「ルカの福音書」 連続講解説教

ルカの福音書講解(58) 試みを打ち破る御力

ルカの福音書第11章1節〜4節
岩本遠億牧師
2012年11月18日

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

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ルカの福音書に残されている「主の祈り」を読み続けて来ました。今日は最後の祈り、「私たちを試みに会わせないでください」です。何故主イエスがこのように祈れとお教えになったかというと、私たちを試みる者がいるからです。「試みる者」とは悪魔の別名であります。悪魔が私たちを誘惑し、また攻撃してくる。そのような悪魔から私たちをお救いくださいというのが「私たちを試みに会わせないでください」という祈りの意味です。

ここで「試み」と訳されている言葉には、「誘惑」という意味と「試練」という意味があります。悪魔は「誘惑」という方法、「人生の苦しみ」という方法によって私たちを神様から引き離そうとします。私たちは自分の力ではこの悪魔の策略に打ち勝つことは出来ませんが、神様ご自身、イエス様ご自身が悪魔を打ち倒し、その策略を打ち破ってくださる。それを祈り求め、主イエスと同じ思いで生きよというのが、この祈りを教えられたイエス様の御思いであります。

今、「試み」には「誘惑」という意味と「試練/苦しみ」という2つの意味があると申しました。「誘惑」というのは、私たちを罪に引きずり込もうとする力です。自分でやってはいけないと思っていることをしてしまう、そのような罪もありますが、ここから立ち直るのはあまり難しくありません。「神様、ごめんなさい」と言って、罪を悔い、神様の赦しを受けて、新たに歩み始めることができます。

誘惑の中で最も巧妙なのが、私たちを高慢にする誘いです。「あなたは正しい。あなたは自分の判断に従って、あなたが良いと思うことを行い、自分の思いを実現するために生きたら良い。」伝道活動を始めようとしていたイエス様の心の中に囁きかけて来た悪魔の声もこれでした。さらに悪魔は言いました。「私をひれ伏して拝むなら、あなたの欲しいものを何でも上げる。」

悪魔の策略は、人を高慢にし、神様の御思いよりも自分の思いを大切にさせるところにあります。神様よりも自分が正しいと思わせ、神様を否定させる。

イエス様は、悪魔のこれらの誘いを聖書の言葉によって退け、謙遜の道を選び取り、ついに最も低められ、最も卑しめられ、地獄に落ちる苦しみを受けた十字架によって、悪魔の力を打ち砕き、その企てを覆されました。悪魔に対する勝利は、イエス様の謙遜にあります。私たちが悪魔の誘惑から守られるただ一つの道は、このイエス様の中、イエス様の謙遜の中、イエス様の十字架の中に逃げ込むところにあります。

「試み」のもう一つの意味は、試練と呼ばれる人生の苦しみであります。人生の苦しみの中には、私たち人間の罪が原因となっているものもありますが、そうでないものもあります。しかし、その何れにおいても、悪魔は私たちの耳元で囁くのです。「ほら、やっぱり神様なんかいないんだよ。」「神様は、あなたを見捨てたんだよ。」「神様は人間の苦しみに無関心なんだ。人間を無視しているんだよ」と。このようにして、悪魔は私たちに神様の愛を疑わせる思いを抱かせ、神様を否定させようとするのです。これもまた巧妙な悪魔の策略であります。神様は、これをどのようにして打ち砕かれるのでしょうか。

先日、私が教鞭を取っている大学に非常に著名な文学者が講演に来ました。その人の個人的な体験をもとに、若い時に文学を読むことの意味を語るという内容でしたが、その中に強い違和感を覚える下りがありました。2001年9月11日アメリカで起こった同時多発テロのことです。その人は、テロリストにハイジャックされた飛行機がニューヨークの貿易センタービルに突っ込み、ビルが崩壊して行く時、火災の火の熱さに堪え兼ねた人たちが超高層ビルから落ちていく姿をテレビで見ました。そのとき、自分の内側から自然と「神は死んだ。身体も死んだ。人が神となった」という言葉が出て来たというのです。その意味は、神は人間の苦しみを傍観している、そして、人も他の人の苦しみを、神と同じように傍観しているということだと、本人が解説していました。このような著名な人が、悪魔の囁きを聞き、それを多くの若者の前で語っている。

言うまでもなく、同時多発テロも戦争も人の罪が起こしたものです。神様に責任はありません。私は、あまりにも自己中心的な神論を展開するこの人の話しに呆れました。これが文学者として第一級と言われはしても、神様との個人的な関係を知らない人が生きている世界です。神がいるかいないか、神がどのような存在かは自分が決められると思い込んでいる高慢な人間の現実なのであります。

その人の言葉の中にも出て来ましたが、私は、あのニューヨーク貿易センタービルの跡地がグラウンドゼロと呼ばれ、アメリカの人々がイスラム系の人たちに敵意をむき出しにすることに違和感を覚えて来ました。何故かと言うと、グラウンドゼロとは、そもそも広島や長崎の原爆の爆心地のことを呼ぶ言葉だったからです。広島や長崎は、アメリカの投下した原子爆弾によって、文字通り地上の地獄と化したのです。アメリカも悪魔の手先となったのです。

そのような中で、神様がどのように働かれ、長崎の人々を立ち上がらせたかということについてお話しをしたいと思います。神は死んだのではありません。人間が悪魔に操られ、この地に引き起こした地獄の中に神様は力強く介入し、ご自分の僕たちによってこの地獄を人の生きる場所へと甦らせられたのです。

先週、私は私の祖母が、長年赦せなかった自分の一人目の夫を赦すことができるようになったこと、そこに働いたイエス様の御霊、聖霊の恵みについてお話ししました。この祖母は、戦後すぐに長崎にあった三菱製鋼の社長であった久保田豊という人と再婚しました。久保田社長は、高校の教師をしていた私の曾祖父の影響で、若い時からクリスチャンとなっておりました。大正時代、世界大恐慌の時代に聖書の言葉に励まされながら、三菱重工業に入社し、自己研鑽を積んで会社を盛り立て、第二次世界大戦時には、三菱製鋼長崎工場の所長となっておりました。

敗戦の年の8月9日午前11時2分、アメリカ軍のB29が投下した原子爆弾が長崎市の浦上で炸裂しました。この工場はほぼその真下にありました。一瞬にして工場は全壊、鉄骨が飴のように曲がり、おびただしい人々が原子爆弾の熱線と爆風、放射線によって死にました。久保田所長はそのとき、重要書類を取りに地下室に行っており、九死に一生を得ましたが、地上に上がった時には、そこはまさにこの世の地獄となっていたというのです。

彼は、生き残った工員たちを指揮し、まだ息のある人々の救助し、亡くなった方々の遺体を焼いたりしながら、奮闘しました。三日三晩一睡もせず、人を助け続けました。「休んでください」と懇願する部下の言葉にやっと腰を降ろしたというほどであったと言います。そんな中、愛する妻の安否も分かりません。しばらくして、妻を捜しに行ったけれども、遺体も見つからなかったと言います。原爆が投下されたとき、夫に弁当を届けるために爆心地近くを歩いていたのです。原爆の熱線によって、体が一瞬で焼尽され、なくなってしまったのです。この久保田所長の妻は、私の大叔母です。

8月15日になり、日本はやっと負けを認めました。そして、娘たちが疎開先から長崎に帰って来ました。久保田所長は、娘たちが炊き出しの握り飯を貪り食い、工場の地下室で眠る姿を見ながら、放心状態となり、絶望しました。ところが、そこに絶望した久保田所長に力強く語りかける神の声があったのです。「恐れるな。進め。あなたを助ける者は多い。」

久保田所長は立ち上がりました。生ける神様の声が彼を立ち上がらせました。この地獄と化した長崎の地に生き残った人々にパンを与えるためには、産業を復興しなければならない。この廃墟となった工場を再建しなければならない。三菱製鋼は会社を整理解散するために久保田所長を社長に任命しましたが、彼は、工場の再建のために立ち上がったのです。小さな地方銀行の若い担当者に頭を下げて回り、融資を獲得し、戦前にあった工場よりもさらに大きな工場を再建しました。多くの人々がこの工場で職を得、パンを得ることができるようになった。神様がこの久保田社長をとおして長崎の人々を生かしたのです。長崎の人々に希望と勇気を与え、立ち上がらせたのは神様ご自身だったのです。

アメリカが悪魔にそそのかされて作った原子爆弾、それによって地獄と化した長崎の地。人は、この事実を見て、「神は人を見捨てた。やはり神などいなかった」と言うのでしょうか。悪魔とそれにそそのかされた人間がこれを行ったのです。しかし、その地獄の中に力をもって介入し、ご自分の僕を立ち上がらせ、ご自分の業を行わせた神様がいたのです。

久保田社長は、若い時にクリスチャンとなりました。その時から、「我らを試みにあわせず、悪より救い出し給え」と祈り続けて来た筈です。イエス・キリストは、この久保田社長をご自分の僕として用い、悪魔が「神はいなかった」と人々に囁くような中で、ご自分が生きて働く神であることを、事実をもって証明なさったのです。このようにして、私たちの神、イエス・キリストは悪魔の策略を打ち砕き、ご自分の栄光を明らかになさいました。

一昨年の3月11日、東北地方を襲った大地震と大津波で多くの方々が命を落とし、また、被災し、大変な苦しみの中に陥りました。有力政治家が「天罰だ」などと不見識、無責任極まりない言葉を語ったり、あるいは、被災地の瓦礫の受け入れを拒んだりする自分勝手な人間たちが全国に溢れるこの日本という国、日本人の罪を、私たちは嫌というほど見て来ました。これが私たちの日本人の罪の現実なのです。自分さえ良ければ良い、遠くで同胞が苦しんでいることなど自分にはどうでも良いと余りにも多くの日本人たちが思っている。私は、人としてこの現実を神様の前に恥じます。これは私たちの罪です。しかし、その一方で、苦しみのただ中にある人々のところに、神様はご自分の僕たちを遣わして、ご自分の業を行わせておられるのです。

私たちのキリストの平和教会は、この大震災をとおして岩手県大船渡市の日本キリスト教団大船渡教会との関係を持つようになりました。私のメルマガの読者の方がその教会の会員だからです。その方からもお伺いし、また、私自身が大船渡教会を訪問して、知ったのですが、大震災直後に神様は、村谷正人という若い牧師をこの大船渡にお遣わしになり、この村谷先生をとおして、大船渡教会に集う人々の信仰を復興しようとしておられるのです。村谷先生ご自身、痛みと答えのない苦しみを通って来られた方です。痛みを知り、そこから立ち上がった者でなければ為すことができない神の業があります。今、津波でご家族を失った方々がイエス様に出会い、新しい希望を与えられて歩み始めています。地域社会の中でも大船渡教会の存在が大きな意味を持って来ている。生きているイエス・キリストが被災地大船渡でご自分の業を行っておられるのです。

また、石巻でもそうです。石巻には「石巻祈りの家」というクリスチャンのグループがあります。私はそのリーダーの石井さんという方からお便りを頂きました。多くの方々がご家族を失い、家を失いました。そのような方々が言われるのです。震災は私たちから信仰を取り去ることはできなかった。むしろ震災後救われる方々が増えた。信仰の火は燃え上がっているのですと。

人生には苦しみがあります。私たちはそれを避けて通ることはできません。しかし、苦しみは、神様が私たち与えてくださった神の子の尊厳を奪い取ることはできないのです。悪魔は囁いて来るでしょう。私たちに与えられた信仰を揺さぶってくるでしょう。しかし、イエス様は、「わたしは、ここにいる!」とご自分の存在を明らかに示し、悪魔の力をねじ伏せ、その策略を打ち破られるのです。

イエス様は私たちに教えてくださいました。「私たちを試みにあわせないでください」と祈れと。これは、様々な方法を使って私たちに神様を否定させようとする悪魔からの救いを祈る祈りです。人生平穏無事であることを神様は約束しておられませんし、それを祈り求めよとおっしゃっている訳でもありません。人生において嵐は吹きます。大波に自分が乗っている舟が呑み込まれるようなことを経験することもあります。しかし、イエス様が私たちの人生という舟に乗ってくださった。イエス様が乗っている舟は決して沈むことはないのです。

人間は状況の奴隷となるために創造されたのではありません。どのような状況の中にあっても神の子としての尊厳を保ち、神様の光を映す者となるために創造されたのです。そうさせまいとして私たちを試みる者が近づいて来ることがあるでしょう。しかし、イエス様は、これを十字架の血によって打ち砕かれたのです。私たちはイエス様の十字架の血によって贖われたイエス様の子供です。イエス様は、悪魔が私たちに指一本触れることさえお許しにならないのです。私たちも神の子の尊厳に満たされ祈りましょう。「私たちを試みにあわせないでください。悪魔の力を打ち砕いてください」と。

ローマ人への手紙8章
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

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