「マタイの福音書」連続講解説教

メシアの産みの苦しみ

マタイの福音書講解説教2章13節から23節
岩本遠億牧師
2006年7月9日

2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」

2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、

2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。

2:16 その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年令は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。

2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。

2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」

2:19 ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現われて、言った。

2:20 「立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に行きなさい。幼子のいのちをつけねらっていた人たちは死にました。」

2:21 そこで、彼は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地にはいった。

2:22 しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。そして、夢で戒めを受けたので、ガリラヤ地方に立ちのいた。

2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。

マタイの福音書を連続で学んでいます。今日の箇所は、聖書を初めて読む人たちにとって理解するのが難しい箇所の一つだと思います。人間が神に期待すること、あるいは、私だったらこうすると考えることと、神様のお考えや方法とが違うことを示しているからです。しかし、聖書全体を読み、その観点から、この箇所を理解しようとすると、私たちの思いを超えて働かれる神様の計画とその深い愛を理解することができるようになるでしょう。

前回学んだことを振り返ってみたいと思います。メソポタミア地方の占星術の学者たちが不思議な星を見て、新しく生まれたユダヤ人の王、イエス様を礼拝しにやってきました。最初、星の導きに従っていた彼らでしたが、イエス様の居場所を人に聞こうとして、星を見失い、殺戮者ヘロデの策略に陥り、ヘロデに利用される者となってしまいました。しかし、神様は彼らを見捨てず、もう一度彼らの目を開いて星を見させ、イエス様のところに導かれました。そして、イエス様をひれ伏して礼拝し、捧げ物を捧げた彼らは、直接神様の導きを与えられるものと変えられ、ヘロデの道に戻らず、別に道を通って自分の国に帰っていきました。礼拝者とさせられることが、悪魔に利用されない者に変えられることであり、神様の正しい道を歩む者と変えられることなのだということを学びました。

今日は、その続きですが、ヘロデは、博士たちが自分のところに戻ってこないということを知って激怒し、ベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子を一人残らず殺させるという暴挙に出ます。ところが、イエス様は、主の使いが養父ヨセフに夢に現われてエジプトに逃れるよう命じ、難を逃れるのです。

私たちは、このことをどのように受け止めたら良いのでしょうか。神様は、イエス様だけを助けて、他の子どもたちを見殺しにしたのかと感じる方もおられるでしょう。

しかも、記者のマタイは、このことが神様の計画の中にあったと告白しています。

2:17 そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。

2:18 「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ。」

エレミヤと言うのは、旧約聖書に含まれるエレミヤ書という預言書を残した預言者で、紀元前627年から583年頃までの期間活動しました。この箇所は、エレミヤ書31章15節からの引用ですが、自らの罪のために国を滅ぼされ、子どもたちを奴隷としてバビロニアに連れて行かれた母親たちの嘆き苦しみの声を記したものです。ラケルとは、イスラエルの子らの母を代表する名前です。

マタイは、この時の母たちの嘆き悲しみと、ヘロデに殺された子どもたちの母たちの悲しみを重ね合わせています。そして言います。この事件は、預言者エレミヤによって語られた事が成就したものだと。

この幼児虐殺が過去も現在も未来もその手の中に握っている神様の御手の中にあった。その計画の中にあったと告白しています。私たちは、このような言葉を聞くと戸惑います。

神は愛ではないのか。神が愛なのなら、なぜこのような事が起こることを許したのか。勿論、神が虐殺させたわけではないのは分かる。人の罪がこれを引き起こした。悪魔がこれをなした。だが、全てを知る神がこれを知っていたのなら未然に防げたはずではないかと。そして、神の愛を疑うのです。

しかし、聖書はこの出来事を通して少なくとも3つの重要なことを私たちに教えています。一つは、「メシアの産みの苦しみ」という思想です。メシアの出現の前に辛い苦難の時代が先行するというダニエル書以来の理解があります。不法者が現われ、神に従うものたち、罪のない者たちに一方的な苦しみを加えるようなことが起きる時、その時こそ、メシアの産みの苦しみの時である。この虐殺された子どもたちは、メシアの産みの苦しみを共にする者、神様と共同の苦しみをする者、神様と共同の働き人であるというのです。ルターは、ここで虐殺された子どもたちを、イエス様の最初の殉教者と呼びました。

神様と共同の苦しみを分かち合う、メシアの産みの苦しみを共にするという思想は、新約聖書のパウロの書簡にも見られます。

ローマ8:16-23

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

ガラテヤ4:19

4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

コロサイ1:24

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

私たちも、不条理な苦しみを受けることがあるでしょう。何故このような苦しみがやってくるのか分からないと思うような時、あなたの中にイエス様が生まれようとしている、あるいは、あの人、この人の中にイエス様が生まれるために、あなたはメシアの産みの苦しみを経験しているのだと聖書は語るのです。

このような苦しみを経験する時、神様がご自分に最も近い者としてあなたを握っておられるのです。あなたの中に神様ご自身の心を分け与えようとなさっているのです

次に、この子どもたちは殺されて終わったのではないと聖書は語ります。先ほど見たエレミヤ書をもう少し引用すると、次のように書いてあります。

31:15 主はこう仰せられる。「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きと泣き声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている。」

31:16 主はこう仰せられる。「あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。――主の御告げ。――彼らは敵の国から帰って来る。

31:17 あなたの将来には望みがある。――主の御告げ。――あなたの子らは自分の国に帰って来る。

31:18 わたしは、エフライムが嘆いているのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめられたので、くびきに慣れない子牛のように、私は懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。

31:19 私は、そむいたあとで、悔い、悟って後、ももを打ちました。私は恥を見、はずかしめを受けました。私の若いころのそしりを負っているからです。』と。

31:20 エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ。――

31:21 あなたは自分のために標柱を立て、道しるべを置き、あなたの歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ。帰れ。これら、あなたの町々に帰れ。

31:22 裏切り娘よ。いつまで迷い歩くのか。主は、この国に、一つの新しい事を創造される。ひとりの女がひとりの男を抱こう。」

31:23 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「わたしが彼らの捕われ人を帰らせるとき、彼らは再び次のことばを、ユダの国とその町々で語ろう。『義の住みか、聖なる山よ。主があなたを祝福されるように。』

31:24 ユダと、そのすべての町の者は、そこに住み、農夫も、群れを連れて旅する者も、そこに住む。

31:25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。

エレミヤは、連れ去られた子どもたちがもう一度イスラエルに帰されるときが来ると預言しました。連れ去られた子どもたちに対する憐れみ、嘆きは、その母たちだけの嘆き悲しみではなく、神様ご自身の嘆き悲しみであると語っているのです。

31:20 エフライムは、わたしの大事な子なのだろうか。それとも、喜びの子なのだろうか。わたしは彼のことを語るたびに、いつも必ず彼のことを思い出す。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。――主の御告げ。――

そして言われます。「イスラエルよ。帰れ!」と。

31:23 イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「わたしが彼らの捕われ人を帰らせるとき、彼らは再び次のことばを、ユダの国とその町々で語ろう。『義の住みか、聖なる山よ。主があなたを祝福されるように。』

31:24 ユダと、そのすべての町の者は、そこに住み、農夫も、群れを連れて旅する者も、そこに住む。

31:25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満たすからだ。

引き裂かれたものをもう一度一つにする方がおられます。失われた者を放っておかない神様がおられるのです。エレミヤの預言は、70年の時を経て、ペルシャのクロス大王の時に実現しました。

幼児虐殺をエレミヤ書に重ね合わせて語る聖書は、エレミヤ書に書かれている神様の憐れみと救い、解放と救いの喜びをも語っていないでしょうか。人の目には引き裂かれたことしか見えなくても、殺された子どもたちとその母たちを、永遠という時の中で、もう一度一つにすることができる神様がおられるのです。この子どもたちのために腸をわななかせ泣く神様がおられます。この子どもたちと母たちを永遠の時間の中でもう一度一つにする神様がおられるのです。

エペソ

1:9 それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、

1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

そして、最後に最も大切なことを心にとめたいと思います。イエス様は、単に難を逃れるためにエジプトに連れて行かれたのではありませんでした。十字架の死を全うするために、この時は逃れたのです。

イエス様は、全人類の罪の贖いとなるため、十字架に架けられて殺されるため、そして死の呪いを打ち砕いて蘇るため、永遠の命を与えるために、この世に来られたのです。

私たちの罪の身代わりとなって十字架に付けられたイエス様は、ご自分の身代わりとなって殺されたこの子どもたちのことを忘れたりなさるでしょうか。

イエス様は、間違いなく、十字架の死によって黄泉に下られた時、この子どもたちの霊をご自分のものとして、奪還し(Ⅰペテロ3:18-19)、彼らを苦しめた悪魔に対する復讐を行い、これを打ち砕き、これに永遠の処罰を与えたのです。そして、復活によって、彼らの霊を生かし、彼らにご自身の栄光を分け与えられたのです。

この幼子たちは、見捨てられたのではありません。ご自分の身代わりとなった彼らをイエス様は見捨てず、ご自分に最も近い者として、今も、ご自分のそばに置いておられるのです。

黙示

7:14 彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。

7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。

7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。

7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

神は愛です。神様は、その遠大なご計画の全てによって、全てを働かせて益としてくださいます。全てを最善となさるのです。

私たちの目には今すぐ分からないかもしれない。しかし、神様は見捨てておられません。神が愛であるという時、それは、私たちがそう思うから愛なのではありません。私たちに理解できないような状況が現われ、私たちが倒れるようなことがあっても、神は愛なのです。私たちが理解するから私たちを握ってくださるのではない。分からない私たちを握り、倒れた私たちを背負ってくださるイエス様がおられるのです。この方が、愛なのです。愛そのものなのです。

そして、十字架と復活という絶大な力と恵みによって、悪魔を打ち砕き、私たちの苦しみに対する復讐をなさる。イエス様に従う私たちにご自身の栄光を分け与えてくださるのです。

苦しむ私たちと共に泣きながらも、「わたしの恵みはあなたに十分である」(2コリント12:9)と宣言するほど、イエス様の十字架と復活の恵みは圧倒的なのです。

全てを覆い尽くして余りある恵み、私たちはそれを知るようになるでしょう。天国に帰った時、あの幼子たちがイエス様のそばに仕え、イエス様を礼拝している姿を見るでしょう。イエス様の栄光を見るでしょう。イエス様の御名のゆえに苦しんだ人々に対する報いと栄光を見るでしょう。

私たちは、目に見える状況に絶望しないようにしましょう。いや、仮に絶望するようなことがあったとしても、この幼子たちをご自分のものとして捉え、悪魔から奪還したイエス様は、私たちをも奪還し、取り戻し、ご自分のそばに置いてくださるのです。この方が、永遠にあなたの神となってくださるのです。私の神となって下さるのです。

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