「マタイの福音書」連続講解説教

メシアの道

マタイによる福音書8章14節~22節
岩本遠億牧師
2007年4月15日

8:14 イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。 8:15 イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。 8:16 夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。 8:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」

8:18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。 8:19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。 8:20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 8:21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。 8:22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」

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受難週と復活祭の礼拝では、いつも学んでいるマタイによる福音書とは違った聖書の箇所を開きましたが、今日からまたマタイによる福音書に戻りたいと思います。イエス様は、伝道を始められたばかりの頃、多くの群集がご自分のところに集まってくるのを見て、山に登り、山上の説教としてまとめられている長い説教をなさいました。そして、山を下りてこられると、神様に呪われていると一般に考えられていた重度の皮膚病を患っている人を清め、彼に神様の約束の民、礼拝者としての尊厳を回復なさいました。また、引き続き、神様の祝福からは除外されているとされていた異邦人であるローマの百人隊長の僕を、百人隊長の信仰に応えて癒されました。今日は、その続きの部分です。

イエス様はこの後、活動の拠点としておられたカファルナウムに戻られ、ペテロの家に入られますが、彼の姑が高熱で苦しんでいました。イエス様は、彼女の手に触れられると熱が引き、彼女は癒されてすぐにイエス様をもてなしたとあります。イエス様が与えられた癒しが、どんなに命に満ちたものだったか、命を与える癒しであったかが分かります。すると、その噂が広まって、その地方にいた人たちが、病気の人々を連れてきたので、彼らを癒されました。マタイは、ここでイザヤ書53章の言葉を引用して、イエス様が病人を癒されるとは、どのようなことだったのかを明らかにしています。このように預言されています。

53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。 53:4 彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。 53:5 彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

イエス様が癒しをなさるとは、ご自分は何も影響を受けず、ただ病気の人を元気にするということではなかった。イエス様が病や患いを自分の身に引き受け、取り去って下さるから癒されるのだというのです。勿論、その場でイエス様がすぐに具合が悪くなるということではなく、その病を引き起こす様々な悪の力をその身に引き受け、その痛みと苦しみをあの十字架の上で嘗め尽くされたということを意味しているのです。ここにイエス様による癒しと、病気のための加持祈祷というものの本質的な違いがあります。

当時は、今のように良い薬があるわけではありません。手術を受けたりすることもできない。重い病気にかかると、それは死を意味していましたし、あるいは、汚れた者として礼拝の祝福から除外され、またあるいは、自ら産業に従事することができなくなり、施しを受けなければ生きていけなかったのです。彼らにとって病は死と絶望と結びついていたのです。

イエス様が彼らの病をその身に負われるとは、彼らが背負っていた死と絶望を取り去り、それを十字架の上まで持っていくということだったのだとイザヤは預言しました。そして、マタイは、それが今ここで実現しているのだと告白しているのです。ですから、私たちも病気になった時、イエス様に癒してくださいと祈りますが、それは「主イエス様。どうぞ、この病を取り去って下さい。あなたがそれを背負って持って行ってください」という祈りだと聖書は言うのです。私は、癒しを祈るとき、そんなことを考えていただろうかと思います。これから癒しのための祈りをするとき、このことをもっと意識して祈りたいと思います。「主よ、この痛みとこの苦しみ、この病を、あなたが引き受けて下さい。あなたの十字架の血を注いで癒してください」と。これは、地にひれ伏す者の祈りです。イエス様の十字架と復活だけに希望を見出す者の祈りです。

さて、イエス様は、カファルナウムではゆっくりすることができず、弟子たちに舟を用意させ、向こう岸へ行くようにと命じられます。すると、そこに一人の律法学者がやってきて言います。「先生、あなたがお出でになるところ、どこにでも従ってまいります」と。きっと、この律法学者は、山上の説教を聞いていたのかもしれない。また、重い皮膚病を患った人の癒しや、百人隊長の僕の癒し、ペテロの姑の癒しを目撃していたのかもしれません。いずれにせよ、この律法学者の心の中には、「この方について行きたい」という湧き上がる思いがあった。

ところが、イエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところがない」と言われました。「人の子」とは、イエス様が自分を指して言われる時に用いられた表現ですが、これはどういう意味なのでしょうか。「わたしについて来ると、ゆっくり寝るところもないほど大変だ。その程度の信仰なら、止めといたほうが良い。君には無理だ」と拒絶なさったということなのでしょうか。

また、弟子の一人が「まず父を葬りに行かせて下さい」と言うと、イエス様は、「君はわたしと一緒に来なさい。死んだ君の父親は、死んでいる人たちに葬らせなさい」と仰った。これは、どういう意味でしょうか。「わたしの弟子たる者、親の葬儀に後ろ髪引かれるようでどうするか。死んだ者は放っておいて、私の弟子になりたいんだったら、私についてきなさい」とイエス様は仰ったのでしょうか。もしそうなら、「彼は、私たちの患いを負い、病を担った」と言われ、それを十字架まで持って行ってくださったイエス様の姿と、この言葉との間のギャップをどのように理解したら良いのでしょう。私は困惑します。

このイエス様の言葉を「弟子の覚悟」を教えられたものと理解することは勿論可能ですが、字面だけを読んで、「弟子たる者は、云々」と語りだすなら、その教会はすぐにカルト教会になってしまうでしょう。ある人に向かっては、「あなたは信仰が十分ではないから、弟子になることはできません。弟子になりたければ、これこれの条件を満たさなければなりません」と言い、他の人には、「教会よりも家族を大切にするとは一体何事か。そんなことでは救われない」と言うようになるからです。イエス様は、クリスチャンたちがそのようなことを言うようになるために、この言葉を言われたのだろうか。私は、違うと思います。それは、全ての人の病を負い、患いを担った人が意図しておられたことではありません。

私は、高校3 年生の時長崎にいましたが、事情で私は長崎に、父と母は小田原に別れて暮らしていました。当時私が属していた長崎の教会で伝道集会をすることになりました。みんなで一緒にビラ配りをしたり、路傍伝道をしたりして準備していましたが、伝道集会の数日前に、熊本にいた私の祖父が他界しました。小田原にいた私の両親は、葬儀のために熊本に飛んできていました。そして私にも熊本に来るようにと電話がありました。私は、長崎の教会の若い牧師に、熊本に行くと伝えましたが、彼は、「死んだものたちに死者を葬らせよ」というこの聖書の言葉を引用して、伝道集会の準備を優先して葬儀には行かないようにと強く迫りました。「君も親との関係を切るところから始めないとね。それが主の弟子たる者の選ぶ道だ。僕もそうやって主の弟子となった」と。私は、とても困りましたが、彼の言うことを聞かず、熊本の祖父の葬儀に行きました。もし、私がそこで彼の言うことを聞いて、伝道集会の準備をしていたら、私は、聖書のこの箇所が教える深い霊的な意味を知ることは決してなかったと思います。きっと今、「家族との関係を切らなければ、主の弟子となることはできない。私もそのようにしてきたから主の弟子になることができたのです」と言っていることでしょう。これは非常に怖いことです。聖書は決してそのようなことを言っていません。自分の力と決心で主の弟子になることなどできないと言っているからです。

先の律法学者は、「あなたのいらっしゃるところになら、どこへでも参ります」と言いました。イエス様は、「私には枕するところがない」とお答えになりましたが、これは、「この地には、私の安息の場所はない。なぜなら、私は、この世に苦しみを受けるため、十字架につけられて殺されるためにやってきたからだ」という意味です。「わたしは、このことを自分ただ一人で行わなければならない。誰も、私の十字架、私が下ろうとしている地獄に一緒にくることはできない」と仰っているのです。「君は、わたしと一緒にどこにでもついて来ようと言うのか。君は、私の行くところに、自分の意志と力で来ることはできない。わたしがつけられる十字架の上にも、また昇っていく天にも、あなたは自分の力で来ることはできないのだ」と仰っているのです。イエス様は、この律法学者だけでなく、「あなたのためには命も捨てます」と言ったペテロにも「お前は私についてくることはできない。お前は、今夜鶏がなく前に三度(徹底的に)わたしを知らないというだろう」と言われました。

また、もう一人の人には次のように言っておられるのです。「死んでいる人たち」というのは、体は生きていても、霊が死んでいる人たち、すなわち、罪の中にあって神様との命の関係が切れている人々を言います。イエス様との関係においてのみ、命の回復がある。

「わたしと一緒にいることが命なのだ。わたしとの関係のないところに命はない。あなたのお父さんを葬りに行くことで、わたしとの関係を失ってはいけない」と。当時は、テレビも新聞もラジオもありません。イエス様は、今舟に乗って湖の対岸に行こうとしておられる。そして、イエス様は旅の生活をしておられ、十字架までの時間は限られている。今ここでイエス様とはぐれたら、もう二度と弟子としてイエス様と関わることはできなくなるのです。

イエス様が肉体をもってこの地に来られた時、命はイエス様と一緒にいることにあったのです。だからイエス様は言われたのです。「わたしから離れるな」と。

今も、イエス様は、私たちとイエス様との関係を損なうようなものがあるなら、「わたしから離れるな」と仰います。このことを私たちは、しっかりと心に留めたいと思います。そして、イエス様との関係の間に入ろうとするものを信仰をもって退けたいと思います。これは、人が他の人を支配するために使われる言葉ではありません。あくまでも、イエス様との関係にこそ命があること、ここに何よりも大切な眼目があります。ですから、イエス様と私たちとの関係がしっかりしていて、私たちがイエス様から離れないのなら、私たちは何をしても良いのです。今イエス様は、聖霊として私たちと共にいてくださいます。教会に行って奉仕をしなければイエス様に従っていないということではないのです。ただ、もし人生の行路において、イエス様を信じるか、それとも他のものを大切にするかという選択を迫られるようなことがあったときには、私たちは毅然としてイエス様について行く者でありたいと思います。

わたしは、イエス様がここで教えておられるのは、弟子の覚悟というよりも、むしろ、「イエス様とは一体誰なのか」というより本質的な理解についてであろうと思います。イエス様が歩いておられた「メシアの道」とは一体何なのかということです。人が自分の意志と思いでは決して行くことができない道をただ一人歩まれる方。そして、他のものが決して提供することができない永遠の命を与えられる方。

「あなたはわたしの行くところに来ることはできない」と言われ、また、「わたしについて来い」と言われる。一見矛盾しているように聞こえるかもしれません。私たちは、自分の思いでイエス様についていくことはできません。しかし、「来い」と言われるときに、ついていくことができるのです。イエス様だけが開かれる門があり、イエス様だけが通られた道があるからです。イエス様だけが打ち砕かれた地獄の門、イエス様だけが開かれた天の門があるのです。イエス様は、ただ一人でこのことを行われ、命の関係の中に私たちを招いて下さるのです。

イエス様は言われます。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネによる福音書6:44)。

全ての人の病を負い、全ての人の患いをその身に受け、全ての人を癒す道、それは、ただ一人のメシア、キリストの道です。他の人が決してついて行くことのできない道です。そして、この地には休む場所がない。わたしは苦しみを受けるため、十字架にかけられるために来たと仰るイエス様の道も、私たちが自分の思いや決意で行くことができる道ではありません。そのように、ただ一人で悪魔との戦いに勝利なさったイエス様が私たちを招いて下さっている。「わたしに従いなさい」と。「わたしとの愛の関係の中にこそ、命があるのだ」と。私たちは、この方が一体誰なのか、この方がなさったことが一体何だったのかということを知れば良いのです。本当にそれを知り、理解し、納得した時、私たちはもうイエス様についていく道を歩き始めています。これは、決心するとか、イエス様のために何かを捨てるために苦労するとか、よく分からないけれども、一生懸命やることに意味があるとか、そのような道ではないのです。イエス様とは誰か、イエス様がなさったことは何なのか、聖霊によってそれを教えられ、分かった時に、私たちは自分の決心によらず、自分の努力によらず、イエス様と共に歩き始める、自然にそういうことが始まる。そういう世界があるのです。

祈りましょう。

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