「マタイの福音書」連続講解説教

主の祈り(4)試みと悪からの救い

マタイによる福音書6章13節
岩本遠億牧師
2007年2月18日

主の祈りを少しずつ学んでいますが、今日は最後の部分となりました。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出だしたまえ」と祈ります。

主の祈りは、前半が天に属する存在としての祈り、後半が地に属する存在としての祈りでありますが、後半は、3つの祈りで構成されています。(1)この地上を生きるのに必要な全てのものを求める祈り、(2)罪の赦しを求める祈り、そして、今日ご一緒に考える(3)試みと悪からの救いです。

ここに「誘惑に遭わせず、悪い者から救って下さい」と言われていますがこれは、「罪を赦して下さい」に対応する、「罪に陥らせないで下さい。罪に陥ることがないように守って下さい。神様から離れさせないで下さい」という祈りです。罪の赦しを願い求める者は、罪を憎み、罪に陥ることがないようにと祈るのです。

ここで、「誘惑」と訳されていますが、このもともとの言葉は、いわゆる「誘惑」だけでなく、「試み」とも訳される言葉で、聖書の中で大きく二つの意味で用いられています。一つは、サタンによるそそのかし、文字通り「誘惑」で、もう一つは、人生の苦しみや試練というべきものです。この苦しみや試練の中にもサタンは囁いてきます。これらのサタンの働きかけからの救いを祈れとイエス様は仰っています。「悪い者から救い出して下さい」という言葉の「悪い者」とはまさに、このサタンを意味するからです。

まず、「そそのかし」から見てみましょう。これは、創世記3章にサタンにそそのかされた女の話が記されています。

3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」 3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。 3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」 3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。 3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

ここに書かれているサタンの意図は明確です。このように言うのです。「あなたは、主体的に生きたら良いよ。自分で善悪を決め、いちいち善悪の判断について神様に伺うような生き方をする必要はないよ。自分の欲望や貪欲を肯定して、それを良しとして生きたら良いじゃないかというのです。

また、私たちが誰かに傷つけられたり、損害を与えられたりした場合、私たちは怒りの感情を覚えますが、その時に、「赦さなくても良いじゃないか。君は正しい。赦す必要はない」と囁くのもサタンの囁きです。「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のあるものを赦しました」と祈るように導かれるイエス様に反対するものです。

私たちの心の中には、このようなサタンの囁きに反応してしまう部分がある。だから、イエス様は、このようなサタンの攻撃から守られるように祈れと教えておられるのです。

神様は、このように人を誘惑し、その耳元で神様を中傷して、罪に引きずり込んだサタンに対して次のように言っておられます。

創世記3:14 主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。 3:15 お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」

ここで神様が蛇、すなわちサタンに向かって「女の子孫」と言っておられるのは、イエス様を指すと神学的には理解されています。つまり、サタンはイエス様のかかとを砕く、すなわち、十字架につけて苦しませるが、イエス様はお前の頭を砕く、つまりサタンの力を十字架の血潮によって粉砕し、滅ぼすと仰っているのです。

人を罪に陥れるものを打ち砕く。これが神様の御心です。だから、イエス様は仰るのです。「試みるもの、人を罪に引きずりこむものから解放して下さいと祈れ」と。

また、「試み」とは、人生の苦しみや試練という場合もあります。人生は楽しいことばかりではなく、苦しいことも沢山あります。苦しい中にあっても、神様は、いつも私たちに語っておられます。「わたしがあなたと共にいる。わたしは、あなたを祝福する。わたしは、あなたを愛している。わたしは、あなたを決して見捨てず、見放さない」と。神様は、「人生の苦難の中にあっても、わたしの約束を信じ、あなたを支えるわたしを経験しながら生きなさい、わたしとの交わりの中で生きなさい」と仰っています。これが、神様が私たちに与えられる試みです。そして、これは私たちが謙遜になること、そして神様との関係を深める祝福へとつながるのです。

しかし、苦しみや試練とも言うべきものに出会うとき、そこに必ず、耳元で囁く者がやってきます。「もし、神様が愛なんだったら、どうしてこんな苦しい目に遭わせるの?試練に遭わせる神様は、やっぱり意地悪なんじゃないの?そんな薄情な神様なんか信じないで、自分は自分と言って生きていくほうが正しい生き方なんじゃないの?」と囁くのです。これがサタンです。

また、さらにサタンは、このように囁きます。「ほら、やっぱり、こんな苦しい目に遭っているのは、あなたが罪を犯したからですよ。あるいは、あなたの親や先祖が罪を犯したから、こんな目に遭っている。どんなに神様が愛だと言っても、神様は罪を赦さず、罪を犯した者を助けることは出来ないんだよ。あなたはもう駄目だ」と。

イエス様が「試みに遭わせず」と仰っているのは、人生の苦しみ乗じてサタンが神様とわたしたちとの関係を切り崩そうとするからです。「試みに遭っても勝てますように」と祈れと仰らずに、「試みに遭わせず」と祈れと教えられたのは、私たちがサタンの攻撃に曝されること自体を、イエス様が願っておられないからです。私たちは、そのような試みに弱いからです。むしろ、イエス様ご自身が、弱い私たちをサタンの攻撃から守ると仰っているのです。

イエス様は、苦しみや試練に乗じて私たちを神様から引き離そうとするサタンを打ち砕かれるのです。十字架によって嘘をつくサタンをイエス様は打ち砕き、私たちの存在を回復なさるのです。

イエス様は、こう言われます。「この苦しみの中から、わたしはあなたを救い出す。この苦しみの中にもわたしは共にいる。わたしはあなたを決して見捨てない。見放さない。あなたは失敗したかもしれない。罪を犯したかもしれない。しかし、わたしは、十字架に血を流し、あなたに代わって地獄の底まで落ちて、罪の代償という苦しみを受けた。わたしがあなたを自由にしたのだ。わたしは、あなたを祝福する。あなたは、わたしのものだ」と。

「我らを試みに遭わせず、悪い者より救って下さい」という祈りは、公生涯の初めにサタンの誘惑を退け、十字架の血潮によってサタンを打ち砕かれたイエス様の勝利を告白する祈りの言葉なのです。勝利者イエス様に対する告白です。

ヨハネによる福音書の9章に次のようなエピソードが記されています。

9:1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。 9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。 9:4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。 9:5 わたしは、世にいる間、世の光である。」 9:6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。 9:7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

当時のユダヤでは、目の見えない人や足の不自由な人は、神様を礼拝することができない、神様に呪われた者だという誤った考えが支配していました。このようなことは、神様が定められた律法には書いてありません。しかし、この時から時を遡ること1千年前のダビデの時代に、このような差別的考えがイスラエルに入り込みました。それは、当時エルサレムを攻略しようとしていたダビデ王が、エルサレムに住んでいたエブス人に侮辱され、「目の見えない者や足の不自由な者でも、お前を倒すことができる」と言われて激昂し、エルサレムを攻略した時に、真っ先に目の不自由な人と足の不自由な人を虐殺したという、とんでもない罪によって、このような決まりがイスラエルに入り込んでしまったのです。それから何と1千年の間、目の不自由な人、足の不自由な人は、礼拝から排斥され、神に呪われたものと差別されてきたのです。

それで、弟子たちはイエス様に聞くのです。誰が罪を犯したから、神に呪われているのですかと。これは、まさに苦しみの中にある時に囁くサタンの声です。「お前は駄目だ。神様に呪われている。お前が罪を犯したからだ。お前の親が罪を犯したからだ」と。神様の愛から引き離そうとするのです。

しかし、イエス様は何と言われたか。どうなさったか。「この人が罪を犯したのでも、両親でもない。神の業(多くの業)がこの人に現れるためだ」と仰り、この人の目を開かれるのです。この人を礼拝者として祝福されるのです。この人に礼拝する者としての実存を与えていかれるのです。

サタンは、苦しい状況を過去の失敗や罪に結び付けようとする。そして、神様の愛からわたしたちを引き離そうとする。しかし、イエス様は、今のこの苦しい状況を過去の罪や失敗に結びつけるのではなく、私たちに現される数々の、多くの神様の祝福の業に結ぶ付ける力があるのです。そして、サタンの囁きを粉砕して下さる。サタンの力を打ち砕いて、私たちを癒し、立ち上がらせ、礼拝者としての実存を回復してくださるのです

ローマの信徒への手紙8章に次のような言葉があります。

8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。 8:36 「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。 8:37 しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。 8:38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

サタンは、いろいろな機会を用いて、私たちを神様の愛から引き離そうとします。ある時は高慢な思いを起こさせ、ある時は自己憐憫の思いを起こさせる。罪や失敗を思い出させようとする。しかし、聖書は高らかに宣言します。「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」と。

試みの中で私たちに囁く者を打ち砕かれるイエス様がいるのです。十字架の血によってサタンを打ち砕いて下さったイエス様がいるのです。

「試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」とは、私たちはサタンの試みに対して無力であるということを認識するとともに、この戦いは勝利者イエス様の戦いであるということを確認する祈りでもあります。サタンを打ち砕くことができるのは、私たちの信仰心ではありません。私たちは、イエス様の御前に遜って「試みに遭わせず、悪より救い出だしたまえ」と祈り、私たちの人生と、私たちの存在の中に現されるイエス様の勝利を目撃したいのです。イエス様は勝ってくださった。試みる者は倒されたのです。

ヨハネによる福音書「16:33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

関連記事