「マタイの福音書」連続講解説教

わたしの癒し主

マタイの福音書15章21節~28節
岩本遠億牧師
2008年1月6日

15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちの
かれた。 15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声を
あげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、
ひどく悪霊に取りつかれているのです。」 15:23 しかし、イエスは彼女
に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あ
の女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」
と言ってイエスに願った。 15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、
イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません。」
と言われた。 15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、
「主よ。私をお助けください。」と言った。 15:26 すると、イエスは答
えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくな
いことです。」と言われた。 15:27 しかし、女は言った。「主よ。その
とおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただき
ます。」 15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あ
なたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼
女の娘はその時から直った。

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私たちは、今日、このキリストの平和教会の今年初めの礼拝に集められ
たことを心から感謝いたします。私は、この年の最初の「元気の出る聖
書の言葉」でお送りする聖書の言葉として、出エジプト記15章26節
の言葉、「わたしは主、あなたを癒す者である」という言葉を選び、皆さ
んにメッセージをお送りしました。それは、病む者たちが集められてい
る、このキリストの平和教会に対する主ご自身の御思い、その溢れる熱
情が、この「わたしは主、あなたを癒す者である」という言葉に籠めら
れていると信じたからです。また私たちの家族の中にも病む者がいます。

神様は、聖書の中で実に195回も「わたしは主である」と語っておら
れます。「主」というのは、「実在の実在」という意味です。目に見えな
いかもしれない、その言葉は肉の耳には聞こえないかもしれない。しか
し、わたしは実在するのだ。ここにいるのだ、と語られる主がおられま
す。この方が宣言なさるのです。「わたしは、あなたを癒す者である」と。

私たちは、この言葉を今年一年、常に思い出しながら信じて生きたいと
思います。そして、今日、この新年最初の礼拝において私たちに与えら
れている聖書の言葉が、マタイの福音書15章21節から28節の言葉
です。ここにイエス様に重病の娘を癒してもらった外国人の女性のこと
が書かれています。私は、この箇所から癒し主イエス様を告白したい。
皆さんとご一緒に告白したいと思います。そして、信じ告白する時に、
イエス様は働き、私たちを癒してくださるのです。

これまでのところを復習しておきたいと思います。イエス様はガリラヤ
での初期伝道で、多くの人々に福音を語り、癒されました。男だけで5
千人という人々がイエス様の周りに集まるようになった。それに対して、
ガリラヤの国主ヘロデが疑いの目を向けるようになった。つまり、自分
に敵対する者が人々を集め、自分の権力の転覆を図っていると思うよう
になったという状況があります。イエス様はそれを知って、無理やり群
集を解散なさいました。群衆がヘロデの圧迫を受けないようにするため
です。

また、エルサレムからはイエス様の宣教活動を監視するパリサイ人の一
団が派遣され、イエス様との間に激しい論争が繰り広げられました。イ
エス様は、弟子たちをパリサイ人から守らなければならない状況になっ
た。それが、今日の聖書箇所の背景です。

イエス様は、弟子たちを連れて、ツロとシドンの地方に立ち退かれたと
あります。ツロとシドンの地方とは、今で言うならレバノンとシリアの
海岸沿いの地方です。避難なさったのです。これは、イエス様にとって
辛いことであったに違いありません。神の選民として神様の祝福を受け
る約束となっているイスラエルの人々が、飼う者のない羊のように疲れ
果てている。宗教家階級から卑しめられている。また外国人支配者たち
によって圧迫を受けている。イエス様は彼らに仕え、彼らに命を与え、
癒すためにやってこられました。しかし、今、初期の伝道に対する支配
家階級の反発によって、イスラエルの失われた羊たち、弱りきった、滅
んでいこうとしている神の子たちの側を離れて、外国の地にまで退避し
なければならなくなっているのです。

イエス様は、きっとこの時、考えておられたのだと思います。外国の地
を弟子たちと一緒に歩きながら、この先のことを考えておられました。
どうやってイスラエルの失われた羊たちを養うのか。また、どうしたら、
多くの人々を一人も失うことなく、また弟子たちを失うことなく、ご自
分だけが十字架の犠牲となることができるのか。下手に動くと、多くの
人を巻き添えにしてしまう。また弟子たちの命も失われてしまう。イエ
ス様は、群衆から離れて、この外国の地で、それを深く考えておられた
に違いありません。このような状況を頭に入れてこの箇所を読むと、理
解しやすいかと思います。

そんな時、カナンの女が現れてイエス様に向かって叫びます。「主よ。ダ
ビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれ
ているのです。」カナンというのは、イスラエルの人々から見たら、昔か
らの敵です。偶像礼拝を行う忌むべき民族です。この女の人は、イエス
様のことを噂で聞いたのでしょう。今のように詳しい情報がすぐに手に
入る時代ではありません。しかし、イスラエルに救い主が現れ、その方
が大きな癒しの業を行っておられるということを聞きました。彼女は、
イエス様に向かって叫びました。「イスラエルの救い主。私を憐れんで下
さい。私の娘が重病なのです」と。

皆さん、どう思いますか?何も、外国の神に救いを求めなくても良いだ
ろうというのは、この国でも良く言われることです。日本には日本の神
様がいる。何故外国の神に救いを求めるのか。このカナンの女は、周囲
の人から軽蔑されたに違いありません。

きっと、彼女は、カナンの神々の神官の加持祈祷なども頼んだことがあ
ったでしょう。いろいろなことを試したに違いありません。しかし、娘
の病気は治らない。彼女にとっては、これが最後のチャンスだったので
す。外国に一時的に退去しておられるイスラエルの救い主、この時を逃
したら、もう二度と会うことはできないのです。娘は失われてしまうの
です。彼女は、国賊と言われようが、軽蔑されようが、叫び声を弱めよ
うとはしませんでした。

しかし、イエス様は一言もお答えにならないのです。皆さん、どう思い
ますか。イエス様は愛の神様ではないのですか。何故応えないのでしょ
う。なぜすぐに癒してくださらないのでしょう。意地悪じゃないですか。
なぜでしょう。

この、「何故」という疑問に対しては、明確な答えが聖書に書いてあるわ
けではありません。しかし、このことから私たちが学び、納得できるこ
とはあります。それは、神様は私たちの祈りの声を聞いても、すぐに答
えて下さらないことがあるということです。すぐに答えて下さる時があ
り、また、すぐには答えて下さらない時がある。しかし、そんな時、私
たちは諦めてはならないのです。また、ひねくれてはなりません。その
ことを、私たちはここから学ぶことができます。

彼女がずっと叫び続けるので、弟子たちがイエス様に言います。「『あ
の女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。』
と言ってイエスに願った。」これは、この女の人に対する思いやりでも、
この人のことを思っての発言でもありません。「この女の願いを聞き入
れてやったらどうですか。叫びながらついてきて、迷惑です」という意
味です。

それに対するイエス様の言葉は、冷たく感じるものでしょう。「わたしは、
イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていない」と。
この女の人がイエス様のこの言葉を聞いたかどうかは分かりません。イ
エス様は弟子たちにこのように言っておられるからです。

先ほどもご説明しましたが、イエス様は、この時、どのようにしてイス
ラエルの地に帰り、多くの群集と弟子たちを失うことなく、ご自分の贖
いの業を行うことができるか考えておられました。そのことを考えなが
ら歩いておられたのです。この言葉はイエス様のその思いを別の言葉で
表現したものと言えるでしょう。

しかし、この女の人は、イエス様のところに近寄ってきてひれ伏して願
います。「主よ。私をお助けください」と。どんなに拒絶されても食らい
付いていく執念のようなものを感じます。私たちが神様に祈り願う時、
これで良いのです。初めから、一歩引いて、「聞いてくれないかもしれな
いけれど、一応祈ります」というような態度で祈るべきではありません。
イエス様は、祈りの言葉の背後にある思いを見ておられます。諦めて祈
っているのか、一応祈っているのか、どうでも良いと思って祈っている
のか、それとも、聞き入れてもらえるまで諦めないという思いで祈って
いるのか、主は、私たちの心を見ておられます。

イエス様は、お答えになりました。「子どもたちのパンを取り上げて、小
犬に投げてやるのはよろしくない」と。子どもたちとはイスラエルのこ
と、小犬とは外国人のことです。イスラエルではこのような言葉で選民
である自分たちと外国人を差別する言葉が用いられていたのです。勿論、
ただ犬というのではなく、小犬という言葉によって、愛情の対象となる
ペットとしての意味合いが表現されていますが、それでも、この言葉を
表面的に聞くならば、それは大変な侮辱とも聞けたに違いありません。

しかし、女性は、さらに食い下がり、「はい。主よ。そのとおりです。た
だ、小犬でも主人の食卓からこぼれ落ちるパンくずは頂きます」と言っ
て、主の感嘆、主の喜びを引き起こすのです。主イエス様は言われまし
た。あなたの信仰は立派ですと。ここで立派と訳されている言葉は、「大
きい」です。「あなたの信仰は何と大きいことか」とイエス様が驚かれた。

ここでの会話をどのように理解したらよいのでしょう。最初に、この女
の人は、「ダビデの子、イスラエルの救い主」と呼びかけておられます。
それに対して、イエス様は、イスラエルの救い主としての働きを語って
おられるのです。「イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされ
ていない」も「イスラエルの家の子どもたちに与えるべき恵みを、外国
人に与えるべきでない」も、「イスラエルの救い主よ」という言葉に対す
る答えだったのです。

この女性の信仰の偉大さは、「確かにそうです。しかし、イスラエルの救
いは、他の民族にまで届くものなのではないですか。イスラエルに与え
られる救いの恵みは、その食卓からこぼれ落ちるものを頂くだけでも、
溢れるような祝福と癒しをもたらすものなのではないですか。イスラエ
ルに与えられる恵みのおこぼれで私の娘は癒されるのです。あなたはそ
れほど偉大な救い主なのです。イスラエルの救い主は、まさに全世界の
救い主、私の救い主なのです」という告白する信仰の偉大さだったので
す。

しかし、このような答えを引き出されたイエス様の言葉もまた凄いもの
です。言い換えるならば、このようなことです。「わたしは、イスラエル
の救い主なのではないのですか。イスラエルに与えられるべき救いをあ
なたに与えよというのですか。」ですから、女は答えるのです。「イスラ
エルに与えられるべき救いのおこぼれで、私たちは救われるのです。あ
なたの救いはそれほど偉大だからです。あなたは全世界の救い主だから
です。」

表面的な言葉に表れない、思いのやり取りがここにあります。私たちは
聖書の言葉を表面的に読んで分からないことが多いですが、そこにどの
ような思いのコミュニケーションがあったかを知ると、ほっとします。
イエス様は、意地悪を言われたのではないのです。この人から信仰の告
白を引き出そうとなさったのでした。

イスラエルから追われるようにして出てきた外国の地。ここで後期の伝
道とエルサレムでの対決に向けて考えを巡らし、失われたイスラエルの
民のことを思いやり、心引き裂かれるようにしておられたイエス様は、
ここに「ああ、あなたの信仰は何と大きいのでしょう」と驚嘆するよう
な信仰を見出された。どんなにうれしかった事でしょう。イエス様は言
われました。「その願いどおりになるように」と。そして、娘は、その時
癒されたのでした。

この女性はイエス様とどれだけ話をしたでしょうか。どれだけイエス様
のことを知っていたでしょうか。信仰の大きさは、信仰暦の長さ、聖書
知識の量などとは、全く関係がないのです。祈りの言葉を知っているか
どうかというのも関係ありません。「ダビデの子、イスラエルの救い主」
と呼びかけていた言葉が、「私の救い主」と変わることにあるのです。

私たちは、イエス様が救い主だということを聞きます。しかし、「外国の
神様」「イスラエルの救い主」「あの人の救い主」「あの人の神様」という
のと、「私の救い主」と告白するのとでは、文字通り天地の違いがあるの
です。

もう随分前になりますが、パプア・ニューギニアに伝道に行ったときの
ことです。アランブラックというジャングルの村で多くの人たちの癒し
のために祈り、イエス様の御名による癒しの働きをした後、ウカルンパ
という聖書翻訳宣教師たちの居住地に行ったときのことです。

私は、日曜日の礼拝で自由な証の時があったので、自分がどのようにし
てパプア・ニューギニアに導かれ、どのように主の御名による癒しの働
きを体験させていただいたかということを証しました。すると、その日
の午後、現地の女性でジュディという人が訪ねてきました。数ヶ月前か
ら体調が悪い。最初マラリアということで治療を受けていたが、全然良
くならず、そのうち、チフスの疑いをかけられ、その治療も受けている
が体調は悪くなる一方。仕事もずっと休んでいる。もう治らないかもし
れないと言いながら、泣いていました。

私は、彼女に聞きました。「あなたは、クリスチャンですか。」「はい。そ
うです。」「あなたは、イエス様が何時か、何処かで、誰かを癒すと信じ
ているでしょう。」「はい。」「しかし、あなたは、イエス様が、今日、こ
こで、あなたを癒すと信じますか。」彼女は、暫く考えました。そして「は
い。信じます」と答えたので、私は、イエス様の御名を呼び、彼女の癒
しを祈りました。私は、彼女が癒されたことを確信し、言いました。「さ
あ。帰りなさい。あなたは、すっかり癒され、明日から仕事に行くこと
ができるのです。」

翌日、私が泊めてもらっていたエドミストンさんの奥さんがジュディに
どうしているか電話をしましたが、彼女は家にいませんでした。すっか
り元気になって仕事に出ていたのです。

「あの人の神」「あの人の癒し主」「あの人の救い主」ではない。「私の神。
私の癒し主。私の救い主」という告白をイエス様は待っておられるので
す。

神様は言っておられます。「わたしは主。あなたを癒す者である」と。こ
の言葉に答えてみませんか。「あなたは主、私を癒す方です」と。この信
仰の告白に主は必ず答えてくださるでしょう。諦めずに祈り続けましょ
う。病む者の多い、このキリストの平和教会に向かって主は語っておら
れるのです。「わたしは主。あなたを癒す者である」と。

祈りましょう。

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