「ルカの福音書」 連続講解説教

ルカの福音書講解(57)全てを生かす赦し

ルカの福音書第11章1節から4節
岩本遠億牧師
2012年11月11日

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

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ルカの福音書に残されている「主の祈り」を読み続けています。今日は「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します」という箇所です。イエス様が伝道のご生涯の中で弟子たちに何度も大切なこととして教えられたのが「人を赦す」ということであります。

ある時、弟子のペテロが尋ねました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」

7の70倍、490回ということではありません。全て、完全に、永遠に赦しなさいということです。何故、何度も教えられたかというと、「人を赦す」ということが私たちにとって最も難しいことだからです。

人に傷つけられたこと、嫌な思いをさせられたことを何時までも赦すことができない。あるいは損をさせられたりすると、補償させるまで怒りが収まらない。自分の思い通りにならないことがあると、苛々に満たされてしまう。「あのような人間がいるから物事がうまく行かない。」私たちは平安の中を生活したいのに、自分の平安を乱すものが現れると、それを排除したいという思いになる。

人はいつも自分が善悪の基準となり、自分が裁く側に立とうとする。ここに人と人の対立が生じ、悪意と憎しみが世の中に蔓延する原因があるのです。聖書は、このように全ての人が自分自身を善悪の基準とすることを罪と呼びます。全ての人が罪を犯したと聖書は言いますが、神様の御思いではなく、自分の思いを大切にする、自分が自分から自由にならないことを罪というのです。

イエス様は、何のためにこの世に来られたのか。罪をこの世から取り除くためです。罪によってこの地に蔓延した悪意と憎しみを取り去るためです。

イエス様は弟子たちに祈るようにお教えになる。「私たちの罪をお赦しください」と。そして、この祈りを本当に祈ることができる時、私たちはその祈りの中で次のように告白するように導かれるのです。「私たちも私たちに負い目のある者たちを全て赦します」と。自分が握りしめていたものを手放すことができるようになっていく。ここに私たちが赦されているということを体験的に知っていく鍵があるのです。

創世記に人類最初の殺人事件として記されている「カインとアベル」の物語があります。ここに赦された者がどのように変わっていくのかを見ることができます。少し長いですが読んでみたいと思います。

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。4:4 また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。4:9 主はカインに、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた。カインは答えた。「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」4:10 そこで、仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。4:11 今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。4:12 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

4:13 カインは主に申し上げた。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。4:14 ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

4:15 主は彼に仰せられた。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。4:16 それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。4:17 さて、カインは、その妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

人類の始祖、アダムとエバは、神様から禁じられた善悪の知識の木の実を食べ、エデンの園から追放されます。善悪の知識の木の実を食べるとは、神様の基準ではなく、自分が善悪の基準となるという生き方を選択するということです。それが先ほど申した「罪」です。エデンの園から出て行かざるを得なくなったアダムとエバの間にはカインとアベルという息子が生まれました。カインは農耕をする者となり、アベルは牧畜をする者となった。ある時、カインは農作物の一部を神様に捧げたが、神様はそれをお喜びにならなかった。きっとカインには心からの感謝がなかったからです。大切なものを神様にお返ししようとする思いがなかった。一方、アベルは、群れの中から最も良い小羊を選び、それを捧げました。神様はアベルの捧げ物をお喜びになったと言います。

それで気が収まらないのがカインです。カインは怒りに満たされ、アベルを殺してしまいます。神様は弟を殺したことについてカインをお責めになりますが、カインは神様の声を聞いて、自分が犯した罪の大きさに気付くのです。そして神様から見捨てられることの絶望を告白しました。すると、こともあろうに、神様はカインをお赦しになるのです。罪の大きさを知り、神様の御前にひれ伏す者を神様はお赦しくださる。そして、カインの額に一つの印しをお付けくださった。何と書かれていたのでしょうか。「主のもの」と書かれていたのかもしれません。「主に赦されたもの」と書かれていたのかもしれません。大きな罪を犯したカインでしたが、神様の御前に罪を告白しひれ伏した時、神様はカインを赦し、ご自分のものとなさったのです。ここに絶大な神様の愛と恵みがあります。

カインは、アダムとエバの住んでいた土地を離れ、エデンの東に住み着きましたが、そこで結婚し一人の息子を与えられます。その名前は「エノク」です。創世記の5章にもエノクというのが出て来ますが、これらの二人のエノクは別人です。私は、エノクという名前なので、小さい時からずっとこのことが気になっていました。高校生の時など、ちょっと聖書を読んだことがあるクラスメートに、「お前、あの最初の殺人者の息子のエノクだろう」とか言われて、「いや、そっちのエノクではなく、5章のほうのエノクだ」とか苦しい言い訳をしていました。

それで、大学生になってからエノクという名前はどういう意味か調べました。その意味は、「神様に捧げられたもの」という意味だったのです。それ以降自分自身が「神様に捧げられたもの」という意味の名前をもらっているとはどういうことか、考えながら生きて来たわけですが、それと共に、創世記を読む度に、カインが自分の息子に「エノク」という名前をつけたこと、そして、自分が建設した町に「エノク」という名前をつけたということに深い感動を覚えるようになりました。

最初に生まれた男の子です。自分の跡取りであり、最も大切なものです。カインは、神様に捧げられた者としての生涯を歩むようにとの願いを込め、この子にエノクという名を付けました。この子は自分のものではない。神様のものであると。そして、自分が全力を尽くして建てた町、誰でも自分の栄光を表すような名前を付けたいと思うでしょう。しかし、カインはこの町にもエノクという名を付けました。この町は、私のものではない。神様のものである。カインはこの町を神様に捧げました。

カインは、若い時、自分が作った農作物のうち、一番良いもの、一番美味しそうなものは自分が食べた。そういう人間でした。それが弟殺害へと繋がっていったのです。

しかし、彼は神様の圧倒的な赦しと恵みに触れ、自分の存在に神様の赦しという印しが付けられた時、すっかり変えられたのです。自分の最も大切なもの、自分が精魂込めて建て上げたものを神様に捧げるものとなった。神様の愛と恵みがカインを変えたのです。

「私たちの罪をお赦しください」と祈れとイエス様はお教えになりました。カインをお赦しになり、カインをお守りになった方が、私たちの罪を赦す天の父だからです。カインをお赦しになり、彼に圧倒的な恵みをお注ぎになった神様が私たちを赦してくださる。その愛と恵みに満たされる時、私たちも赦す者と変えられるのです。私たち自身が「赦します」と告白する時、私たちは自分が赦されていることを体験的に知ることができる。神様の赦しを受けるとは、観念的に理屈を信じることではありません。赦された者は必ず変えられていく。自分自身も赦す者へと変えられていく。そのことによって神様の赦しを体験的に知るようになるのです。

イエス様は、このようにして私たちが神様の赦しを受ける者となり、私たちが人を赦す者となることによって、この地に「赦し」を満たそうとしておられるのです。

私は、高校3年生の時、長崎に父方の祖母と二人で暮らしていました。高校2年生の時、長崎で伝道していた父と母が、急に長崎を離れて小田原に行かなければならなくなったからです。ある夕食のとき、祖母が急に声を上げて泣き始めました。「本当に悪いことをした」と言うのです。若い時に祖母を裏切った祖父を今の今まで赦していなかった。可哀想なことをしたと。

祖母は、名古屋の町医者の長女として生まれ、なかなか利発な子だったようです。経済的に多少余裕があったため、彼女は名古屋の女学校を出ると、歯科医師になるために、東京の歯科医師専門学校に入り、東京で下宿生活を始めました。そこで、広島出身の慶応ボーイの私の祖父に出会い、熱烈な恋に落ちました。祖父の家は代々浅野家に仕え、浅野の殿様に学問を教える家系でした。広島市の真ん中に広大な土地と屋敷を持ち、多くの借家を持って、その家賃収入だけで贅沢な暮らしをするような家だったということです。

祖父はスポーツ万能でかなりの美男子でしたし、祖母も若い時は可愛らしい女性だったようです。大恋愛の末、祖母は広島の岩本家に嫁いだ訳ですが、祖母の広島での生活は新婚当初から痛みに満ちたものだったと言います。姑には「平民の娘」と呼ばれ、全く相手にしてもらえない。夫は根っからのプレイボーイで、花札賭博にかまけ、銀座の高級クラブのホステスと浮気をしていました。広島から銀座まで、そのホステスに夫と別れてほしいと言いに行ったけれども、どうすることもできなかったと言っていました。やがて、祖父は友人の保証人となり、その友人が事業に失敗したため、持っていた家屋敷と財産の全てを失いました。祖父母は離婚し、祖母は父を連れて名古屋の実家に帰ることになりました。お腹の中には父の妹、私の叔母がいました。祖母は本当に深い傷を受け、実家に帰らなければならなかったのです。

しかし、彼女は、経済的に自立するために、ファッションデザイナーになろうと考えます。父と叔母を実家に置いて、ファッションデザインの勉強をするために東京に行きました。その他、絵のデッサンの勉強に行ったり、Vogueなどフランスのファッション誌が読めるようになるために、アテネ・フランセに通ってフランス語を勉強したりするような人でした。そして、名古屋に戻ってからは、ファッションデザイナーとして、仕事を始めます。

一方、無一文となった祖父は、銀座のホステスにも捨てられ、祖母の実家に金の無心に来るほどまで落ちぶれてしまいました。やがて、戦争となり召集令状を受けて、彼は中国大陸に送られますが、そこで病死しました。祖父は、全てを失った時、自分の過ちに気が付き、祖母に手紙を送ったそうです。名古屋の祖母の実家に何十通も封書が来たと言っていました。しかし、祖母は祖父を赦さず、一通も開封しなかった。そして、祖父が中国大陸で病死した後、それらの手紙を未開封のまま、全部火で焼いたというのです。

祖母は、戦後、長崎の三菱製鋼の社長と再婚しました。この三菱製鋼の社長も原爆で妻を失っていたからです。祖母は再婚し、ロータリークラブの婦人会や教会の婦人会で活動し、社交界に来る娘さんたちのために洋裁教室を開いたり、油絵を習い、展覧会に出品したりして、人がうらやむようなハイカラなマダムの生活を送るようになりました。しかし、若い時に自分を裏切った岩本の祖父をずっと赦すことができなかった。その後、再婚した三菱の社長も天に召され、自分の母も天寿を全うして天に帰った。一時期、長崎で一緒に暮らしていた私の父母と私の兄弟たちも急に長崎から小田原に引っ越していった。私は高校3年生でしたが、大学受験を控え、私もどこに行くか分からない。また、可愛がっていた犬も急に死にました。

そんな中で、祖母は、自分を裏切った岩本の祖父のことを思い出しました。ある夕食の時、祖母は私に泣きながら言いました。「本当に可哀想なことをしてしまった。あの手紙には『申し訳なかった。赦してくれ』と書いてあったに違いない。何通も何通も赦しを乞う手紙を書いてくれたのに、私はそれを読みもせず、全部焼き捨ててしまった。彼が生きている間に『赦す』と言って上げるべきだった。本当に悪いことをした。申し訳なかった。」

祖母は、声を上げて泣きました。泣きながら罪の赦しを乞い、祈っていたのです。イエス様の御霊である聖霊が祖母の上に注がれ、聖霊が祖母の深い痛みを癒してくださった。そして、祖父を赦さなかったことが自分の罪だったということを深く悟り、祖父を心から赦すことができたのです。クリスチャンになってから実に30年が経っていました。祖母はその2年後に天に召されましたが、イエス様の癒しと赦しを頂き、数十年間も赦すことができなかった人を赦し、平安のうちに天に帰ることができたのです。

人を赦すということは、自分の努力と決心によってなすことは難しいことです。何故かと言うと、私たちの内にある痛みと苦しみに癒しと解決が与えられない限り、赦すことができないからです。一度赦したつもりになっていても、また何かの拍子に赦せない思いが湧いて来ることがある。そんな私たちに与えられるのは、イエス様の御霊、聖霊による解決だけです。イエス様が触れてくださる。圧倒的な恵みと愛を注ぎ、命を注いで癒してくださる方がいる。自分中心で自分の立場からしかものが見えず、人を裁いては苦しみに陥る悪循環の中にいる私たちを赦してくださる方がいるのです。

「罪を告白する」と言う時の「告白する」という言葉は、ギリシャ語でホモロゲオーと言います。「ホモ」は「同じ」という意味、「ロゲオー」は「言う」という意味です。「同じことを言う」というのが「告白する」という言葉の意味であります。聖霊が触れてくださる時に、聖霊が私たちに教えてくださることと同じことを言うようになる。聖霊が啓示してくださる私たちの罪があります。聖霊は私たちを癒し、罪から解放するために、それを啓示してくださるのです。聖霊によって罪を啓示された時、私たちはそれと同じことを言うようになる。「神様、私はこれまで自分が正しいと思っていました、しかし、間違っていたのは私でした。どうぞ罪人の私をお赦しください。」神様は、待ってましたとばかりに、私たちを抱きしめ、癒し、赦してくださる。私たちの心を造り変え、私たちが自分の思いではできなかったことをさせてくださるのです。自分が握りしめていた怒り、憎しみを手放すことができるようになる。人を赦すことができるようになる。また、カインのように、自分の最も大切なものを神様に捧げるものと変えられるのです。

祖母は、祖父を赦せずに苦しんでいましたが、イエス様の御霊が注がれた時に、赦されなければならなかったのは自分だったということを悟りました。人を赦さなかった自分を赦してくださるイエス様の圧倒的な愛と恵みに触れた時、祖母は癒されました。そして罪を告白し、罪の赦しを乞い、そして、長年赦せなかった祖父を赦したのです。祖父を赦した時、祖母は自分が本当に赦されていることを体験的に知ることとなりました。

皆さんの中にも、人を赦せずに苦しい思いをしている方がいるかもしれません。赦さなければならないとは分かっていても、自分の心を自分でどうしたら良いか分からないでいる方がいるかもしれません。私が、今日願い、祈るのは、お一人お一人が、このイエス様の御霊、聖霊に触れられ、聖霊に満たされ、本当に癒されることです。聖霊に満たされる時に、これまで握りしめていた怒りと憎しみを捨てることができるからです。自分自身を苦しめていた怒りと憎しみから解放されるからです。

イエス様は、あなたの痛みをご存知です。この方は、あなたを決して見捨てず、見放さず、あなたを癒そうとしておられるのです。私たちに聖霊を注ごうとしておられる。私たちの心をイエス様に向けましょう。この方の御霊、聖霊に触れられる時、私たちは癒され、心から、「私たちの罪を、この私の罪をお赦しください」と祈れるようになるのです。そしてその時、今まで赦せなかった人をすでに赦している自分を発見するでしょう。イエス様の癒しがあなたに臨むからです。ここに人間の実存の回復があります。イエス様はこのような癒しと赦しをこの地に満たそうとしておられるのです。

聖書の中に、次のような言葉があります。「47:9 この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」エゼキエル書47:9

「この川」と言われているのは、イエス様が十字架で流された血のことであり、また、聖霊のことです。イエス様の十字架の血は、「赦しという命の川」であります。イエス様が十字架で流された十字架の血は、全てのものを赦し、全てのものを癒し、全てのものを生かす命です。イエス様の十字架の血が流れて来る時、全てのものが造り変えられ、生きるのです。全てのものを生かすためにイエス様は十字架にかかり血を流されたのです。このイエス様の十字架の命があなたを生かし、私を生かし、あの人を生かすのです。この地は、イエス様の十字架の血によって赦され、生かされていくでしょう。

祈りましょう。

エペソ4:32 お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。

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