「ルカの福音書」 連続講解説教

人を完成するキリストの火

ルカの福音書講解(67)第12章49節〜53節
岩本遠億牧師
2013年2月3日

「12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。 12:50 しかし、わたしには受けるべきバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。 12:51 あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。 12:52 今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。 12:53 父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」

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イエス様は、「わたしは火を地上に投じるために来た」と言われました。そして、その火が燃え上がるために自ら十字架にかけられて死ぬとまで言われました。イエス様がその全存在をかけて成し遂げようとなさり、成し遂げられたことがこの地に天の火を投げ込むことであったのです。

先週、私たちは、「12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい」というイエス様の言葉を読みました。わたしはもう一度この地にやって来る。いつも人に仕え、神に仕えていなさい。いつも明かりを灯して待っていなさい。そのようにおっしゃっておられます。そして、それに続く今日の箇所で、「わたしは火をこの地に投げ込むために来た」と語っておられることは無関係ではありません。

明かりを灯して待っていなさいと言われた明かりの火は、イエス様が私たちの中に投げ込まれた火そのものを意味しているからです。自分自身が義務感に駆られ、あるいは罰せられることを恐れて、守り続ける信仰の火ではありません。そのような火はこの世を照らすことはないのです。イエス様が投げ込まれる天の火、それは、私たちの存在を燃やす、燃え上がる喜びの火です。そのような火を燃やし続けよとおっしゃる。

イエス様は、天の火を「地」に投げ込むために来たとおっしゃいました。「地」と聖書が言うとき、それは土の塵で造られたアダム、すなわち人を意味します。創世記に、「神は人を大地の塵で形作り、その鼻に命の息を吹き込まれた。それで人は生きたものとなった」とあります。また、神様が人を土で造られたことから、聖書は神様と人との関係を陶器師と粘土になぞらえて語ります。

イザヤ64:8 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。

エレミヤ18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」18:3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。18:5 そのとき、私に次のような主のことばがあった。18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」

旧約聖書の中では、神様が陶器師として人を形作られるということが語られています。御手の中に私たちを握り、御思いのままに私たちを造り変えることが出来るという希望が語られています。

しかし、粘土は粘土のままでは器にはなりません。火が入れられなければ陶器は完成しないのです。しかし、一度粘土に火が入ると、固い磁器や陶器に変わります。化学的な組成もその性質もすっかり変わり、全く別物となるのです。

イエス様は、「わたしはこの地に火を投げ入れるために来た」とおっしゃいました。土の器である私たちに天の火を入れることにより、私たちを全く別物に造り変える。神の子として完成させるために来られたのがイエス様であったのです。

洗礼者ヨハネは、イエス様を「聖霊と火によって私たちをバプテスマする方」と紹介しました。聖霊と火というのは、別々ものを指し示しているのではありません。聖霊と火は同じものを意味します。イエス様は、私たちを聖霊の火でバプテスマなさるために来られたのです。

しかし、聖霊の火によるバプテスマは、イエス様がご自分を十字架の上に捧げることなしにはなし得ない神の御子の業でありました。イエス様は、この地上を歩いておられたとき、ペテロたち弟子を愛し尽くされました。彼らのために祈り尽くされました。しかし、どんなに彼らを愛し、彼らのために祈っても、彼らに聖霊の火が注がれることはなかった。イエス様ご自身が十字架に血を流し、死んで甦り、天に昇ったのち、自ら聖霊として彼らのところにやって来る以外、ペテロたちが聖霊の火を体験することはない。ペテロたちに止まらず、全人類に聖霊の火が注がれることはなかったのです。

聖霊の火が人類に注がれるということは、神の御子イエス様の中に満ちていた聖霊が、十字架と復活という出来事によって初めて可能となったことでありました。まさに、イエス様の十字架と復活という出来事は、それまで隔絶、断絶していた天と地を一つにする接点であったのです。十字架と復活によって天と地が一つになる。だから、イエス様は言われたのです。

「12:49 わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。 12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」

イエス様が十字架という地獄の苦しみを受けられた。それは、私たちに聖霊の火を注ぎ、私たちを聖霊によってバプテスマし、この土塊の粘土の器を神の子という尊い器に造りかえ、完成させるためだったのです。イエス様の十字架と復活によって、天と地が一つになった。それがペンテコステ、聖霊降臨という出来事だったのです。

ペンテコステの日の朝、弟子たちが集まって祈っていたとき、突然聖霊が天からやって来ました。

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。 2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

人を恐れていたペテロ、自分がイエス様の仲間だと言うことができずイエス様を否定したペテロが語り始めたのです。黙っていることが出来ない喜び。燃え上がる炎が内に燃え上がりました。イエスこそ神の御子である。メシアである。このイエスの名以外に人が救われるべき名は人類に与えられていないと語って止まない命と喜びがペテロのうちに満ち溢れたのです。

聖霊の火のバプテスマを受けるということは、私たちの存在を根底から造り変えることです。頑張って神の子らしく生きるということではない。祈りの中に自己陶酔することもない。イエス様の光に照らされ、イエス様の光にすっぽりと包まれ、その存在そのものが燃え上がる喜び、灼熱の喜びに包まれることを言うのです。それは、一時的な感情としての喜びではありません。存在そのものが喜びとなる。

わたしは、10年ほど前から始めたメルマガによる聖書メッセージで一貫して語り続けて来たことがあります。また、このキリストの平和教会でも語り続けて来たことも同じです。それは、神様は決して私たちを見捨てないということ。謙遜にこそ悪魔の力を打ち破る力があること。そして、神様が私たちに与えられる神の子の尊厳は、私たちを取り巻く状況、私たちの内的な状況によって左右されるものではないことです。この神の子の尊厳こそ、決して動くことなく、私たちの存在を燃やし続けるイエス様の喜びです。この3つ目のポイントは、聖霊の火が私たちの実存を造り変えた結果なのです。

何度もお話ししていますが、私は大学生のとき、信仰を持つということがどのようなことなのか分からなくなりました。実際には、それ以前から分かっていなかったのです。しかし、大学生のとき自分がそれを知らないこと、知っていたと思っていたことが自分自身を救う力となっていないという事実に直面し、私は絶望しました。体も心も病み、私は倒れました。

私のそのような状態を知り、祈ってくれていた人がいて、私は礼拝に戻りましたが、私は信仰を回復することも、生きる力を得ることも出来ませんでした。そんな時、水上温泉で私が以前属していた教団の聖会が開かれ、私は特に何かを期待していた訳ではありませんでしたが、参加しました。礼拝に戻ったのだから行くべきかと思っただけでした。出発の前日から39度ほどの熱がありました。熱冷ましを飲みながらの参加でした。

しかし、その二日目の夜の男性の集会で、当時東京で伝道しておられた高橋先生という先生が、私の上に手を置いて、一言祈ってくださいました。「天のお父様、どうぞこの兄弟をその名前のように導いてください。」その時、圧倒的なイエス様の光が私を照らし、私を覆いました。火の窯の中に入れられた粘土の器が、自分自身も赤く燃え火と一つになるように、キリストの火と自分の存在が一つとなるような経験をしたのです。

この罪に汚れた私の体の細胞の一つ一つにもイエス様の十字架の血が注がれ、清められて行く、細胞の一つ一つが甦っていくことが分かりました。胸にあった二つの病気もその場で消えてなくなりました。そして、「神の子イエスの血は全ての罪から我らを清める」というヨハネ第一の手紙1章7節の言葉が、私の存在の真中で大鐘の響きのように響き渡りました。

私は、聖霊の火によって全く新しいものと造り変えられたのです。その時に与えられた燃え上がる喜びは、一時的なものではありませんでした。あの時から今まで、変わることなく私のうちに燃え続けているのです。

その後いろいろな失敗もありました。しかし、この喜びは私の中から取り去られることはありませんでした。罪の誘惑もありました。しかし、踏み止まることが出来た。それは、罪を犯したら神様からの罰を受けるという恐怖心のために踏み止まったのではありませんでした。内側に聖霊の喜びがあったからです。これが私を導いてくれたのです。

聖書は、神様が私たちに与えられた神の子の実存、神の子の尊厳を脅かすことができるものはないと宣言しています。私たちは状況の奴隷ではない。どんな状況の中にあっても、決して動くことのない神の子の尊厳が満たされる。状況によって左右されない満ち溢れる喜び、燃え上がる喜びがこの存在の中に満ち満ちるのです。

これは、イエス様がお約束になり、十字架と復活によって達成なさったこと、弟子たちが経験したこと、弟子たちによって伝えられたこととして聖書の中に記されていますが、私自身も経験してきたことです。あのイエス様との出会い、聖霊の火の経験から30年以上が経ちますが、イエス様の火は変わることなく私のうちで燃え続け、心の闇を照らし続けているのです。

有名な数学者、物理学者であったパスカルも「火の夜」という経験をしています。パスカルは1600年代フランスに生きた自然学者、数学者でした。既に10代で幾つもの数学の定理を証明し、数学者としての名声を獲得していたということです。20代前半でキリスト信仰に目覚めますが、父の死後、妹のジャクリーヌが修道院に入り自分が取り残されたような喪失感を味わったようです。社交界ではもてはやされますが、そこにある偽りに嫌気がさし、彼は社交界を離れ、神を求めようとしますが、どんなに頑張っても神を見出すことは出来ませんでした。自分の努力と頑張りが尽き果てた時、彼はイエス・キリストと出会う「火の夜」と呼ばれる経験をします。その時のことを彼は書き付け、上着の襟に縫い込んでいたと言われます。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
哲学者や学者の神にあらず
確実、確実、感激、歓喜、平安
イエス・キリストの神
我が神、すなわち汝の神
汝の神は我が神なり
神以外、この世および一切のものの忘却
神は福音に示されたる道によりてのみ見出される
人間の魂の偉大さよ!
「正しき父よ、げに世は汝を知らず、されど我は汝を知れり」
歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙

われ神より離れおりぬ
我が神よ、我を捨てたもうや
願わくは、われ神より永遠に離れざらんことを

哲学者や学者が努力して見出そうとしたが、学問によっては見出すことが出来なかった神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が自分に現れた時、それは火のような経験だったというのです。「確実、確実、感激、歓喜、平安、歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙」と彼は書き記しています。

聖書が「喜び」という時、それは人間が持つ喜怒哀楽といった感情としての喜びを意味しているのではありません。外的状況、内的状況の如何に左右されない「喜び」という実体があるのです。

ダビデは歌いました。「あなたは私の荒布を解き、喜びを着せてくださいました」と。人間の感情としての喜びではない。神様が着せてくださる喜びがあると。

イエス様は、十字架にかけられる前夜、何度も「喜び」についてお語りになりました。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」ヨハネ15:11

「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」ヨハネ16:22

まさにもうすぐ捕らえられ、明日には十字架に架けられることが分かっている。苦しくない訳がありません。辛くない訳がありません。イエス様ご自身が「どんなに苦しい思いをするだろうか」とおっしゃっているとおりです。しかし、そのような苦しみの中にあっても、イエス様の中には「わたしの喜び」という実体が満ちていたというのです。

そして言われます。「わたしの喜びがあなたがたの中にあり、あなたがたの喜びが満ち溢れるためだ」「その喜びをあなたがたから奪い去ることができるものはない」と。これこそ、イエス様がその全存在をかけてこの地に、私たち一人一人の中に投げ込まれた天の火だったのです。

この火に触れられ、この火に燃やされる時、私たちの存在は質的な変化を遂げます。それまでの自分とは全く異なったものとなる。周囲の人たちと自分が全く違ったものになったことが分かるのです。イエス様がこの火によって家族の中にさえ分裂、分離が起こるとおっしゃっているのは、このことを意味します。

キリストの火によって新しいものとされると、これまでと考え方が違って来る。これまで価値があると思っていたものには価値がないことに気が付くようになる。イエス・キリストを最も大切にするようになる。事と場合によっては、家族の言うことを聞かなくなることもある。イエス様の声を聞くからです。

イエス様は言われました。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と。

しかし、これは破壊的カルト宗教などで問題となるマインドコントロールとは違います。マインドコントロールは、脅迫と恐れによって人を支配し、理性的な判断が出来ないように人の心を縛り、教団や指導者に服従させることです。しかし、イエス様の火は、私たちに自由を得させる神の力です。この満ち溢れる喜びの火が燃え上がる時、私たちの知性は冴え渡り、真理と偽りを見分けることが出来るようになります。人や集団に依存しない独立した精神が与えられ、確立した個として互いを愛し合い、互いに仕え合う、真実の愛が私たちの間に生き始めるのです。

自分が周囲の人や家族と違った存在になったことで奇異の目で見られることもあるかもしれません。何を大切にして生きるかということで意見のぶつかり合いが生じることもあるでしょう。しかし、私たちがイエス様の火、イエス様の喜びに生きることによって、周囲の人たちもまたイエス様の光を受け、イエス様に出会う機会を与えられて行くのです。

イエス様の火は、ペンテコステの時に弟子たちに下りましたが、一度燃えついた火は、誰にも消すことは出来ず、次々と燃え広がり、遂に私たちのところにまでやって来たのです。イエス様は言われました。

「わたしは火をこの地に投げ込むためにやって来た。この火が既に燃えていたならと、どんなに願っていることだろうか。しかし、わたしには受けなければならない十字架のバプテスマがある。それを成し遂げられるまでどんなに苦しい思いをすることだろう。」

イエス様がその実存をかけて願い、成し遂げようとなさっていることは、その火を私たちの存在の中に投げ込むことです。私たちの存在を火のように燃やすことなのです。私たちもこれを求めて祈ろうではありませんか。

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