「ルカの福音書」 連続講解説教

わたしのものは、あなたのもの

ルカの福音書講解(78)第15章11節から32節
岩本遠億牧師
2013年4月28日

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。

15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。 15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。 15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。

15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。 15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』 15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。 15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、 15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、 15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』

15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。 15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。 15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

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先週の礼拝で放蕩息子を見出し、大喜びする父の愛についてお話ししました。しかし、もしこれで話が終わるなら、イエス様は「ある人に息子が二人あった」とは言われなかったはずです。「ある人に息子が一人いた」と言うはずです。もう一人の息子に対してこの父がどのようなお方であったかということを理解しなければ、このイエス様のたとえ話を理解したことにはならず、父なる神様がどのような方であるのか、その方の愛とは何かを知ることもできないのです。

では、神様は、この兄にどのようなお取り扱いをしておられるのか。そのことをご一緒に考えていきたいと思います。

1.兄の状態
放蕩に身を持ち崩した弟とは、神様の噂さえ聞かないような別の国に住み、ユダヤ人の忌み嫌う豚以下の生活をしていたのですから、罪の穢れの中にあり神様を知らない異邦人や、ユダヤ人の中でも罪人と言われて、差別されていた人々のことを意味します。一方、兄は、神様に仕える(「奴隷となる」が原意)者で、神様の言いつけを守っていると主張する者たちですから、律法至上主義者、パリサイ派の律法学者たちを指しています。

律法至上主義者たちがどのような心理でいたのか、聖書の言葉の中から、それを読み取っていきましょう。まず、29節に「何年もお父さんに仕えています」とありますが、この「仕える」という言葉は、「奴隷となる」というのが原意です。つまり、自由もなく、無理やり、喜びもなく仕えて来たと言うのです。言いつけに背いたことは一度もないと言い切りますが、その心は父から完全に離れていました。そのことは、次の言葉に端的に表されています。

「その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。」

この兄は、友達と宴会をする楽しみを願っていました。自分にも欲望はあるのです。しかし、彼の楽しみ、喜びは、父なる神様を排除した楽しみだったのです。また「子山羊一匹」という言葉の中に、献げ物として捧げられる動物が持つ意味を卑しめる思いが透けて見えます。

失われていた弟が帰って来たときに父が屠った雄の子牛には、贖罪の献げ物としての意味と、和解の献げ物としての意味がありました。この子牛の流された血によって神様を侮辱してその富を浪費し、罪に穢れた弟の罪が赦されたのです。そして、この子牛は和解の献げ物としての意味もありました。屠られた子牛の内臓の脂肪は祭壇の上で焼かれ、神様に対する香りの献げ物とすると同時に、捧げた者は、その肉を食べ、神様と同じ牛を食する喜びと交わりを与えられたのです。献げ物の肉を食べるとはそのような意味がありました。

しかし、兄は、自分の罪のために贖罪の献げ物を捧げなければならないとも、和解の献げ物を捧げて父との交わりを喜ぼうという気持ちも全くなく、ただ自分の欲望を満たすための子山羊を欲しがっていました。彼には、自分がどんなに罪深さをごまかし、あるいは、父との交わりを拒絶する思いがあるのです。

さらに、兄は、弟が罪を犯した原因を父に求めています。「15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。」

「あなたのあの息子」と言っています。どうでしょう。私にも2人の息子がいますが、もし彼らのうちの一人が「あなたのあの息子」と言ったらどうでしょう。どんなに悲しいでしょうか。この2人の兄弟の間には敵意があり、そしてそこには、「あなたが甘やかしたから、あいつがあんなになった。あなたの責任だ。俺はあいつとは何の関係もない」という父に対する怒りがあるのです。

そして、「遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来た」という言葉には、行為の上では罪を犯していないように見えても、卑しい思いで満ちている心の中を表しています。

兄は、父のそばにいて、恭順に仕えているようで、決して父を尊敬もしていないし、父との交わりの喜びに価値を見出そうともせず、兄弟と父親に対する怒りと敵意に満ち、心の中は穢れた思いで満ち溢れていたのです。弟は、目に見える罪に満ち溢れていましたが、兄は目に見えない罪に満ち溢れていました。イエス様は、父なる神様は、このような2人の息子を持っているのだと仰っているのです。

2.父の思い
この兄に対して、父はどのようにしたでしょうか。28節に「それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。」とあります。当時のユダヤ社会では、このようなことはあり得ないことでした。弟が帰ってこようとしているのを見て、遠くから駆け寄って弟を抱き締め、口づけした父は、自分に対して怒っている兄をなだめるために、喜びの宴席をたって、家の外まで来られるというのです。神様がご自分の王座から立ち上がって、神を神とも思わない者たちの所にまでやってきて、その心に語りかけてくださると言うのです。これこそ、神であられたのに、その天の王座を離れて罪の世に下ってきて下さったイエス様のお姿そのものではないでしょうか。

この「なだめる」という言葉はパラカレオーと言いますが、これからできた言葉にパラクレートスという言葉があります。「慰め主」と訳されますが、イエス様が弟子たちに送ると約束なさった「聖霊」の別名です。聖霊が私たちのところにやって来て、私たちの心を開き、神様の御思いを知らせ、豊かに命と愛で満たしてくださるように、この父は兄のところにやって来たというのであります。

「父親は言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。 15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」と。

「お前はいつもわたしと一緒にいる。」「わたしと一緒にいることがお前の喜びではないのか。それがお前の全てではないのか。」「わたしのものは全部お前のものだ。」と言われます。「お前のための贖罪の献げ物も、お前のための和解の献げ物も、わたしは用意して待っている。弟に最上の着物を作って待っていたように、お前のための最上の着物を作ってお前を待っているのだ。お前のための指輪、お前のための履物、お前のために全てを備え、いつもでお前がそれを受け取ることができるように備えているのだ。いつでも求めなさい。わたしはお前にそれを与える。わたしとの喜び、私との宴会の喜びにお前も加われ。わたしはお前と楽しみたい。お前に喜びを満たしたい。」これが父なる神様の兄に対するお心なのです。

さらに言われます。「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」と。「あなたのあの息子」と言っていた兄に、「お前のあの弟」と言っておられます。両者の間にある敵意を取り除こうとしておられる。

エペソ「2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、 2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、 2:16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 2:17 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。 2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。」

父なる神様は、2つのもの、2人の兄弟の間にあった敵意を取り除くためにイエス様をこの世に送り、十字架に架けて下さったのです。人は、他の人をその言動の良し悪しによって裁きます。「あの人は罪人だ。あの人は神様の定めを守っていない」と。しかし、イエス様は、十字架の上で流されたその血潮によって、全人類の罪をなかったことにし、罪を贖ってくださいました。「2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、 2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された」とは、このことを意味します。「遠く離れているあなたがた」とは弟のこと、「近くにいる人々」とは兄のことです。両者が赦し合い、愛し合うことを神様はどんなに願っておられることでしょう。そして、単に「お前のあの弟」と教えるだけでなく、両者の間の隔ての壁を打ち壊して一つとするために十字架にかけられたイエス様がおられるのです。

「死んでいたのが生き返った。いなくなっていたのが見つかった」と弟のことを喜んだ父なる神様は、今生きていて、今父と一緒にいる兄を同じように喜んでいるのです。このことを兄に知らせたい、それが父の御心なのです。

イエス様は、この後、兄がどうしたか仰っていません。それは、律法主義者たちに対する招きであり、その招きに彼らがどう答えるかは、彼らに任せられていたからです。私たちはどうでしょうか。もし、私たちが、自分は兄だと思うことがあるなら、イエス様の招きに答えて、神様を心の中に迎え入れたいですね。

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私は、キリスト教伝道者の家庭に生まれましたから、人生のいろいろな苦しみを通って神様に出会い、救われた人々の姿を見ながら育ちました。非常に重い病気から癒された話、闇の世界から追われていた人が救われた話などを聞くわけです。しかし、いわゆるクリスチャン二世とか三世とかになると、親はクリスチャンですから、家庭の中がそんなにめちゃくちゃになっているわけではないし、基本的に道徳的に育てられていますから、救いということがなかなか分からないわけです。自分が救われなければならない状態にあると言うことが分からない。それで、自分もひどい病気になったりしないと信仰がわかるようにならないのか、とか、人生のどん底を経験しないと信仰がわかるようにならないのかと真剣に悩むわけです。

また、そのような酷いところを通って与えられた信仰のほうが尊くて、平々凡々な生き方をしてきたクリスチャンの信仰は生ぬるいなどと思う場合もあることでしょう。特に、とんでもない世界から救われてきた人たちが宣教活動などで活躍している姿を見ると、そういう信仰にあこがれる人が現れたりもしますし、極端な場合には、「自分はやくざになれないからクリスチャンにもなれない」と言う青年に出会ったこともあります。

しかし、聖書は言っているのです。放蕩息子の兄にも贖罪の献げ物、神様との和解の献げ物が必要であり、そのために神様はご自分の全てを兄に与えておられるように、目に見える酷い罪を犯したことのない私たちにも、神様の心を心としない、罪のために贖罪の献げ物、和解の献げ物が必要なのだと。

そして、言うならば、兄の場合にこそ、さらに深い聖霊の働きがなければ、自分の心の中の罪を認め、イエス様の救いが必要だと告白することが難しいのです。生きていると思っていたが、実は死んでいた。こんな死んでいた者をイエス様は生き返らせてくださったと告白できるようになるなら、どんなに素晴らしいことでしょう。しかし、そのように告白することができるとき、そこに与えられている信仰は、仮に目立つことはなくても、何にもまして尊い信仰なのです。

もし、私たちが自分は弟ではなく兄だと感じることがあるならば、私たちの中にも聖霊のお働きが必要です。行動に現れない隠れた心の罪が解決され、父なる神様との間に喜びの和解が与えられることが必要なのです。そして、神様との関係の回復が与えられた時、私たちの心の中に与えられている信仰のゆえに、神様に感謝しましょう。人が驚くような目に見える「劇的な回心」ではないかもしれない。しかし、その時、私たちの内奥で、確かに聖霊の深い御働きのゆえに、私たちの中に罪深い心が啓示され、イエス様の十字架と復活による救いが与えられているのです。私たちは、罪の痛みから癒されるのです。

弟のためにイエス様の十字架の血が流されたように、兄のためにも流された。どちらも等しいイエス様の血潮が流されている。両者が一つとなるためです。一つになって赦し合い、愛し合うためです。全てが癒されるためです。

「わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう。」と主は仰せられる。」イザヤ書57:19

祈りましょう。

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