「マタイの福音書」連続講解説教

主が迎えに来て下さる時

マタイの福音書24章32節から51節
岩本遠億牧師
2008年9月7日

24:32 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。 24:33 そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 24:34 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。 24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

24:36 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。 24:43 しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。 24:44 だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。 24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。 24:47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。 24:48 ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、 24:49 その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、 24:50 そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。 24:51 そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

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十字架を目前にしたイエス様が語っておられる終わりの時について、数週間にわたって学んでいます。この最後の長い説教は25章まで続きますが、イエス様がそれこそ、これだけは愛する弟子たちに語っておかなければならないとお考えになった最後の言葉を私たちは聞いているのです。

そのような思いで、ここを読むなら、終末という終わりの時についての、言うならば、あまり聞きたくない、あまり考えたくない話の中にイエス様の溢れる私たちに対する愛と、十字架を前にしてもなお持っておられた希望を聞き取ることができるでしょう。

イエス様は、人類は永遠の存在ではない。かならず最後の時が来ると仰いました。その時には戦争がおこり人々を苦しめる。偽預言者、偽キリストが現れ、神の民をも惑わそうとする。そのような時にあっても、「わたしの言葉に留まれ」とイエス様はおっしゃった。そして、「わたしはもう一度来臨する。もう一度来る」とおっしゃったのでした。何のためかというと、それは、ご自分の民を世界の全ての場所から集めるためだと言うのです。イエス様を信じ、イエス様を待ち望む者たちにとって最後の時は絶望の時ではない。希望の時であり、完成の時なのだということを聖書から聞いてきました。また、それは、私たち一人一人が必ずこの地上で経なければならない死についても、同様です。死は絶望の時ではない。イエス様を待ち望む私たちにとって、死は希望の時であり、完成の時なのです。

私たちは、イエス様はどんな時にも私たちに愛を注ぎ、希望を与えてくださる、恵みと真に満ち溢れた方だということを心に抱いて聖書を読んでいきましょう。そうすると、このような終末、人類の最期の時や、あるいは私たちの人生の終わりである死について考え、それに向かっていこうとする時も、希望を注いでくださるイエス様を経験することができ、人間の力では超えることができない、この大きな淵を越えることができるでしょう。イエス様が握って下さるからです。

結論的なことを先に言うならば、イエス様は、滅んでいくこの地からイエス様を待ち望む者たちを救い、イエス様を信じる者たちを集めるために、もう一度来られるのです。これから十字架にかけられて殺される。しかし、わたしはもう一度来る。この罪の世、滅んでいくこの世からお前たちを救い取り、お前たちを集め、わたしのもとに永遠におらせる。だからわたしを待て、と仰っているのです。

世の終わりの前兆が現れるから、その時はイエス様ご自身が戸口まで近づいていることを知れと仰います。そして、救われる者と置き去りにされる者がいること、いつその日が来るかわからないこと、そして、その日を待つ者の心構えを語られるのです。

イエス様は、その日はノアの日のようだと仰いました。「24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。」

地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く。暴虐が地に満ちていたという状況を神様は悲しまれ、この地を滅ぼすことをお決めになりました。その中から、ノアとその家族だけが救われるのですが、神様は、ノアに箱舟を造るようにお命じになります。しかし、ノアは隠れた所で方舟を作ったのではありませんでした。その暴虐の行われるただ中で、箱舟を作る。人々に悔い改めを説きながら、箱舟を作ったのです。しかし、誰もノアの言葉を聞いて悔い改めようとしなかった。滅びがすぐそばまで来ていることを信じようとはしなかった。誰もノアの家族と一緒に箱舟に入ろうとはしなかったのです。

その日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。しかし、ある日突然洪水が押し寄せ、彼らを押し流してしまったのです。また言われます。

24:40 そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 24:41 ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。 24:42 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。

一人は救われ、一人は滅びる。そのようなことが起きると言われる。では、救われる者は2分の1ということではありません。イエス様は、全ての人が悔い改めて救われることを望んでおられるのです。しかし、イエス様を十字架にかける人がいたという現実があるのです。それは、自分は大丈夫。自分は正しい。自分は神様の言いつけを守っているという人たちでした。神様に頼ろうとするのではなく、自分の義に頼ろうとする者たち、そういう者たちの中から、「主よ憐れんで下さい」と祈る者たちが救われるということなのです。

しかし、ここで注意しなければなりませんが、イエス様は、食べたり、飲んだり、めとったりとついだりすることを禁じておられるのではありません。実は、ノアとその子供たちも、食べ、飲み、結婚していたのです。神様は、食べる祝福、飲む祝福、結婚する祝福を人にお与えになったのです。イエス様は、この神様こそ、あなたがたの天の父だと仰いました。問題は、それを父からの祝福だということを忘れた人々、いや、それを否定する人々がいたということです。自分の力、自分の働きで食べ、飲んでいるのであって、天の父の祝福などではない。自分が自分に気にいる人と結婚したのであって、神様の祝福ではないと考える人々がいた。そのような人々のところに突然滅びがやってきた。

しかし、そのように天の父の祝福を否定する者たちにも最後まで食物を与え続けられた父がいらっしゃったということを私たちは忘れてはならないと思います。神様は、最後まで待っておられたのです。良い者の上にも悪い者の上に太陽を昇らせ、雨を降らせて、季節の収穫を与え続け、待っておられたのです。

では、イエス様を待つ心構えとはどのようなものか。「24:45 主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。 24:46 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。 24:47 まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」

ここでも、食事のことが語られています。僕の長として立てられ、他の僕仲間たちにきちんと食事を与える思慮深い僕のようであれとおっしゃっています。これが主を待つ者の心構えだと。

どの本だったか失念しましたが、次のようなことが書いてあり、とても印象に残っています。

ある女性が、突然自分の命があと僅かだということが分かった。親しい人たちがその人に聞きました。何かやりたいこと、行きたいところなどあったら、言ってください。すると、その女性は答えるのです。朝、いつものように起きて、家族のために朝食を作り、仕事や学校に送り出す。花に水をやり、聖書を読んで祈り、家の掃除や洗濯をする。そして家族のために夕食を作り、帰りを待って、一緒に食事をする。これまで私がやってきたことを、天に召されるまで同じように続けたい。それが私の願いです。

何か大きなことをしたいとか、人の記憶に残ることをしたいということではない。また、最後なのだから贅沢をしたい、これまで行きたくても行けなかったところに旅行に行きたいということでもなかった。

その人は、これまでの毎日の生活をそのまま続けたいと言いました。毎日、主がいつ迎えに来て下さっても良いような生活をしていたのだと思います。

私だったらどう思うでしょうか。皆さんだったら、どう思うでしょうか。やっぱり、最後だから、毎日三ツ星レストランに行って、世界一周をやってとか、それも良いでしょう。

しかし、いよいよ主が迎えに来て下さる時が近いと知ったとき、私たちは、そのようにして自分の肉を喜ばせることをしたいだろうか。もし、肉体の死と共に全てが終わり、後は最悪の無になってしまうのであれば、今のうちに三ツ星レストランに行って、世界一周やってというのも分からなくはない。しかし、主が迎えに来て下さる。主にお会いできる絶大な祝福と光に包まれようとしている時、そんなことはどうでも良くなるものです。

この私のために命を捨てて十字架にかかって私の罪の全てを背負って下さったイエス様。人生の暗闇で絶望していた時にやってきて救ってくださったイエス様、こんなに罪深い者を赦して、愛し続けて下さるイエス様にお会いすることができるのです。わたしは、その時を本当に心待ちにしています。

その時が近づいたと知るなら、最後まで家内が作ってくれる物を食べ、いつものように聖書を読んでメッセージを送り、最後の時まで皆さんと礼拝を捧げたいと思います。いや、そうさせてくださいと祈りたいと思います。

私たちは、毎晩夕食のとき、一人一人順番に祈って食事をいただきますが、「今日一日守って下さってありがとうございます。」「今日の一日を感謝します」と祈ります。病気になって具合が悪くても、怪我をして痛みの中にあっても、「主よ、感謝します。あなたは今日一日を守って下さいました」と祈れることは何という大きな祝福でしょうか。

何か特別なことをやっているわけではないでしょう。苛々や、怒りを感じることも、心が汚れることもあります。それでもなお、主よ、今日の一日を感謝しますと祈りながら生きてく。主は、それを見て下さっているのです。天の父が、今日も食べ物を与えて下さった。飲む物を与えて下さった。家族を与えて下さった。主よ、感謝します。

そして、今来りつつある主が、いよいよ私たちの人生の戸口に立って下さる時が来る。さあ、わたしと一緒に来なさいと仰って下さる。その時を待ち望みたいと思うのです。

祈りましょう。

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