「マタイの福音書」連続講解説教

主の戦いの意味

マタイの福音書21章12節から17節
岩本遠億牧師
2008年6月1日

21:12 それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみ
な追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。 21:13 そ
して彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてあ
る。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」 21:14 また、
宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。
21:15 ところが、祭司長、律法学者たちは、イエスのなさった驚くべきいろ
いろのことを見、また宮の中で子どもたちが「ダビデの子にホサナ。」と言
って叫んでいるのを見て腹を立てた。 21:16 そしてイエスに言った。「あ
なたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われ
た。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意され
た。』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」 21:17 イエス
は彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこに泊まられた。

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先週、私たちは、イエス様がエルサレムにお入りになった時、平和を実現す
る王、平和の王としてのご自身を明らかになさったということを学びました。
しかし、エルサレムに入ったイエス様は神殿にお入りになり、柔和なロバの
子に乗っておられたお姿とは一変して、「宮清め」と呼ばれる荒々しい業を
行われました。私たちは、イエス様に対して私たちの罪を全て赦してくださ
るお優しい方というイメージを持つ場合も多いでしょう。しかし、私たちが
ここで見るイエス様のお姿は、まさに戦いの主、戦う王、しかも、ただ一人
で戦う王のお姿であります。

イエス様は、なぜこのような乱暴狼藉を働かれたのでしょうか。

主の宮、主の神殿は、主を礼拝する場所です。イエス様は、12歳の時、父
ヨセフ、母マリアたちと一緒にエルサレムに上りましたが、父母や巡礼の一
行が帰っていっても、ただ一人このエルサレム神殿に残って、律法学者たち
と聖書の勉強をしておられました。そして、その神殿を「わたしの父の家」
と呼び、自分の居場所として認識なさいました。

しかし、礼拝と祈りが捧げられるべき場所が、物の売り買いの場となってい
る。そのために礼拝と祈りが卑しめられ、阻害されている。イエス様は、そ
の現状に文字通り命をかけて立ち向かわれたのです。ここで宮清めをなさら
なかったら、イエス様は十字架に付けられることもなかったのです。それほ
どのことでありました。

イエス様は、宮清めを過ぎ越しの祭りの始めに行われました。過ぎ越しの祭
りというのは、紀元前1500年ごろエジプトで奴隷とされていたイスラエ
ル人がモーセによって率いられてエジプトを脱出した時、イスラエルを解放
することを頑なに拒んでいたエジプトを神様の使いが打ちました。王の家か
ら家畜にいたるまで、最初に生まれた子供が死にましたが、子羊の血を鴨居
に塗ったイスラエルの家はこの災いが通り過ぎた。このことを記念して今に
いたるまで続けられている祭りです。人々は傷のない子羊を犠牲としてささ
げ、その血を祭壇に注ぎ、肉を焼き、食べることによって祭りを守っていま
した。ユダヤ人たちにとっては、非常に重要な祭りで、この祭りの時には多
くのユダヤ人がエルサレムに集まってきていました。200万人以上が集ま
ることもしばしばだったということです。

宮では、礼拝に来た人たちが、犠牲の子羊を捧げます。そして神殿に支払う
税金を納めます。そして、この時は、過ぎ越しの子羊を捧げるだけでなく、
自分の犯した罪の贖いのために、牛や鳩を捧げることも行われていました。
本来なら、自分の住んでいる所から最上の羊や牛、鳩を連れてきて捧げ、礼
拝するべきなのですが、地中海世界全域に広がっていたユダヤ人たちが動物
を連れて、旅行することは不可能でした。ですから、エルサレムの宮で犠牲
の動物を売ることは巡礼者たちの便宜を図ることであって、それ自体は必ず
しも悪とは言えない、それが献げ物を売る者たちの論理です。

また、神殿に捧げる税金(神殿の運営資金となる)はユダヤの貨幣シケルで
支払わなければならなかったのですが、当時の通貨はローマの貨幣でした。
みんなローマの貨幣をシケルに両替して捧げる必要があったのです。その両
替手数料は、やはり神殿の運営、修理のために用いられていました。ですか
ら、ここで行われていたことは、人間的な観点から言って、その趣旨におい
ては何も悪いことをしていたわけではなく、むしろ神殿礼拝を維持するため
には必要なことであったと言われます。では、なぜイエス様は、これほどま
での暴挙に出られたのか。あれほど怒られたのはなぜか?

それは、神殿で行われていたこのような行為が、礼拝そのものの意味を失わ
せ、礼拝を形骸化させていたこと、そして、そのことが人々を真の礼拝から
切り離し、排斥していたからです。

イエス様が問題とされたことは何か。その一つは、神殿の中における経済活
動が、神様に向かうべき人の心を金に向かわせていたということです。両替
による手数料が法外であったため、それに対する不満が巡礼者の中にはあっ
たことでしょう。また、動物を売ることによって多くの利益を得ようとする
人がいて、もう一方では、できるだけそれを安く手に入れようとする巡礼者
たちがいたのです。皆さん、ご想像ください。何のために犠牲を捧げている
のでしょうか。それは、罪深く神様の前に完全であることができず、滅んで
いってしまわなければならない人間が神様の前に動物を捧げ、罪の赦しと、
滅びからの解放を祈願するためです。

しかし、今ここで、エルサレムの神殿で礼拝を捧げようとしている人たちの
心はどこを向いているのでしょうか。そこで商売をし、両替をしていた人た
ちの心はどこを向いていたのでしょうか。また、私たちの心はどこを向いて
いるのでしょうか。

多くの羊の売人がいました。次のような会話があったと想像することは難し
くありません。「過ぎ越しの捧げ物としては、最高の品、これを捧げたら神
様もお喜びになる。安くしとくよ。5万円!」「5万円は高いんじゃない。
4万円だったら買うよ。」「じゃ4万5千円でどう。」「しかたがないな。」
というような会話が神の宮の中で行われたかもしれません。「今年は去年よ
り良い羊が安く手に入った。ラッキーだったな。」「他で買えば、もっと安
く買うことができたんじゃないか」と思いながら礼拝ができるでしょうか。
旧約の預言者の時代に既に叫ばれていたことですが、「神様は、生贄を喜ば
れません。神様の喜ばれる生贄は、悔いた砕けた心です」(詩篇51)。旧
約時代に既に生贄を捧げる礼拝が形式化、形骸化し、心は神様に向いていな
かった。人々は何を考えていたのでしょうか。「これを捧げたから、律法の
定めを守ることができる。これを捧げたら、神様は喜ばれるだろう。罪を赦
してくれるだろう。」そして、祭司たちは、生贄の捧げ物が捧げられると、
「これで大丈夫ですよ。安心して帰りなさい」と言ってくれる。そして、神
様の御心を求めることも、神様に心を向けることもせず、「良かったね」と
言って帰っていく。ここには、神様と人間の関係はどこにもなかったのです。
ただ単に自己満足のために捧げ物をし、祭司たちは巡礼者たちに自己満足を
提供して収入を得ていたのです。

さらに、神殿内部における商売行為によって、礼拝から締め出される人がい
たのです。動物の売買や両替は、「異邦人の庭」と呼ばれるところで行われ
ていましたが、ここでこのような商売が行われていたことによって、異邦人
たちが礼拝から締め出されていました。ユダヤ人でない異邦人たちの中にも
真の神を求め、巡礼に来ている人たちがいたのです。彼らは祭壇や聖所に近
づくことはできませんでしたが、異邦人の庭に入り、そこで祈ることが許さ
れていました。しかし、その場所が商売の場所となっていたのです。イエス
様は、『わたしの家は全ての民の家と呼ばれる』というイザヤ書11:17の
言葉を宮清めの時に引用なさり、異邦人が礼拝から排斥されいることに激怒
なさいました。商売と、生贄を捧げてそれで良しとする自己満足の礼拝のた
めに、神様の本当の救いを求める異邦人たちが排斥されていたのに、そのこ
とを全く意に介さない人々がそこを牛耳っていたのです。

さらに、身体に障害のある人たちが宮からは除外されていました。特に目の
見えない者、足の不自由な者は、宮に入ってはならないという決まりがあり
ました。それは、律法とは関係なく、紀元前約1000年頃ダビデ王以降に
決められたものです。当時ダビデはヘブロンの王でしたが、エルサレムには
エブス人という別の民族が住んでいました。ダビデはエルサレムを攻略しよ
うとしていましたが、エブス人に次のように言って侮辱されます。「足の不
自由な者、目の見えない者でもお前を追い払うことができる」と。エブス人
は、ダビデには難攻不落と言われたエルサレムを攻略することはできないと
思ったのでしょう。しかし、ダビデは、激怒し、地下の水路を通って兵士を
エルサレムに侵入させ、そして、足の不自由な者、目の見えない者を最初に
討ち取れといって、彼らを虐殺するのです。これは、ダビデの犯した大きな
罪です。そして、それが元になって、足の不自由な者、目の見えない者は、
主の宮に入ってはならないと言われるようになったのです。

イエス様は、宮から商売をする者たちを追い出されると、これらの体の不自
由な人々を宮の中に招き入れられました。彼らは、宮の外に座り、宮に出入
りする人たちから物乞いをして生きていました。そのようにしてしか生きる
ことができなかった彼らをイエス様は、神殿の中に招きいれ、そして、彼ら
を癒されたのです。まさに、イエス様は、礼拝から排斥されていた者たち、
卑しめられていた者たちを招きいれ、彼らを礼拝者とし、さらに癒して、完
全な者とするために、宮清めをなさったのであります。

イエス様の宮清めの荒業は、礼拝から排斥され卑しめられている者を礼拝者
として完全な者とするための戦いだったのです。彼らを排斥している者たち
との戦いでした。彼らを無視している者たちとの戦いだったのです。「強盗」
という激しい言葉で戦われました。何を盗んでいたというのか。卑しめられ
ている者たちが礼拝する権利を奪っていたのです。彼らが神の子として生き
る喜び、彼らの神の子としての尊厳を盗んでいたのです。力ずくで、有無も
言わせず、盗んでいた。宗教的な特権、宗教的な権威をもって盗んでいた。
イエス様は、これに対して怒り、このことのために命をかけられました。こ
のことのために命を捨てられたのです。

神殿礼拝主義は、神様に向けられるべき人々の心と目を、金に向かわせ、そ
して、神様が招いておられる神の子たちを礼拝から排除するのです。イエス
様は、これと戦い、神殿礼拝主義をこの世から取り除くために十字架にかか
られたのです。

神殿礼拝主義は、今に生きる私たちにとっても無関係なことではありません。
もし私が、イエス様を指し示すこと、ただイエス様を告白するメッセージを
するのではなく、教会運営や教会堂建設のための献金の話を熱心にして、献
金することが神様の御心だと語るようになり、集う方々がイエス様を見上げ
ることよりも、財布のことを気にするようになるのなら、イエス様は、ここ
に来られて、私を追い出し、宮清めを行われるでしょう。

アメリカで1960年代から急成長したカリバリー・チャペルという教会があ
りますが、そこにヒッピーが集うようになったとき、彼らが礼拝堂のカーペ
ットを汚すということで問題になり、教会の役員たちがヒッピーたちを教会
から締め出そうとしました。しかし、牧師のチャック・スミスは、取り除か
れるべきものはヒッピーなのではなく、教会のカーペットであると喝破し、
教会からカーペットを剥ぎ取るのです。そして、ヒッピーたちを中心にカル
バリー・チャペルは大成長しました。礼拝から排斥された神の子たちを礼拝
に招き、彼らを癒すところに主イエス様の戦いがあるのです。神殿礼拝主義
との戦い、宮清めの戦いがあるのです。

つい先ほどまで、イエス様の周りには、「ダビデの子にホサナ。主の御名に
よって来るものに祝福あれ」と叫ぶ群衆がいました。今彼らはどこに行った
のでしょう。今、イエス様の回りにいるのは、これまで礼拝から排斥されて
いた者たち、そして、小さな子供たちだけです。先ほどまで熱狂していたい
大人たちは、もうそこにはいないのです。

そして、イエス様は、彼らを後に残して、ベタニヤに行き、そこに泊まられ
ました。イエス様のいる場所が神殿の中、エルサレムの中にはなかったから
です。少年の時にエルサレムに来られ、神殿を自分の父の家と呼ばれたイエ
ス様をお泊めする場所がエルサレムの中にはなかったのです。

イエス様が泊まられたのはベタニヤというエルサレムに近い村で、ハンセン
病の患者でイエス様に癒されたシモンという人の家でした。あるいは、ハン
セン病で死んで、イエス様によって甦らされたラザロとこの人は同一人物で
あったのかもしれないと言われています。

何れにせよ、イエス様を受け入れたのは、町に住む人々ではなく、貧しく物
乞いをしなければ生きていくことができなかった人たち、大人からは無価値
と見られていた子供たち、また、ハンセン病の患者として人々から捨てられ
ていたシモンとその家族だけだったのです。イエス様は、王としてエルサレ
ムに入城なさいましたが、この王をお泊めする場所は、ここにはなかったの
です。ただ、低められ、卑しめられていた者たちだけが、この方を自分の王
として受け入れました。

ルカの福音書は、イエス様ご誕生のときの様子を記しています。「2:4 ヨセ
フもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上っ
て行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 2:5 身重にな
っているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 2:6
ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7 男子の初子
を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのい
る場所がなかったからである。」

イエス様がお生まれになった時、町の中にはイエス様を迎える場所はなく、
汚い家畜小屋しかイエス様には与えられませんでした。しかし、そこに町の
人々からは卑しめられ、家を持つことも、家族を持つこともできず、正当な
裁判を受けることもできなかった羊飼いたちが招かれました。この羊飼いた
ちだけが、イエス様を受け入れたのです。

王として歓呼をもって迎えられたイエス様が、今、宮清めを行い、エルサレ
ムの人々を後に残して、出て行かれました。まさに、この方を自分の王とし
て迎えたのは、卑しめられ低められている者たちだけだったのです。しかし、
イエス様は、自分を受け入れない、自分を十字架にかける者たちのためにも
祈られました。彼らのため、この私のため、あなたのために、十字架にかか
って、その罪を赦してくださったのです。

私たちの目は、どこを向いているのでしょう。イエス様と同じところを見て
いるでしょうか。イエス様の目はそんな私たちの上にも注がれているのです。

祈りましょう。

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