「マタイの福音書」連続講解説教

イエス様の与えるもの

マタイの福音書19章13節~22節
岩本遠億牧師
2008年4月20日

19:13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。 19:14 しかし、イエスは言われた。「子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。」 19:15 そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去って行かれた。
19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」 19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」 19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。 19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」 19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」 19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

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私たちは、「永遠の命」という言葉にどのような印象を持っているでしょうか。そんなの老人の考えることと思うでしょうか。私たち人間は、老人にならなくても、「虚しさ」を抱えて生きています。この「虚しさ」を満たすために、私たちは様々なものを求めるわけですが、究極的には、この存在の「虚しさ」を満たすことができるのは「永遠の命」しかないということを直感的に知っているのです。なぜかというと、この虚しさは、永遠から切り離された喪失感、自分がいるべき永遠の住まいにいないところからやって来るからです。
多くの人は、この虚しさを満たすために、金を溜め込んだり、異性を求めたり、社会的地位を求めたり、人を支配したり、あるいは、慈善活動を行ったりします。それで一時的な鎮痛剤を得て虚しさを忘れようとします。また、自分が永遠の命を求めると表明することを恥ずかしいことと思う場合も多いのではないでしょうか。
そのような意味で、この若者が率直に永遠の命についてイエス様に質問していることを、私たちは決して蔑んではならないと思います。彼は、一生懸命生きてきたのです。当時のユダヤの世界で正しいとされる生き方をしてきた。それでもなお、虚しさをどうすることもできない。彼は、イエス様のところにやってきたのです。

彼は聞きました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」彼は、これまで悪い生き方をしてきたのではないのです。自分が良いと思うことは全部行ってきた。また律法の定めるところに従って、貧しい者たちに対する慈善の献げ物もし、他人に対して悪を働かず、父母を尊んできたのです。それでもどうしても満たされない虚しさ、彼は、これを満たす「良いこと」を求めたのでした。
イエス様は、答えられます。「なぜ、良いことについて私に尋ねるのか。良い方はただ一人だ」と。「良いこと、良い行いがあなたを永遠の命に結びつけるのではない。あなたに永遠の命を与え、その虚しさを満たすのは、良い方ただ一人なのだ」というのがイエス様のお答えです。しかし、そうは仰らなかった。「戒めを守れ」と言われたのです。
「どの戒めですか。」彼は、自分がこれまでに守っていない戒めがあったかもしれないと思ったことでしょう。自分の行いに不十分なところがあったなら、それを改善したいと思ったのです。しかし、イエス様の答えは、「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。 19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」というものでした。これらは、神様がモーセを通して与えられた十戒の中の後半部分で、対人的な関係に関する戒めです。
彼にとって、イエス様のこのお答えは意外なものでした。なぜなら、そのようなことは小さい時から守ってきたという自負があったからです。
しかし、皆さんも疑問に思うのではないでしょうか。この人は、本当にこれらの戒めを完全に守ることができていたのだろうかと。イエス様は、山上の説教の中で、「兄弟に対して怒りを燃やすもの、『能無し』という者は地獄の火に投げ込まれる」「情欲をもって他人の妻を見るものは心の中で姦淫を犯したのである」と言われました。イエス様は、外に表れる行為だけでなく、行為の原因となる心の内部の罪をも律法に反したものだと宣言なさったのです。私たちは、山上の説教を読んで、外に表れない心の罪を知り、自分で自分を救えない現実に直面し、神様の前にひれ伏すようになるのです。また、私たちは、自分自身のように隣人を愛することができない自分の現実を前にして、神様の前に何も言い訳のできない自分、できたら逃げ出したいような自分を発見するのです。
そして、そのことから自分の内的な問題、この虚しさの原因が自分の本質的な罪、つまり、この心と身体が神様から離れてしまっているところにあることを知るようになる。そこから、真の救いを求める心が生まれるようになるのです。
イエス様は、この人をそのように導こうとなさったのではないかと思うのです。しかし、彼は、間髪を入れず、「そのようなものは全て小さい時から守ってきました。それでは、何が足りないのでしょうか」と答えました。この人は、自分の虚しさ、永遠の命の欠如が、行為の不十分さにあるという考えに凝り固まっていたのです。内面的な苦しみ、内面的な虚しさを満たすためには内的な罪の解決が必要であることに思い至らなかったのです。彼は、神様との内的な関係の確立が必要であることを知らねばなりませんでした。
それでイエス様は言われるのです。
「あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
多くの財産を持つということが彼と永遠の命との間の壁となっていたというのです。当時のユダヤでは、富は神様の祝福であると考えられていました。また、彼はその財産の中から貧しい人たちに施すべきものを施してきたことでしょう。そのことで、良心の呵責を感じることもなかった。
何が足りなかったのか。いや、足りなかったのではありません。持ち過ぎていたのです。それは、財産だけではなく、行為においても持ちすぎていた。神様の前に誇るものが多すぎたのです。彼は、自分の財産と自分の行為という富で永遠の命が得られると思った。人の前に、神様の前に富むことが永遠の命に繋がると思ったのです。
イエス様は言われました。「幸いなるかな。心の貧しい人。天の御国はその人のものである」と。「心が貧しい」とは、自分に絶望することだとルターは解釈しました。そのとおりだと思います。自分で自分を救えないこと、自分の心の虚しさを自分で満たすことができないこと、自分の行為では永遠の命を手に入れることができない自分の現実を知ることです。
イエス様は、この人に財産の全てを売り払って、私に従って来いと言われました。意地悪を言っておられるのではないのです。神様の前に貧しいものとなれと仰っているのです。自分自身の行為を誇ることができないような神様との関係を求めよということです。心の貧しいものに開かれる天の御国がある。永遠の命と神様の臨在がこの虚しい心に満ち溢れるようになる。
どうでしょうか。皆さん。私たちは心の貧しい者、神様に満たしていただかなければ自分をどうすることもできない者であることを告白しながら生きて行きたいですね。私たちを満たし、永遠の命を注いでくださる方がいるのです。

聖書は、この富める青年の話の前に、イエス様のところに連れてこられた幼子たちの話を記録しています。母親たちが子供たちを祝福してもらうために、イエス様に手を置いてもらうために連れてきたのです。弟子たちは、彼らを邪魔者扱いして、叱りました。しかし、イエス様はこの子達を受け入れ、愛され、祝福なさいました。
そして言われるのです。「天の御国は、このような者たちのものである」と。自分でイエス様のところに来たのでもない。連れてこられただけの者。何も持たないもの。何もできないもの。小さな者。貧しい者。彼らの上にイエス様は手を置いて祝福なさいました。彼らは永遠の命を与えられたのです。天の御国は彼らのものとなったのです。
「幸いなるかな。心の貧しい者。天の御国は彼らのものである」というイエス様の言葉がここに実現しているのです。

私たちは、神様の前に何か誇るものを持っているでしょうか。恐らく、私は、ここにいる人たちの中で、最も神の国に遠い人間かもしれないと思います。なぜなら、誇れるものが余りにも多いからです。生まれた時からのクリスチャンであり、小学生の時から信仰を持つようなった。聖書メルマガの購読者数も多い。ニューギニアにも伝道に行った。そこで多くの人たちを祈りによって癒し、イエス様が生きた神であることを人々に確信させた。社会的には大学の教授であり、言語学の博士でもある。もし、私が、これらのものを頼みとし、自分の行為や立場を更に増し加えることによって天の御国に入れると思うなら、天の門は私の前に閉じられるのです。
しかし、私は、最も弱く、最も惨めで、病の中にあって倒れ、絶望していた時、イエス様に出会い、救われました。私は何も持っていなかった。健康も失っていた。愛も信仰も全てを失っていたのです。
そんな時、圧倒的な臨在で私に出会い、私に聖霊を注ぎ、赦し、癒し、救ってくださった主がいたのです。今、私が持っているものは、全て主が下さったものです。健康も、家庭も、この生活も、学位や社会的な地位、聖書の知識、メルマガの読者の方々、ニューギニアでの伝道。主が下さらなかったものは何もなかった。
主が私に仰る時が来ると思うのです。「それをわたしに返しなさい。お前は、わたしに従え。お前は、子供のように、小さなものとして生きよ。心の貧しい者として生きよ」と。
その時、主に全てをお返しする者でありたいと心から願います。主よ、そうさせてください。私のこの貧しい心を満たしてください。この虚しさを満たしてください。と祈り続ける者でありたいのです。
皆さんも、同様ではないでしょうか。全ては、主が与えてくださったのです。先週、わたしたちは、私たち自身が主のものであるということを学びました。そこに全ての原点があるのです。主が私たちに、「わたしが与えたものを返せ」と仰る時、私たちを見捨てようとしておられるのでしょうか。そうではありません。もっと良いものをお前に与えるから、これまでのものを返せと仰るのです。
「19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」
私たちは、自分が主のものであることを深く知ることができるなら、主が私たちを決して見捨てない方であることも知ることができるのです。
富める青年は、主が与えて下さったものを返すことができなかった。自分が主のものであるという深い主との信頼関係を持つことができなかったからです。ですから、イエス様は言われたのです。持ち物を売り払って貧しい人たちに分け与え、わたしに従えと。
私たちは、心の貧しい者たちです。イエス様にしか満たすことができない心の隙間。この虚しさを抱えている。「イエス様、私は、あなたのものです。満たしてください」と祈ろうではありませんか。
祈りましょう。

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