「ルカの福音書」 連続講解説教

ルカの福音書講解(59) 神の国が見えるか

ルカの福音書第11章14節〜28節
岩本遠億牧師
2012年11月25日

11:14 イエスは悪霊、それも口をきけなくする悪霊を追い出しておられた。悪霊が出て行くと、口がきけなかった人がものを言い始めたので、群衆は驚いた。 11:15 しかし、彼らのうちには、「悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言う者もいた。 11:16 また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。

11:17 しかし、イエスは、彼らの心を見抜いて言われた。「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。 11:18 サタンも、もし仲間割れしたのだったら、どうしてサタンの国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。 11:19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。 11:20 しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。

11:21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。 11:22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。 11:23 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。 11:24 汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。 11:25 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。 11:26 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」

11:27 イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」 11:28 しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

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先週まで数週間にわたってルカの福音書に残されている「主の祈り」を1節ずつ読み、具体的な例をとおして、その意味と力について学んできました。それに続くこの箇所は、ユダヤ人のある者たちの悪意や無理解に対するイエス様の答えとなっています。他の福音書によると、このユダヤ人たちは、パリサイ派の律法学者たちだったと言われますが、イエス様の権威を失墜させ、またイエス様を試みようとする者たちでありました。イエス様は「主の祈り」を弟子たちに教えられましたが、それはイエス様ご自身の祈りであったと考えるべきです。主の祈りを深く祈り続けて来られたイエス様の祈りに対する父なる神様の答えとイエス様の固いご決意がここにあるのを見ることができます。

ここでイエス様の権威を失墜させようとするユダヤ人たちの意図は次のようにまとめることができます。第一に、イエスの癒しの力は、神からのものではなく、悪魔からのものである。悪魔がその手下である悪霊どもに命じて、人に入ったり出たりするようにさせている。その片棒を担いでいるだけである。第二に、もしイエスの癒しの力が神からのものであるのなら、そのことについて明確な証拠、すなわち天からのしるしが示されるべきである。

このような議論が成立するのは、当時、イエス様以外にも病気を治す人たちがいたからです。イエス様の癒しが特別だという証拠はあるのか。それが天からのものであるという証拠があるなら出せ、というのです。皆さんは、どう思われるでしょうか。

一昨日、家内と食事をしながらテレビを見ていましたら、南アフリカ共和国には今も政府公認のヒーラーと呼ばれる人々がいて、何と人口の90%ほどの人たちが病気になるとそのヒーラーたちのところに行って病気を治してもらうと言っていました。医療が発達していない地域にはそのようなことが今でもあります。文明の発達した国々でも難病などにかかった場合、そのような人に頼ろうとする人たちがたくさんいることは、私たちも知っています。福音書や使徒の働きを読みますと、イエス様やそのお弟子たち以外にもそのような癒しを行っていた人たちがいたことが分かります。

イエス様の権威を失墜させようとする人々が、イエス様に対してこのような
悪意に満ちた問いを投げかけたということは、決して理解できないことではありません。これまでに何度かお話ししていますが、私は今から20数年前にパプア・ニューギニアのジャングルの中に単身で入り、伝道しました。そこで多くの人たちがイエス様の御名によって癒され、イエス様を信じ、そして献身者が起こされるという不思議な出来事が起こりました。その伝道旅行を終えてオーストラリアのキャンベラに戻った時、私はクリスチャンの友人に誘われて、その人の教会に行きました。すると、ある人が私に、お前がどのような人間か言えというものですから、自分がどのようにイエス様に出会い、主がどのように私を導いてくださったか、どのようにニューギニア伝道に遣わされ、どのように主が働いてくださったかということを語りました。するとその人は、私に次のように言い放ちました。「お前はイエスの御名によって癒された、またイエスの御名によって人々を癒したというが、それが悪霊の仕業ではないという証拠はどこにあるのか。私はお前が主の僕であることを認めない」と。

私はその人の中に強い嫉妬心と悪意を感じました。人を否定することによって自分の優越性を確認したいという思いに満たされていたようです。この箇所で悪霊を追い出しておられるイエス様を見て、「悪霊のかしらベルゼブル(すなわちサタン)によって悪霊を追い出している」と言った人々の中にも、強い嫉妬心があったに違いありません。それが悪意となり、そのような言葉が出て来たのです。

イエス様はこれに対して次のようにお答えになります。ポイントは3つです。(1)「どんな国でも、内輪もめしたら荒れすたれ、家にしても、内輪で争えばつぶれます。 11:18 サタンも、もし仲間割れしたら、どうしてその国が立ち行くことができましょう。それなのにあなたがたは、わたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出していると言います。 11:19 もしもわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの仲間は、だれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの仲間が、あなたがたをさばく人となるのです。」

あなたがたの仲間にも悪霊払いをしている者たちがいるではないか。あなたがたがわたしに対して投げかけた疑問は、あなたがたの仲間たちにも同じように当てはまることになるのではないか。あなたがたの裁きの言葉はあなたがた自身に向かっているのではないのか。

(2)「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたのところに来ているのだ。」この言葉は、神様が直接働いて、悪魔を打ち倒しておられるのだということを意味します。この「神の指」という言葉は出エジプト記に出て来る言葉です。エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を救出するために、神様はモーセをお遣わしになりますが、エジプト王ファラオは神様の言葉を聞き入れようとしません。そこで神様はモーセによって不思議な業を次々と起こされます。エジプトの魔術師たちは、これを「神の指」がなしておられることだと認め、エジプトには勝ち目はないと言うのです。

イエス様は、ここで「神の指」という言葉を使うことによって、昔エジプトの地で奴隷とされていたイスラエルの民を救出するためにモーセが遣わされたように、今、サタンの奴隷とされている神の民を救出するために自分が遣わされたのだと主張をしておられるのです。そして、言われます。神の国はあなたがたのところに来ているのだと。

(3)「11:21 強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。 11:22 しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」ここで、強い人とはサタン、悪魔のこと、もっと強い者とは、イエス様ご自身のことです。わたしは、悪魔と裏取引をして悪霊を追い出しているのではない。これと対決し勝利して追い出しているのである。これに捕われた人たちを解放しているのである。

さらにご説明を続けられます。「11:24 汚れた霊が人から出て行って、水のない所をさまよいながら、休み場を捜します。一つも見つからないので、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言います。 11:25 帰って見ると、家は、掃除をしてきちんとかたづいていました。 11:26 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。」

ここでイエス様が仰っている内容は、次のとおりです。悪霊どもが悪魔の命令で裏取引をし、ある人から出て行ったのなら、それは追い出されたのではない。自分で出て行っただけだ。それならば、その後、自分よりももっと悪い悪霊を引き連れて戻ってくることになる。しかし、わたしが悪霊を打ち倒し、追い出しているのなら、その人のところには二度と悪霊が戻ることはない。なぜなら、その人は空き家となることはないからだ。わたしがその人の中に住み、その人を神の宮とするからだ。イエス様は、このように主張しておられるのです。

悪霊が悪霊と共謀して人に入ったり出たり戻ったりするのと、わたしが悪霊を追い出すのとは、根本的に違うのだ。わたしが癒したものは、わたしのものだ。わたしが救ったものはわたしのものだ。わたしのものは決して他の者に渡さない。これが、わたしが与える救いであるとイエス様は仰っているのです。

私に与えられた救いと癒しもそのとおりでした。私は、小さいときから悪夢に苦しめられていました。大学生の時はそのピークでした。毎晩自分が暗闇の虚無の中に落ち込んで行き、消えてなくなるという夢を見つづけ、眠れなくなりました。身体は病に冒され、精神的にも追いつめられ、私は絶望しました。また、私は高校2年の夏から急に酷い吃りになり、人前で話すことができなくなっていました。悪霊が私の人生を潰し、私を破滅させようとしていたのです。

しかし、イエス様がそんな私のところにやって来てくださいました。大学4年生の7月29日高橋先生という伝道者が私の上に手を置いて一言祈ってくださいました。「神様、この兄弟をその名前のように導いてください。」その時、イエス様の御霊、聖霊が私のうちに溢れるように注がれ、私の肺の中にあった影はその場で消えてなくなりました。身体の細胞の一つ一つがイエス様の十字架の血によって清められ、甦るのを感じました。「神の子イエスの血は全ての罪から私たちを清める」という聖書の言葉(Iヨハネ1:7)が大鐘の響きのように私のうちで響き渡り、私は完全に救われたことを知りました。

私のために祈ってくださった高橋先生という伝道者は、今に至るまで私が病気であったことも、そこで癒されたこともご存知ないのです。その後、私はその先生と話す機会を一度も与えられなかったからです。人間の意志と頑張りで私を癒そうと一生懸命祈ってくれたのではありませんでした。本当に、一瞬、5秒にも満たない祈りをしてくださっただけです。そこで働かれたのは主イエス・キリストご自身であったのです。高橋先生をとおして主イエス様が直接私に触れてくださったのです。

その時以来30年以上、二度とあの悪夢は戻って来ず、二度と吃ることもなくなりました。それは、私を苦しめていた病と問題が悪霊によるものだったからです。それをイエス様が追い出し、イエス様がこの中に住んでくださっているからです。もう、悪霊が入り込む余地は、この岩本遠億の中にはないのです。イエス様が私を満たしてくださっている。イエス様がこんな私を神の宮、イエス様の神殿としてくださったからです。イエス様に出会い、イエス様に救われたあなたの中にも、もう悪霊が入り込む余地はありません。イエス様があなたの中に住み、あなたを神の宮、イエス様の住む神殿としてくださったからです。

ここで気をつけなければなりませんが、私たちが経験するいろいろな苦しみや病は悪霊によって引き起こされているものも、そうでないものもあります(ヨハネ9章参照)。イエス様を信じていても、苦しみに遭ったり、病気になったりもします。もし、これを信仰が足りないからだとか、教会の指導者の言うことを聞かないからだなどと言って誰かがあなたを責めることがあるなら、そのような人の言うことに耳を貸してはいけません。イエス様は私たちの内に住んでくださっていますが、私たちは病気になることがあります。いずれ病気で死ぬでしょう。しかし、それは悪霊の仕業なのではありません。悪霊がもたらす災いと、そうではない人生の苦難があります。それを見分けることが大切ですが、それを知るためには深いイエス様との信頼関係が必要なのです。イエス様との深い信頼関係を与えられている者は、苦しみの中で支えてくださるイエス様を見上げることができます。どんな苦しみの中にあっても自分がイエス様のものである、イエス様が握ってくださっていることを確信することができるのです。

イエス様だけが与えることができる救いがあります。イエス様だけが与えることができる癒しがある。イエス様が与える救い、イエス様が与える癒しは、他の者が与えるものとは絶対的、根本的に異なります。外から見ている者たち、批判的に見ている者たちには見えないでしょう。そのような者たちは、それが天からのものである証拠を求めてくるでしょう。

しかし、イエス様は、そのような試みにはお答えにならない。病気を癒し、悪霊を追い出すだけでなく、天変地異を引き起こすような奇跡を行えば、人は納得したのでしょう。確かに旧約聖書の時代には、自分が神から遣わされた預言者であることを証明するために、天からの雷と雨を降らせたサムエル(Iサムエル12:18)、天からの火を呼び下したエリヤ(I列王記18:36-39参照)という預言者たちがいました。人々はそれと同じようなことをせよ、とイエス様に迫っているのです。勿論、イエス様はそれをしようと思えばできました。

しかし、イエス様はそのような誘惑にはのらないのです。イエス様は、「私たちを試みにあわせないでください。誘惑に引きずり込まれないようにしてください」と弟子たちにも祈るようにお教えでしたが、ご自身も命がけでこれを祈っておられたのです。天からのしるしをもってご自分が神の子であることを証明する。それは、イエス様にとって大きな誘惑でした。しかし、イエス様は、それを退けられるのです。ご自分が神の子である、天からのものであることの証明は、自ら十字架にかかって死んで全人類の罪の贖いを成し遂げ、三日目に甦ることだけだからです。このことについては、イエス様はこれに続く箇所でお語りになります。

では、どうすればこのイエス様こそが天から来られた神の御子であることが分かるのか。その答えは、今日読んだ聖書の箇所の最後でイエス様が語っておられます。

11:27 イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」 11:28 しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

イエス様は言っておられます。「神のことばを聞いて、それを守る人たちは、何と幸いなことだろう」と。神のことばを守るとは、イエス様の言葉を聞いて、それを大切にするということです。聖書の中に語られるイエス様の言葉を握りしめて生きるということです。皆さんの中には、長い間信仰生活をして来て、多くの聖書言葉を覚え、それを心の中で大切にして来られた方もいらっしゃると思います。あるいは、これからクリスチャンとしての信仰生活を始めようとしていらっしゃる方もおられると思います。しかし、信仰生活が長くても短くても、その数が多くても少なくても、お一人お一人の中に「この聖書の言葉こそ、私の人生を大きく変えたことば、イエス様の言葉だった」と言えるものがあると思います。

私にとっては、それは先ほどご紹介した「神の子イエスの血は全ての罪から我らを清める」(Iヨハネ1:7)という言葉です。また、「地は自ずから実を結ばせる」(マルコ4:28)というイエス様の言葉を聞いた時、私は伝道者として召されていることを自覚しました。そのほか多くの言葉が私の人格を作り上げて来ました。皆さんにもそのような聖書の言葉がある筈です。イエス様がお一人お一人に直接お語りになっているのです。それを大切にしてください。それをいつも口ずさんでください。覚えてください。心の中で守ってください。その聖書の言葉の一つ一つがあなたの人格を作り上げて行くのです。イエス様のお姿に似た者へと作り変えて行くのです。

私は、自分の身体と人生の中に普通の人が聞いてもあまり理解できないような神様の力を経験して来ました。しかし、そのような劇的、あるいは激烈な経験をする人は多くはありませんし、そのことが救いそのものではないのです。なぜなら、イエス様は、「わたしに癒された人たちは幸いである」とは仰っていないからです。

「神のことばを聞いて、それを大切にする人たち、それを握って放さない人たちは幸いである」と言われたのです。神のことばを聞き続け、大切にし続けて行くうちに、イエス様がお与えになる救い、イエス様がお与えになる癒しが、他のものとは絶対的に異なったものであることが分かって行くのです。

イエス様は言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタイ5:8)と。神を見るとはどのようなことか。それは、人として来られたイエス様の中に、神様ご自身のお姿を見るようになるということです。聖書の言葉、イエス様の言葉を大切にし、それを心の中で守って行く時に、イエス様が分かるようになって行く。イエス様との間に固い信頼関係を与えられて行くのです。神を見るという言葉によって表現されるような関係を与えられ、イエス様を見上げて生きて行くことができるようになるのです。また、私たち一人一人の中にイエス様のご人格が作り上げられ、自分の中に住んでくださるイエス様を見るようになって行く。クリスチャンの友人の中に住んでおられるイエス様を見るようになって行く。

伝道者パウロは次のように祈りました。「1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、 1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」エペソ1:17-19

私もパウロと共に祈ります。皆さんも共に祈りましょう。

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