「ルカの福音書」 連続講解説教

ルカの福音書講解(56) 私たちの必要を満たす方

ルカの福音書第11章1節〜13節
岩本遠億牧師
2012年11月4日

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。 11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。 11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』

11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。 11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。 11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。

11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

先週からルカの福音書に残されている「主の祈り」を読んでおります。先週申し上げたように、「主の祈り」は、天に属する者としてこの地を歩む者の祈りです。天に属する者としてこの地を歩む時に、その実存の目的を達するためにどうしても必要となる祈りがある。イエス様はそれを私たちに教えてくださいました。主の祈りは、前半に天に属する者としての祈りが祈られ、後半に地を歩く者としての祈りが祈られる。

先週は、天に属する者の祈りとは何かを学びました。「御名があがめられますように。御国が来ますように。」神様の御名が神聖なものとして崇められること、神の国の祝福と秩序がこの地に満たされること、これが天に属する者たちの願いがあり、祈りがあります。

地を歩む者の祈りが後半です。天に属する者ではあっても、私たちはこの地を歩む者として生きていくのに必要なものがあります。天に属する者であっても赦して頂かなければならない罪があります。また、私たちが赦さなければならない人々がいる。そして、悪魔の攻撃から守って頂く必要があります。ですから、イエス様はお教えになりました。「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください」と祈れと。

今日は、この中から「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」を取り上げます。

これは、どのような祈りでしょうか。誰の祈りでしょうか。これは貧しい者の祈りです。自分で自分の必要を満たすことができない者たちの祈りです。皆さんはどうでしょうか。私はどうでしょうか。自分の必要は自分で満たすことができると考えているでしょうか。アンドリュー・マーレーというオランダ改革派の牧師が『謙遜』という小さな本を書きました。この本は私の信仰に最も大きな影響を与えた本ですが、その中でこのようなことを言っています。

「アダムとエバが、神様から禁じられた善悪の知識の木の実を食べた、これは、自分自身が神様に完全に依存した存在であるということを否定するということであった。神様なしでも自分はやっていける。何が正しいか何が悪いかは自分で判断できる。神様から独立した存在として行きていく道を選択したこと、これが高慢であり、罪の根である。」

私たちの多くは、自分が働いて得た収入によって生活しています。ですから、日用の糧は自分で手に入れていると思いやすい。そして、毎日食卓に食べ物があることが奇跡だということに気が付いていないのです。ユダヤの賢人は言いました。「今目の前にパンがあること、これは神の奇跡である」と。

毎朝太陽が昇り、時に応じて雨が降る。大地を耕す人がいて、収穫してくれる人がいる。流通に従事する人々がいて、我々の手元に食料が届く。これら全てのことの中に調和があり平和があるからこそ、私たちは自分の目の前のものを食べることができるのです。これらの内、どれ一つに問題があっても、私たちは食べることができなくなる。私たちは、決して自分が持っている能力によって日用の糧を得ているのではありません。

いやむしろ、今、私たちの目の前に毎日パンがあること自体が奇跡なのです。神様の創造の業、絶えることのない天地運営の恵み、そして人々の間に与えられる調和と平和。私たちは、今日食するパンを見る時に、そこに神様の恵みがあり、自分の存在が全く神様に依存していることを知るのです。

イエス様は言われました。「天の父は良い者の上にも、悪い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者の上にも正しくない者の上にも雨を降らせてくださる。」私たちの神様は、正しい者だけに太陽を昇らせ雨を降らせるお方ではない。悪い者、正しくない者の上にも太陽を昇らせ、雨を降らせ、食べ物を与えてくださるお方がいる。だから、私たちはこれまで毎日食べることができているのです。この方の恵みは悪い者の上にも降り注ぐ。だから私たちはこれまで生きて来ることができたのです。

イエス様は言われます。この方があなたの天の父だ。この方に向かって祈れ。「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」と。

宗教改革者マルチン・ルターは、「日用の糧」の意味を問われ、次のように答えています。「私たちのからだを養い、必要を満たしてくれるすべてのもの。例えば、食べ物、飲み物、着る物、靴、家、庭、土地、家畜、金銭、所有物、献身的な配偶者、献身的な子供たち、献身的な雇い人、献身的で信仰深い施政者、よい政府、よい天気、平和、健康、学問、名誉、よい友人、信仰深い隣人、そしてこれに類する他の全てのもの。」

私たちの存在は、非常に多くのものによって支えられています。本来はどれ一つとっても自分の思い通りにはならないものです。正しく見る目を与えられていく時、私たちは、自分の存在が今の神様の創造の業と絶えることのない天地運営の恵み、そして人々の間に与えられる平和と調和に全面的に依存していることを知るのです。

私たち自身の健康も、同じです。自分の体ですが自分の思い通りにはなりません。これも神様の御手の中に握られているものです。私たちが自分の足で立ち、仕事に行って収入を得られるのも、健康が支えられているからです。しかし、健康を害すると、その途端に働きにいけなくなり、日々の食べ物にも困る状況になるのです。それは、安定した職に就いている者でも同様です。

私たちは、自分のことは自分で決められる。自分は自分のものだと思って生きて来たかもしれません。しかし、自分のものだと思う自分が案外自分の思い通りにはならないのです。自分の部屋や自分の車なら思い通りに飾ったり、手を加えたりすることができます。しかし、自分は自分の思い通りにはならない。それは、自分のものだと思っていた自分が自分のものではないからです。

パウロは告白しました。「14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」ローマ14:7-8。何ができても、何ができなくても、私たちは神様のものです。神様のものは神様がお守りになります。

私たちは日々、このことを告白しながら生きていきましょう。神様は、私たちがこれを体験的に知ることができるように、必ずお守りくださり、お導きくださいます。

イエス様は、「私たちの日用の糧を毎日お与えください」と祈れとお教えになりましたが、「私の」ではなく「私たちの」と言われていることは重要です。それは、私たちが自分のことだけでなく、隣人の必要についても心にかける人間になっていくためです。自分の存在が神様に完全に依存し、神様が必要を満たしてくださるお方であるということを体験的に知り、この方との信頼関係を深めていく時、私たちは、神様が私たちをとおして、隣人の必要を満たそうとしておられるということが分かって来ます。

ヤコブの手紙に次のような言葉があります。「2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、 2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」

神様は、私たちが「我らの日用の糧を毎日与えたまえ」と祈りつつ、実際に困っている人々を自分の兄弟とし、自分の姉妹として支えていくことを願っておられるのです。

先日、私の家に、段ボール一杯のリンゴが届きました。それは、青森に住んでいる読者の方が贈ってくださったものでした。この方は、今年の3月私が被災地大船渡に行った時、青森から会いに来てくださいました。リフレクソロジー、足ツボマッサージを仕事としておられますが、仮設住宅に住む人たちのためにボランティアで、足だけでなく、全身のマッサージをして差し上げておられました。その方が、最後に私にマッサージしてくださったのですが、体中の全てが凝っていたようで、私の健康をかなり心配してくださっていました。

英語の諺に、「リンゴ一日一個医者知らず」というのがあるのですが、それで、青森のリンゴを送ってくださったのです。すぐにその方にお礼の電話をしましたが、青森の更に田舎で、リフレクソロジーで生活して行くのは本当に大変だと仰っていました。そんな話しをしながらでも、ずっと笑いっぱなしで、ユーモアを絶やさず生きておられます。日用の糧を今日もお与えくださいと祈りながらの楽ではない生活をしながら、こんな私の健康を気遣ってたくさんリンゴを送ってくださったのです。

ここに主に信頼して生きる者の姿があります。主は、この方を決してお見捨てにならないだけでなく、この方をとおしてご自分の御国の業をお進めになるのです。

マザー・テレサは、次のように祈りました。

主よ、わたしが空腹を覚えるとき、パンを分ける相手に出会わせてください。喉が渇く時、飲み物を分ける相手に出会えますように。寒さを感じるとき、温めてあげる相手に出会わせてください。不愉快になるとき、喜ばせる相手に出会えますように。

わたしの十字架が重く感じられるとき、だれかの十字架を背負ってあげることができますように。乏しくなるとき、乏しい人に出会わせてください。暇がなくなるとき、時間を割いてあげる相手に出会えますように。

わたしが屈辱を味わうとき、だれかを褒めてあげられますように。気が滅入るとき、だれかを力づけてあげられますように。理解してもらいたいとき、理解してあげる相手に出会えますように。かまってもらいたいとき、かまってあげる相手に出会わせてください。

わたしが自分のことしか頭にないとき、わたしの関心が他の人にも向きますように。空腹と貧困の中に生き、そして死んでいく世の兄弟姉妹に奉仕するに値する者となれますように。主よ、わたしをお助け下さい。

主よ、わたしたちの手をとおして日ごとのパンを、今日彼らにお与え下さい。わたしたちの思いやりをとおして、主よ、彼らに平和と喜びをお与え下さい。

『こころの輝き―マザー・テレサの祈り』「自分より他人を」(ドン・ボスコ社)より。

私たちは、自分自身の存在が神様に100%依存していることを告白しながら「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈っていこうではありませんか。私たちの肉の必要、霊の必要を溢れるほどに満たそうとしておられる方がいるからです。

また、私たち自身の働きを通して、困っている方々を自分の兄弟姉妹として、支えていきましょう。その物質的な必要を、その霊的な必要を満たすために、一人一人に与えられている賜物があります。マザー・テレサは、痛みを感じるまで与えなさいと言いました。マザーの施設で砂糖が不足して困ったことがありました。その時、それを伝え聞いた一人の男の子が、3日間砂糖を我慢して、その3日分の砂糖をマザーのところに持って来たというのです。決して大量の砂糖ではありませんでした。しかし、この男の子が捧げた砂糖と心によって確かに大きく前進した神の国がありました。マザー・テレサの祈りのように、自分が欠乏や苦しみを感じる時に、助ける相手と出会うことができますように。その時、私たちの力ではなく、神様の力が働くのです。その方々を助ける力、私たちを助ける天来の力が働くのです。

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