「マタイの福音書」連続講解説教

なおそこに希望がある

マタイの福音書24章15節から31節
岩本遠億牧師
2008年8月31日

24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。) 24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。 24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。 24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。 24:19 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。 24:20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。 24:21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。 24:22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。 24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。 24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。 24:25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。 24:26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる。』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる。』と聞いても、信じてはいけません。 24:27 人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。 24:28 死体のある所には、はげたかが集まります。 24:29 だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。 24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。 24:31 人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

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先日アメリカ大統領選挙関連のニュースで、バラク・オバマ氏が民主党の大統領候補として就任し、その就任演説について報道していました。同時通訳がついていたので、バラク氏の言葉はよく聞き取れなかったのですが、日本語の通訳の言葉とオバマ氏のもとの英語の言葉の違いにあれっと思ったことがありました。それは、オバマ氏がLet’s confess our hopeと言ったのを、通訳者が「希望を持ち続けましょう」と訳したところです。希望を持ち続けるというのと、希望を告白するというのでは随分違うなと感じたからです。オバマ氏はクリスチャンですから、クリスチャンとしてこのことを語っていますが、そのことが通訳に反映されていないのは残念なことでした。

希望を持ち続けると言うとき、その希望はどこから来るのでしょうか。それは、私たちが今持っている希望です。自分から出てきたものです。だから自分自身に絶望したとき、希望を持ち続けることはできなくなるのではないでしょうか。しかし、希望を告白すると言うとき、この希望は私たち自身から出てきているものではありません。神様が私たちに与える希望なのです。神様の手の中にある希望と言っても良い。聖書の言葉が私たちに与えてくれる希望です。その神様からの希望を私たちが神様に向かって告白する。これが希望を告白するという意味です。だから、私たちは、自分自身に絶望するような状況にあっても、なお希望を告白することができる。私たちに希望を与えて下さる方がおられるからです。

今日、私たちが聞いたこの聖書の言葉は、エルサレムの滅亡と最後の日、そしてキリストの来臨について、イエス様ご自身が語られたもので、マタイの福音書が記録しているイエス様の最後の長い説教の一部分です。イエス様は、25章までこの最後の説教を語られたあとは、十字架にかけられるために真直ぐに進んで行かれます。まさに、十字架という絶望を目の前にして、なお私たちに希望を語られるイエス様がいるのです。今日の箇所は、もう、これ以上語ることはできなくなる、そのような最後の時を目の前にしたイエス様が、自分の言葉に耳を傾ける者たちに、愛と慰めを語っておられるところなのです。

まず、エルサレムの破壊と滅亡ですが、エルサレムは神様が礼拝の場所として選ばれたところです。そこにソロモンが神殿を建てますが、紀元前586年バビロニア帝国のネブカドネザルによって、破壊されます。バビロン捕囚から帰還した人々が第二神殿を建設しますが、これも紀元前32年にローマのポンペイウスによって破壊され、さらにヘロデが建てた第三神殿も紀元70年、ローマのティトゥスによって破壊されます。それだけでなく、紀元前140年には、シリアのアンティオコス・エビファネスが第二神殿にギリシャのゼウスを祭ってギリシャの神々を信仰することを強制し、祭壇の上で豚を捧げたり、ユダヤ教を信じることを禁止するという迫害を加えています。

イエス様がこの地上を歩かれたのは、ヘロデが建てた第3神殿時代ですが、エルサレムに住む人々は、ネブカドネザルによる第一神殿の破壊、アンティオコス・エビファネスによる神殿の冒涜と宗教弾圧、そして、ローマのポンペイウスによる第二神殿の破壊、そしてそれぞれに伴って起こった地獄のような有様について、伝え聞いていたはずです。そのような中で、イエス様は、このエルサレムはもう一度破壊され、これまでになかったような、またこれからもないようなひどい苦難がやって来ると言われました。

今の日本に住む私たちにあてはめていうならば、広島や長崎の原爆の時、東京大空襲のようなひどい苦難がやって来るというようなことです。ただ、私たちは今平和な世の中で呑気に暮らしているので、そのように言われても実感がわかないでしょう。一方、当時のイスラエルでは、支配者ローマに対する反乱なども散発し、支配者と被支配者との間に緊張が高まっていましたから、イエス様が言われた言葉は、現実味を帯びたものであったに違いありません。

ですから、イエス様は、神殿を破壊する者、冒涜するものがやって来た時には、逃げなさいと、非常に具体的に教えておられるのです。何故かと言うと、それが必ず起こるからです。ユダヤにいる人々は山に逃げなさいと言われる。軍隊が入ってこない山に逃げなさいと。そして、屋上にいる者は家の中の持ち物を持ち出そうとして部屋に入るなと。当時の屋上には壁の外から上り下りしていたので、屋上からそのまま外に降りて山に逃げるようにと仰っている。同様に、畑にいる者も、そのまま逃げろと。

今私たちは、迫害のない平和な日本という国に住んでいます。特に都会に住んでいる私たちは、周囲の人から迫害を受けるということはありません。そのことを感謝したいと思います。しかし、今でも世界中でキリスト教徒が迫害されている現実があります。また、この日本という国も、かつては多くのクリスチャンを迫害し、また先の戦争の時も迫害を加えたのです。

私たちの生きているこの地上は、時代が進めば進むほど人間が良くなっているかというと、決してそんなことはありません。歴史学者のトインビーという人は、この近代は、人類史上最大の二つの汚点を残したと言っています。それはアメリカによる黒人奴隷制度であり、もう一つはナチスドイツによるユダヤ人の大虐殺です。また、科学技術の発達によって、何十回も全人類を滅ぼしてしまうほどの核兵器がまだ存在しているのです。人間は良くはなっていないのです。神様に逆らう者はさらに自分の心を悪魔に売って悪くなり、神様を待ち望む者たちを攻撃するようになる。

そのような時、イエス様は、迫害に耐えて殉教するまで信仰を守り抜けとはおっしゃらなかった。逃げなさいと仰ったのです。何故か。イエス様は、私たちが弱いことを知っておられるからです。確かに、迫害に耐え、殉教の死を遂げることができる強い人もいるでしょう。しかし、イエス様を信じている人たちは、そのように強い人ばかりではありません。イエス様は、そのような私たちに対する憐れみを語っておられるのです。

これからご自分は十字架にかけられることが分かっているのです。イエス様は、お前たちも一緒に十字架にかかって死ねとはおっしゃらない。お前たちは逃げろと仰る。イエス様が私たちに代わって十字架で死んでくださったから、私たちは逃げて良いのです。イエス様を信じるとは、苦しむことではないのです。

実際、このように逃げた人々によって、世界中にイエス様の福音が伝えられてきました。

また、イエス様はそのような苦しみの日を短くして下る神様がいるともおっしゃっている。だから希望を告白しなさいと。

そんな苦難の時には、必ずと言ってよいほど、偽キリスト、偽預言者が現れる。「わたしこそキリストだ」「わたしこそメシヤだ」と言って、惑わす者たちが出てくる。しかし、彼らに惑わされてはならない。十字架に付けられて殺された自分がもう一度やって来るときは、荒野にいる預言者のように現れることはない。また王宮にいる王のように現れるのでもない。

世界中のすべての人が、あっ、あれはキリストだと分かる形で、現れるというのです。それを十字架に付けられたままの姿で現れるという人もいますが、それは私たちにはわかりません。また、ここに雲に乗ってとありますが、これは?欖斗雲に乗った孫悟空のようなものではありません。聖書が雲という場合、それは神の濃密な臨在を表す表現で、イエス様がもう一度来られる終わりの時、そのような神様のありありとした臨在が現れるというのです。

その時、御使いたちは、神様が選ばれた者たちを世界中から集めると言います。これがどのような状況なのか、私にはわかりません。それは、誰にも分からないのです。

このような話を聞くと、それは荒唐無稽な話であると、一笑に付す人もいるでしょう。そんなあるかないかも分からないことを信じるクリスチャンにはやっぱりついていけないと感じる人もいると思います。私も、どちらかというと、ついていけないなあと思うタイプです。そのような話を熱心にしている人がいると、私もつい引いてしまいます。

しかし、イエス様がここで仰っていることは、人類の歴史は永遠に続くものではないということです。人類の歴史には終わりが必ずあるということです。みんな、漠然とそうだとは思っているのです。だから「人類最後の日」とか「アルマゲドン」とか終末、人類の滅亡を扱う映画が毎年のように作られ、多くの人が見に行く。それは、キリスト教を信じていようがいまいが、人類は永遠の存在ではないということを、皆、感じているからです。

しかし、それだけではなく、終わりの日には、神様が正義を貫いて下さる筈だ。ご自分の民をその苦難から救い、永遠の安息に入れて下さる筈だということを私たちは信じているのです。悪が勝利して終わることはない。必ずイエス様の十字架が全人類に明らかにされる時が来るのだ。私たちはイエス様のところに集められるのだ。それは、イエス様が語られた約束ですが、それが私たちの希望なのです。

やがて最後の時がやって来る。しかし、そんな苦しい時もイエス様はともにいて下さる。苦しみの時を短くしてくださる。たとい死ぬようなことがあっても、私はお前と共にいるのだ。お前を私のところに集めるのだ。イエス様は、十字架を前にして、そのように語っておられるのです。

同じように、私たち一人一人の人生についても、いつか必ず終わりの日が来る。この肉体の死は、誰一人避けて通ることができないものです。この肉体は必ず滅びます。しかし、この肉体の死の向こうにさらに希望があるのです。それは、イエス様のところに集められるという希望です。

私たちの肉体は滅びるでしょう。しかし、この実存は、イエス様のところに集められる。集めて下さる方がいるのです。共にいて下さる方がいるのです。

この肉体が死んだら、それで終わりなのか。滅んでしまって、それで終わりなのか。多くの人は、死んだら終わりだと言います。そして死ぬまでの間、自分のこの体を喜ばせるだけの生き方をする。欲望を追求することを人生の目的にしている人もいる。それは、肉体が死んだら終わりだと思うからです。希望がないからです。

またある人たちは、肉体は死んでも霊は死なないと言います。しかし、その霊は日本人が考えているように、すぐに神様になったり、仏様になったりする訳ではありません。私たちの霊は、救われなければ、体が滅びるのと同じように滅んでしまうのです。そんな私たちに、聖書は、私たちのこの霊を救う方がいるのだと言うのです。

イエス様は、大きな苦難の後にもう一度やって来られると言われました。誰の目にもそれがイエス様だと分かるような形でやって来られる。そして、イエス様を待ち望む者たちを集め、救ってくださると。同じように、私たちのこの体が多くの苦難を経て死んだ時、イエス様が私たちのところにやってきて、ご自身を現わして下さる。誰が見てもそれがイエス様だと分かる、そのお姿で。そして、イエス様を待ち望む者たちをご自分のところに集められるのです。私たちは、そのような希望を頂いているのです。

だから、私たちは、希望を告白したいのです。イエス様がそのように約束して下さっている。それを告白するのです。自分から出た希望は存在の暗闇を照らす希望とはなりません。私たちは、目に見える状況がどのように自分の理想とかけ離れていても、なお希望を告白することができるのです。

祈りましょう。

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