「マタイの福音書」連続講解説教

キリストの権威の中に

マタイの福音書21章23節から32節
岩本遠億牧師
2008年6月15日

21:23 それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の
長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをし
ておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」21:24
イエスは答えて、こう言われた。「わたしも一言あなたがたに尋ねましょう。
もし、あなたがたが答えるなら、わたしも何の権威によって、これらのこと
をしているかを話しましょう。21:25 ヨハネのバプテスマは、どこから来た
ものですか。天からですか。それとも人からですか。」すると、彼らはこう
言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、
彼を信じなかったか、と言うだろう。21:26 しかし、もし、人から、と言え
ば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認めているのだから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりません。」と言った。イエ
スもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのこと
をするのか、あなたがたに話すまい。

21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子が
いた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』
と言った。21:29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行か
なかった。21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところ
が、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと
思って出かけて行った。21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりに
したのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言わ
れた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あ
なたがたより先に神の国にはいっているのです。21:32 というのは、あなた
がたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。しかし、取
税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見なが
ら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったのです。」

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私たちは、今日どのような思いでイエス様の前に出ているでしょうか。先週
一週間、私たちのこの国は非常にショックを受ける出来事に遭遇しました。
秋葉原の歩行者天国で起こった無差別通り魔殺人事件、そして昨日の東北地
方の地震です。日本という社会の基盤が揺れ動いている。私たちは、何を信
じたら良いのか。

このような時によく質問されます。もし神様がいるなら、何故このようなこ
とが起きるのかと。あるクリスチャンの人からも、神様は一体何を考えてい
るのかという疑問の言葉を聞きました。人間は、神様に向かって質問するの
です。何故、あなたはこれを行われるのですか。何故、このようなことが起
こることを許されるのですか。

今日の聖書の箇所は、「権威」ということが問題とされていますが、このよ
うな質問は、まさに、「神様、あなたは何の権威によって、私たち人間の生
活をこのようにして脅かしているのですか」という質問にほかならないでし
ょう。そのような質問をぶつける私たちに、実はイエス様のほうからもっと
根本的な質問を投げかけておられる。今日の聖書の箇所は、そのことを教え
るものであるように思います。

イエス様は、神殿の異邦人の庭で朝早くから教えておられました。ここは、
その前日、宮清めを行われた場所です。多くの人たちが過ぎ越しの祭りのた
めに神殿に来ていました。イエス様の周りには多くの人たちが集り、その言
葉に耳を傾けていたに違いありません。イエス様が何を教えておられたのか、
ここには書いてありません。ひょっとしたら、山上の説教で教えられたよう
な恵みの言葉を教えてられたのではないかとも思います。参上の説教を語り
終えられたとき、人々はその「権威」に驚いたと書いてあります。律法学者
たちのようにではなく、権威あるものとして教えられたからです。

まさに、その前日の宮清めも、イエス様は神の御子の権威をもって行われ、
この日の説教も、権威ある者として、語っておられる。イエス様は、神の子
の権威を主張しておられるのです。それは、貧しい者を生かす権威であり、
悲しむものを慰める権威であり、飢え乾くものを満たし、低められている者
たちを引き上げる権威、そして、神殿礼拝主義を倒し、真の礼拝をこの地に
確立する権威であったのです。その権威を持った者としてイエス様はご自身
をエルサレムにおいて現されました。

そこに祭司長、民の長老たちがやってきました。彼らは、ユダヤの最高議会
サンヘドリンの構成メンバーで、国という権威を背負った人々です。彼らは、
自分たちこそ、権威ある者だ、自分たちこそ神様から権威を与えられた者だ
という意識を持っていました。だから、イエス様のあの真に権威ある行動、
真に権威ある言葉に対して、反発、憤りを感じたのです。それで問いただし
ました。

「何の権威によって、これらのことをしているのか。だれが、あなたにその
権威を授けたのか。」「あなたは、一体何者なのか」という質問です。

それに対して、イエス様は反対質問でお答えになりました。これは、彼らの
質問に答えたくないから、それから逃れるためのものではありません。むし
ろ、この反対質問は、彼らの質問に対する明確な答えとなっているのです。

「ヨハネのバプテスマは天からのものであったのか。それとも人からのもの
であったのか。」つまり、ヨハネのバプテスマは、天の権威によって行われ
たのか、それともヨハネの人間的な思いによるものだったのか、という意味
です。ヨハネのバプテスマとは、罪の悔い改めを迫るものです。それまで自
分の思いを善悪の判断基準とし、神様をないがしろにした生き方をしていた
者たちに、神に立ち帰れと叫び、罪が赦されるための悔い改めの洗礼を授け
ていたヨハネの活動は、何の権威によって行われていたのか。罪の悔い改め
と、罪の赦しは、どこから来るのか。人の思いからか、それとも、天の権威、
神の権威から来るのか。イエス様はそのように聞いておられます。

それに対する、祭司長、民の長老たちの反応はどうだったか。

「すると、彼らはこう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と
言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。21:26 しかし、
もし、人から、と言えば、群衆がこわい。彼らはみな、ヨハネを預言者と認
めているのだから。」21:27 そこで、彼らはイエスに答えて、「わかりませ
ん。」と言った。イエスもまた彼らにこう言われた。「わたしも、何の権威
によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」

彼らは、イエス様の質問に真直ぐに答えようとはしませんでした。イエス様
の真実の質問に対して、政治的に答えるのです。しかし、彼らは、本当は気
付いていたのです。ヨハネのバプテスマが天からの権威によって行われたも
のであることを。しかし、彼らは、罪を悔い改めようとしなかったこと、罪
を赦していただくために自らを低めようとはしませんでした。その事実に直
面することを恐れました。だから、政治的な判断を装って、「わかりません」
と言うのです。

それに対するイエス様のお答えも、これまた明確なものです。「お前たちが
答えないから、わたしも答えない」と答えを回避しているように聞こえるか
もしれませんが、そうではありません。「ヨハネのバプテスマ、真の悔い改
めと罪の赦しが天の権威によって行われるものであることを認めるなら、わ
たしのこの権威が天からのものであることは明確なはずだ。ヨハネのバプテ
スマを認めないなら、どうして、わたしの権威が天からのものであることを
知ることができようか」と仰っているのです。

「自分の持っている権威にあぐらをかくのをやめて、謙遜な者となり、罪を
悔い、神様に立ち帰りなさい。罪を赦していただきなさい。そうすれば、真
に神様の権威とは何かを知ることができるようになる。」

イエス様は、これに続いてぶどう園の主人の二人の息子という譬え話をお語
りになります。ぶどう園の主人とは、神様のことを表します。二人の息子は
人間です。ぶどう園で働くとは、神様と一緒に働くと言うことです。神様と
一緒にいることを喜ぶと言うことであり、その運命を共にするということで
す。神様が、自分の息子たちに、「ぶどう園に行って働け」と仰っている。
息子の一人は、「はい」と行ったけれども、行かなかった。もう一人は「い
やだ」と言ったけれど、後で悪かったと思い、ぶどう園に行った。どちらが
父の願ったとおりのことをしたのかとイエス様はお尋ねになっています。

答えは、小学校の子供でも分かります。それは、後で思い直してぶどう園に
行った者です。イエス様は、後で悪かったと思って、ぶどう園に行ったもの
たちこそが、ユダヤの社会で罪人と言われていた取税人や売春婦たちで、彼
らはヨハネのバプテスマを信じ、罪を悔いて神の国に入りつつある。しかし、
神様に対して良い返事はしたけれども、行かなかった者たちとは、神の権威
を持っていると自認している、お前たち祭司長、民の長老たちではないのか
とイエス様は仰っているのです。

しかし、私たちは、「どちらが父の願ったとおりのことをしたのか」という
イエス様のお言葉にさらに耳を傾け、その語られる意味を聞き取らなければ
なりません。このあとの息子は、父なる神様が願ったとおりの生き方をして
いたのでしょうか。言うまでもなく、神様の言葉に反抗していたのです。神
様の願ったとおりの生き方をしていたわけではない。

しかし、後で悪かったと思って、立ち帰った時、「父の願ったとおりのこと
をした」と言って下さる神様がいるのです。それまでの反抗や無礼、罪を全
てなかったこととして、それを全部帳消しにして、「お前は、わたしの願っ
たとおりのことをしてくれた」と言って喜んでくださる主がいるのです。

私たちはどうでしょうか。これまで神様の願ったとおりの生き方をしてきた
でしょうか。具体的に何か悪いことをしたこともあるかもしれない。あるい
は、そのようなことはなかったかもしれない。しかし、いつも自分を中心に
世界を見、自分の都合に合わせて良いことと悪いことを決めてきたと言うこ
とに関しては、皆、同じなのではないでしょうか。それで、ある時は優越感
に浸り、またある時は劣等感にさいなまれる。人に対する怒りや不満、また、
自分に対する怒りや不満、それらは、自分を中心とした思いから出るのです。

私たちは、ちっぽけな自分という権威の中に生きている。イエス様は、もっ
と大きな神様の権威の中に生きる者であれと仰ってくださっている。そして、
私たちが神様の権威の中に生きるために、ご自分の権威の全てを捨てて、十
字架にかかってくださったのです。この主は、自分の罪を認め、悪かったと
思い、神様と共に行きようとする者に、「お前は、わたしの願ったとおりの
ことをしてくれた。お前は、わたしの権威の中に生きてくれた」と言って、
全てを赦し、喜んでくださるのです。

イエス様は、この祭司長たち民の長老たちについても、最後まで待っておら
れたのではないでしょうか。イエス様は、彼らが悔い改めないことを知って
おられました。しかし、「取税人や遊女たちは、あなたがたより前に、神の
国に入っているのです」という「あなたがたより前に」という言葉の中に、
「あなたがたも、入れるのだ。自分の権威ではなく、神様の権威の中に自分
を置くことによって、悔い改めることによって、神の国に入れるのだ。神様
は待っておられるのだ」というイエス様の張り裂けるような思いが聞こえて
くるように思うのです。

私たちを待って下さっている方がいる。私たちは、何と答えるのでしょうか。
私たちは、誰の権威の中に生きるのでしょうか。自分の権威でしょうか。神
様の権威でしょうか。

「元気の出る聖書の言葉」の読者の方の友達の中に、あの秋葉原の殺人事件
の犠牲者になった方がおられます。読者の方が、昨日の「元気の出る聖書の
言葉」にコメントを下さいました。

「秋葉原の事件で自分の友人が死にました。最近まで自分は犯人を
許せない気持ちでいっぱいでした。でも、この箇所を聞いて、許せ
ない気持ちの自分が情けなくなりました。問題なのは人が人を殺し
てしまう世の中に、犯人があんな事をしてしまう環境が問題なんじ
ゃないかと思いました。イエス様をみんなが知ってたら・・・。二
度とこんな事件が起きない為に、イエス様の事を伝えて行きます。
あいつの死を無駄にしないために。」

全ての人が、イエス様の権威の中に生かされることが必要なのです。私だけ
がイエス様を知っていたら良いのではないのです。全ての人に祝福を与える
権威を持っておられるお方、イエス様の権威の中に生かされることが全ての
人に必要なのです。

この方は、貧しい者に天国を与える権威を持ち、悲しむ者を慰める権威を持
っているからです。低められている者たちにこの世を祝福させる権威を持ち、
義に飢え渇く者に救いを満たす権威を持っているからです。また、病める者
を癒す権威を持ち、滅んで行こうとする者たちに、命を与える権威を持って
いるからです。私たちは誰の権威の下にあるのでしょうか。

祈りましょう。

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