう言え」というものでした。狐は狡猾さと破壊性を表すと言われます。しかし、それだけではありません。ヘロデ・アンティパスが狐なら、イエス様は何でしょうか。イエス様はライオンです。イエス様はイスラエル12氏族のユダ族の出身です。ユダはライオンと呼ばれ、このユダ族からイスラエルの王が出ました。まさに、イエス様はユダ族から出た最強のライオンなのです。この最強のライオンが自分を殺害しようとしているヘロデ・アンティパスを狐と呼んでおられる。

「お前は、わたしの相手ではない」と明確に述べておられるのです。イエス様の相手は誰だったのか。それは、ヘロデ・アンティパスがその魂を売った悪魔、サタンです。悪魔とその手下どもである悪霊を打ち倒す戦いをイエス様は行なっておられるのです。それをこのように述べておられます。

「わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。 13:33 だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」

「悪霊どもを追い出し、病人を癒す。」イエス様の戦う相手は人を苦しめる悪霊であり、病霊であった。それらを打ち破り人を救うこと、それがイエス様の戦いだったのです。「お前がどんなに妨害し、わたしを殺そうとしても、わたしは悪魔と悪霊との戦いを続ける。狐であるお前には、ライオンであるわたしを止めることはできない。わたしを殺すことはできない。なぜなら、わたしはエルサレムで死ぬことになっているからだ。」イエス様は、このように述べておられるのであります。

ここで「預言者」という言葉は単数形で書かれているので、これはイエス様ご自身を指します。なぜ、イエス様はエルサレム以外の場所で死ぬことはありえないのでしょうか。

それは、神様ご自身がエルサレムを罪の贖いが行なわれる場所としてお定めになったからです。イスラエルの父祖アブラハムの息子イサクの代わりに雄羊が捧げられたのがエルサレムでした。また、イスラエルの王ダビデが罪を犯した時、罪の贖いのために全焼の生け贄を捧げたのがエルサレムでした。

神様は、この地上の一カ所を罪の贖いの場所として定め、そこで悪魔を倒し、悪魔を処罰するとお決めになりました。神様と悪魔の戦いは、決して人の目に見えない天空で行なわれたのではありません。まさに人の世で行なわれたのです。なぜなら、人が勝利しなければサタンの力は打ち砕かれないからです。サタンは、人の中に高慢を吹き込むことによって、罪を犯させ、神様に反逆させました。神様と人とのいのちの関係を壊したのです。サタンの力を打ち砕くためには、全人類の代表であるイエス様が、サタンに勝利するしかないのです。高慢に対する勝利は、完全な謙遜によるしかない。最も低められ、最も卑しめられた十字架の死以外にサタンに対する勝利はあり得ない。

しかし、十字架の謙遜の死は、死では終らない。必ず3日目に甦らされる。イエス様は、「3日目に全うされる」と言われました。それは、低められ、全人類の罪の贖いのために血を流し死んだイエス様を父なる神様が復活させ、いのちを与える権威と栄光をお与えになる。完全な者となさるということです。

ヘブル「5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、5:9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、」

イエス様が全人類の代表として悪魔と戦われたように、悪魔にそそのかされた人間の代表がエルサレムなのです。イエス様は、ここでエルサレムという言葉単に場所の名前として言及しておられるのではありません。エルサレムの住民、すなわち、神様に選ばれた者でありながら、神様に反逆し、預言者たちを殺し、神の御子イエス様を殺す者たち、すなわち、悪魔にそそのかされた者たちの代表がエルサレムなのです。

神様に立てられ全人類の代表となったイエス様が、悪魔にそそのかされた人類の代表であるエルサレムのために、エルサレムと戦う。イエス様にとってどんなに悲しく苦しい戦いであったことでしょう。その戦いは、一方的に苦しめられ、血を流すことによって勝利する戦いでありました。

「13:34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。 13:35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」

「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」「わたしの翼の下に戻れ」と何度も何度も声をかけられた。これこそ、父なる神様の愛の叫びです。しかし、雛たちはそれを好まなかった。

むしろ、雛たちは母鳥を捕らえ、むち打ち、これを十字架につけて殺してしまうのです。母鳥はどのような思いで雛たちに打たれていたのでしょう。どのような思いで十字架に架けられたのでしょう。

イエス様は、十字架にかけられる時、ずっと祈っておられました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からずにいるのです」と。

自分を殺す雛たちを、なお自分の翼の下に隠し、これをかくまおうとするのがイエス様でありました。悪魔に対してはライオンとして戦い、愛するエルサレムに対しては殺されるまで母鳥としてかばい続ける愛、それがイエス様のお姿であったのです。

イエス様を殺してしまったエルサレムは、紀元70年にローマ帝国によって破壊され、滅亡します。自分をかばい続けてくれた母鳥を殺してしまったからです。

しかし、イエス様はこのエルサレムをそのままにはしないと仰っている。「わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」

「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」という言葉は、王を迎える喜びの叫びです。イエス様は、「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」とエルサレムが言う時が来る、そして、その時、エルサレムはもう一度イエス様に会うことができるということを意味しておられるのです。

このように言うと、疑問に思う方がいるかもしれません。この後、イエス様がエルサレムに入って行かれる時、人々が「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言って、イエス様をお迎えするからです。しかし、注意深く読むと、そのように叫んだ人々はエルサレムの住民ではなかったのです。

ルカ19:37 イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれたとき、弟子たちの群れはみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、19:38 こう言った。「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」

それは、イエス様の弟子たちであり、イエス様と共にエルサレムに上って行っていた多くの人たちであったのです。エルサレムがイエス様を王として迎えた訳ではなかった。

しかし、やがてエルサレムが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と叫び、喜びをもってイエス様を迎えるときが来る。それは、イエス様がもう一度この地にお出でになる時です。そのとき、クリスチャンもユダヤ人の区別もなく、全てが一つに集められる時が来るのです。

イエス様は、ライオンであり母鳥であった。王として悪霊を追い出し、病気を癒す霊の戦いに勝利されると共に、愛する雛たちを翼の陰に集める方であった。反抗する雛たちについに殺されますが、殺されてもなおかばい続け、彼らを赦し、罪を清めて、イエス様を真の王として迎える備えをさせてくださる。これが私たちの神、イエス・キリストであります。

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