「マタイの福音書」連続講解説教

イエス様の宝もの

マタイの福音書25章14節から30節
岩本遠億牧師
2009年3月29日

25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。 25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。 25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。 25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。 25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』 25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。 25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』 25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。 25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。 25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』 25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。 25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

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タラントの喩として有名な個所です。これは、十字架にかけられる前のイエス様の最後の長い説教の最後の部分でありますが、ここを読んで皆さんは、どのようにお感じになられたでしょうか。

ここで、タラントというのは、今日本語でも毎日聞かれるタレントという言葉のもとになった言葉で、一般に才能とか賜物という意味だと理解されています。タレントというのは、「才能がある人」という意味だと言われています。それは、この聖書の箇所が根拠となっています。

喩を文字通り理解するのは難しくはないでしょう。主人が長い旅に出る時に3人の僕たち(奴隷たち)に、一人には5タラント、もう一人には2タラント、そして、最後の者には1タラントを預けた。1タラントというのは重さの単位ですが、それで金や銀の重さを表していたのです。必ずしも一定した重さではなかったようですが、良く言われるものでは、1タラントは6千日分の給与に当たるということです。ざっと言うなら、20年分の給与です。一人には100年分の給与に当たるもの、もう一人には40年分、さらにもう一人には20年分を預けて旅に出た。長い時間がたってから帰って来た時、清算した。最初の者と二番目の者はそれで商売をし、それぞれ預かった金額と同じだけの利益を上げた。一方、最後の者は、失敗するのを恐れ、それを土の中に隠しておいた。すると帰って来た主人に叱られ、それを取り上げられ、外の暗闇に投げ出されたというのです。

注解書の中にも次のように解説するものが多いです。このタラントとは神様が一人一人に与えておられる賜物である。この賜物を用いて神の国のために働きなさいと教えます。そして、神様は、どんな人にも賜物を与えておられる。一番少ない人にも1タラント。莫大な額に相当する賜物を与えておられる。だから、自分には何もできませんと言ってはいけない。何もしないのは神様の前には罪なのだ。また、賜物が1しか与えられなかった人にも神様は決して不公平なのではなく、与えられた者が20年分の給与だということを考えれば、それで有り余る働きができるだけのものを与えて下さっている。自分に与えられている賜物が少ないと不平を言うのは神様の前に間違っている。神の国をこの地にもたらすために、与えられた賜物を十分に生かして用いなければならないのです。このように教えます。

しかし、私は、このような解釈や教えを読んだり、聞いたりするたびに違和感を覚えていました。イエス様は、十字架にかけられる前の重要な最後の説教で、賜物を用いて一生懸命奉仕せよと本当におっしゃったのだろうか。イエス様の伝道生活の結論とも言うべき説教で、賜物を用いて奉仕しない者は裁かれるというようなことをイエス様は本当に言いたかったのだろうか。タラントとは、本当に賜物、才能のことを意味しているのだろうか。

言うまでもなく、このような疑問は、私だけが抱いているわけではありません。聖書のテキストを読むと、「25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」とあります。能力に応じて5タラント、2タラント、1タラントを渡したわけですから、もし、タラントが能力や賜物なのだったら、能力に応じていろいろな量の能力を与えたことになり、意味をなさないことになってしまう。

イエス様は、これから十字架にかけられようとしておられます。その時、最後に一人一人に、非常に価値あるものを託されたのです。預けて下さったのです。それは何でしょうか。それは、人です。イエス様は、弟子の一人一人に、そしてイエス様を信じる一人一人にかけがいのないイエス様の宝である人を託されたのです。人間を大切にせよ。これを宝として大切にせよ。この宝ものを生かせとお命じになったのです。

今、イエス様は伝道の生涯の幕を下ろそうとしておられる。イエス様の伝動は、その最初から最後まで、人を大切にする、人を愛するということに尽きるものではなかったでしょうか。伝道の最初にイエス様はまず言われました。

「幸いなるかな、心のまずい者。天の御国は彼らの者だ。幸いなるかな、悲しんでいる者たち。彼らは慰められる。」

イエス様は、貧しい者たち、低められている者たち、当時の宗教家たち特権階級の者たちからは、存在する価値がないと思われ、またそう言われていた人たちこそ、神様の祝福を受けるべきものたちなのだ、彼のためにこそ天の御国はあるのだと語られ、そのために命がけの伝道活動をなさるのです。病んでいる者たち、汚れているとされていた人たちを癒しました。礼拝の祝福に入ることができないと排斥されていた人たちと共に食事し、彼らの客となり、共に笑い、共に泣き、彼らの味方になり、彼らを弁護し、彼らを生かしたのです。

イエス様にとって、最も価値あるものとは、そのように存在を否定され、嘆き、苦しむ一人一人以外にはなかったのです。イエス様がタラントを預けるとおっしゃる時、それは、大切な人を預けるということ以外のことを意味するとは考えられません。

ヨハネの福音書でも、イエス様は「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と最後の言葉を残しておられるのです。

私たちは、それぞれの能力に応じて、一人の人を託されることがあるでしょう。あるいは5人の人を託されることもある。多くの人を神様に預けられることもあるかもしれない。そこには、5タラントの人と1タラントの人の間に不公平があるというようなことはないのです。多くの人を託されて、その方々のために生きることが求められる人がいるでしょう。マザー・テレサのような人がそうです。あるいは、たった一人の人のために、自分の全てを注ぎだして生きる人がいるでしょう。どちらも尊いのです。5タラントが尊く、1タラントがつまらないということはない。タラントが人を意味していると読むならば、これもすっきりと理解できると思います。

では、5タラントの人や2タラントの人が、別に5タラント、2タラントを儲けたとはどういうことでしょう。

先日、インターネットのアンケートで、電車で席を譲るかというのがありました。その結果を見たのですが、70%ぐらいの人が譲ると答えていました。その中に、自分が病気で苦しかった時、席を譲ってもらってとても助かり、嬉しかった。だから、私も席を譲りたいと思うというコメントがありました。

愛された人は、愛することを知るのです。愛されたように愛するようになっていく。だから、あなたが人を大切にするなら、その人も人を大切にする人間に変わっていく。5タラント預けられた人が5タラント儲けたというのは、そのことを意味しているのです。愛が愛を呼ぶような関係が広がっていく。だから、主人は喜ぶのです。2タラントの僕にも同じように言います。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』主人の喜び、それは人を大切にするイエス様の喜びです。

ところが、1タラント預けられた人は、それを土に埋めてしまったのです。預けられた一人の人に対する扱いが悪くて、その人を失ってしまったら、神様にひどく叱られる。神様はひどい人だから、というので、預けられた人をほったらかしにし、暗い土の中に置き去りにした。だから神様は怒るのです。賜物を用いなかったと言って怒っているのではないのです。能力や賜物をたくさん頂いているのに、それを用いることができない人はたくさんいます。そのことを怒っているのではないのです。人を粗末にした。人を無視して、土の中に埋めるようなことをしたことを怒っているのです。そして、それまで放っておかれた人を、多くの人を愛し、彼らを生かした5タラントの人に託されるのです。

皆さん、イエス様が最後の説教の最後のところで仰りたかったこと、それは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」ということに尽きるのです。人を大切にせよ。人を労れ。人の尊厳を守れ。全ての人を価値ある存在として尊びなさい。彼らに仕えるしもべとなりなさい。

これから自分は十字架に架けられて殺される。しかし、蘇って、聖霊の命を一人一人に注ぐぞ。聖霊の愛を一人一人に与えるぞ。その愛で、愛せよ。わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい。わたしは、もう一度やって来る。その時、この愛で愛し合っている姿を見せてくれ。わたしの喜びを共に喜んでくれと仰っているのです。

勿論、私たちの愛は不完全です。イエス様のような完全な愛で愛することはできないでしょう。かえって託された人々を傷つけてしまうことだってあり得ます。しかし、イエス様は、そんな不完全な愛しか持ち合わせていない私たちを憐れんで、私たちの失敗を覆い隠すために、十字架にかかって下さったのです。あなたの失敗は、わたしがすべて背負うから、あなたは思い切って愛しなさい。イエス様は、そのように仰っているのではないでしょうか。

マザー・テレサが次のような祈りを残しています。

「最愛の主よ。病んでいる人は、あなたの大切な人。今日も、いつも、病人ひとりひとりのうちに、あなたを見ることができますように。看病しながら、あなたに仕えることができますように。

イライラと短気な人、気難しい人、理屈に合わないことを言う人、人の目には好ましく思えないこうした人の中にもおられるあなたを見分けて、こう言えますように。『わが患者イエス、あなたに仕えることはとても嬉しい。』

主よ、このように見る信仰を与えてください。そうしたら、仕事は少しも単調ではなくなるでしょう。貧しく苦しんでいる人々の気まぐれを、温かくユーモアのうちに受け止め、その人々の願い事を満たすことに絶え間ない喜びを見出す者となるでしょう。

愛する病人さん、あなたがキリストを現しているとなれば、あなたは、二重に親愛な方となります。あなたをお世話することが許されるのは、わたしにとって特別な恩恵です。・・・

神であるお方よ、あなたはイエス。わたしのお世話する患者のなかにおられます。どうかわたしに対しても、ひとりひとりの患者イエスが忍耐深いイエスとなって、わたしの数々の落ち度は大目に忍び、あなたの大切な一人一人の病人のうちにおられるあなたを愛し、あなたに仕えようとしているこの志だけを見取ってくださるようにしてください。主よ、今もいつも、わたしの信仰を強め、深めてください。わたしの努力と仕事を祝してください。」(『マザー・テレサのことば』半田基子訳、女子パウロ会より)

皆さん、私たちは互いに愛し合いましょう。人を大切にしましょう。その人がクリスチャンであっても、そうでなくても、私たちに都合の良い人であっても、そうでなくても、愛する愛を主を私にも与えて下さいと祈っていこうではありませんか。

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