「マタイの福音書」連続講解説教

今は小さくても

マタイの福音書17章14節から23節
岩本遠億牧師
2008年2月24日

17:14 彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。 17:15 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。 17:16 そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」 17:17 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 17:18 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。

17:19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ、私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」 17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。 17:21 〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」

17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。 17:23 そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。

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私たちは、神様に対してどのようなイメージを持っているでしょうか。神様は厳しい方だ。怖い方だ。私たちの弱さを受け入れず、鞭をふるって私たちを追い立てる方だといったイメージを持つ方もいらっしゃるでしょう。あるいは、神様は恵みに溢れる方、弱い私たちをそのまま背負い、歩いて下さる方、どこまでも私たちを受け入れる優しい方というイメージを持っている方もおられるでしょう。

私たちは聖書を読むことによって神様がどのような方であるかを知っていくわけですが、神様に対するイメージが違っていると、聖書の読み方、理解の仕方にも影響が出てきます。「この方は、恵みと真に満ちておられた」と聖書は言います。恵みと真に満ちた方としてイエス様を理解するという前提で聖書を読んでいくとき、そこにはそれまで見えなかった溢れる祝福と喜びの世界が広がっているのが見えていきます。これを「恵みによる聖書理解」と言います。

今日、私たちに与えられている聖書の箇所も、「恵みによる聖書理解」をしなければ、恐らく読み誤る箇所であろうと思います。イエス様が弟子たちに対して、お前たちは立派な信仰を手に入れるためにもっと頑張らなければならないと仰ったという理解や、頑張りの信仰で何でも自分の思い通りになるといった解釈をするなら、それは誤った理解です。また、ここでイエス様が弟子たちに対して苛立っておられると感じるのであれば、それも恐らく違うだろうと思います。

この箇所も恵みと真に満ちたイエス様を指し示しています。私は、恵みと真に満ち溢れるイエス様を告白したいと心から願います。

先週、私たちはイエス様がペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登られ、そこで弟子たちの目を開いて栄光ある神の子としてのご自分の実存を顕されたというところを学びました。ルカの福音書によると、イエス様はモーセとエリヤと共に十字架について語り合っておられたとあります。またその直前の16章には「生ける神の子キリストとは、十字架にかけられる者である」という宣言をなさっている。今日の箇所でイエス様は3人と山を降りられ、他の弟子たちのところに戻られるわけですが、22節にはまた、十字架と復活の予告が語られます。まさに十字架に向かっていこうとなさっているイエス様に挟まれた箇所として今日の箇所を読むなら、イエス様のお心を理解することができるようになると思います。

17:14 彼らが群衆のところに来たとき、ひとりの人がイエスのそば近くに来て、御前にひざまずいて言った。 17:15 「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、たいへん苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりいたします。 17:16 そこで、その子をお弟子たちのところに連れて来たのですが、直すことができませんでした。」

まず、ここで「てんかん」と訳されていますが、このように訳すことが適切か、議論がなされているところあります。文字通りの意味では、「月に打たれる」という意味で、悪霊によって苦しめられているという意味です。「てんかん=悪霊」ということではありません。むしろ、悪霊は、様々な病気を引き起こし、人を苦しめるというのが聖書における理解です。ですから、イエス様は悪霊と立ち向かい、人々を癒されたのです。

イエス様が山に登っていらっしゃった間、病に苦しむ多くの人たちがイエス様を求めて集まってきていました。その中に悪霊に苦しめられている息子を連れてやってきた男の人がいました。弟子たちは、イエス様に代わって、その子を直そうとしましたができなかったとあります。

マタイの福音書10章には「10:1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」とあります。弟子たちはイエス様に遣わされて、町々村々を巡り歩いて福音を宣べ伝え、悪霊を追い出し、病気を癒す経験をしてきたのですが、今回はできなかった。同じ出来事を記したマルコの福音書によると、彼らは律法学者たちと議論していたとあります。苦しむ男の子、その父親のほうを見ず、また、彼らのために祈るのではなく、何故できないのか、その神学的な理由を議論し、争っていたのです。

そんなところにイエス様は帰っていらっしゃいました。「17:17 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 17:18 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。」

これを読むと、イエス様が苛立っておられるように感じますが、そうではありません。イエス様は嘆いておられるのです。「我慢」と訳されていますが、「下から支える」という意味です。「ああ、不信仰な、曲がった時代。神様の恵みを信ぜず、神様を真直ぐに見ない時代。悪魔によって心が曲がってしまっている時代。こういう現実の中で苦しむあなたたちをいつまでもこのように支え続けることはできないのだよ。私はもうすぐ十字架にかけられて殺されようとしているのだ」とイエス様は嘆いておられるのです。

イエス様は言われました。ヨハネの福音書「12:35 イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。

12:36 あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」イエス様は、いつまでもあなたたちと一緒にいられない、いつまでもこの手で支え、この手で癒してあげることはできないのだ。光があるうちに、光を信ぜよ、わたしがいる間にわたしを信ぜよ、と仰っているのであります。

そして、イエス様は悪霊を叱り付け、男の子から悪霊を追い出して、彼を癒されました。(新改訳聖書では、「その子をおしかりになると」と訳されていますが、「その子を」という言葉は原語にはありません。イエス様がお叱りになったのは悪霊です。)

すると弟子たちが、そっとそばにやって来て質問します。群衆の前で質問できない恥ずかしさがあったことでしょう。イエス様に叱られるという思いもあったに違いありません。しかし、どうしても質問しないわけにはいかなかったのです。以前悪霊を制する権威を与えられていたのに、何故、できなかったのか。それは、弟子たちにとっては重要な疑問でした。

イエス様は答えられました。「17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

「信仰が薄い」と訳されていますが、「小さい」が元の意味です。イエス様は大きな信仰、小さな信仰と言われました。「お前たちの、その小さい信仰が原因だ」と。「お前たちは、わたしから与えられた権威に頼った。賜物に頼った。しかし、信仰を働かせなかったのだ」と言うのです。信仰を働かせるとは何か。それは、イエス様の前に跪くことです。イエス様の前にひれ伏すことです。この男の子の父親は、イエス様の前に跪いて懇願しました。祈りました。自分のプライド、自分の思い、自分の能力、賜物、思い上がり、そのようなものを全て投げ捨てて、跪き、ひれ伏して懇願する。それをイエス様は大きな信仰と呼ばれたのです。そして、その信仰を見てイエス様は癒されました。

弟子たちはどうだったか。自分はイエス様の弟子だ。イエス様に権威と賜物を与えられた。そういう思いで、この子を癒そうとしていたのではないでしょうか。祈ることも、自分の力と思い上がりを捨てさって、ひれ伏して祈るようなことなしに、「悪霊よ、出て行け」とやっていたのが弟子たちだったのです。

括弧の中に、「祈りと断食によらなければ」とあります。これはこの翻訳の基となっている底本の中にはないということですが、そのような理解というのは初代教会の中であったのかもしれません。何れにせよ、祈りも断食も、自分を捨てる、自分の思い上がりと欲をかなぐり捨てて神様の前にひれ伏すことを意味しているのです。人に誉めてもらうために立派な祈りをしたり、人に認めてもらうために断食するようなことではありません。自分自身を捨てるような祈りという意味です。

イエス様は、さらに言葉を継いで言われます。「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」

「わたしの真実にかけて言う」と仰っています。カラシ種というのは、芥子の実より更に小さな種です。小さな小さな種です。そんな信仰があったら、と言われる。「お前たちの信仰が小さいからだ」と言われたのと矛盾すると感じませんか。

ギリシャ語を見ると、「カラシ種一粒のような信仰」です。言うならば「カラシ種一粒の信仰」と言っても良いと思います。また、「山が動く」という表現は、慣用句で、不可能と思われていることが可能になるという意味です。また、「動く」という言葉は未来形で書いてあります。現在のことを言っているのでも一般的なことを言っているのでもありません。「この山は動くようになる」と仰っているのです。このような言葉に関することを整理して考えると、イエス様のご真意がわかってきます。

つまり、「お前たちにはカラシ種一粒ほどの信仰もない。だから、癒すことができないのだ。お前たちの信仰は駄目な信仰だ。大きな信仰を得るために、頑張らなければならない」と仰っているのではないということです。

「カラシ種一粒の信仰を持っていたら、それはやがて大きくなるぞ。今不可能なことが可能になっていく」と約束しておられるのです。イエス様は言われました。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります」と。

今は小さい信仰だ。死んだように動くことも、それを働かせることもできない。しかし、これを大きくする神様がいる。お前たちの中で、このからし種の信仰が大きくなっていくのだ。この種には命があるからだと仰っているのです。種は、イエス様が語られた言葉であります。

イエス様は、種の譬え話がお好きでした。何度も種を題材にして天の祝福をお語りになりました。種蒔きの譬えもそうです。種を宿した土地は自ずから実を結ばせるとも仰いました。カラシ種の譬えもそうです。蒔かれた時には自分で動くことも働くこともできない小さな、死んだような種。しかし、そこに命がある。私たちの心の中に蒔かれたら、それは発芽し、大きくなっていくのです。やがて、どんな野菜よりも大きくなって空の鳥が巣を作るようにまで成長する。

イエス様は、弟子たちに「お前たちの信仰が小さいからだ」と仰いましたが、このカラシ種のように小さい信仰に、なお希望を持っていらっしゃったのです。この小さい信仰が大きくなっていくのを知っておられました。なぜなら、その種は、イエス様自身の言葉であるからです。

そして、この小さなカラシ種の信仰を大きくするものは何か。それは、イエス様の十字架と復活、そして聖霊の恵みであります。先ほど申しましたが、この出来事は、まさにイエス様が十字架に向かっていこうとしておられるときに起こりました。イエス様は、いつまでも君たちと一緒にいることはできないのだ。いつまでも君たちを支えていることはできないのだと仰いました。それは、イエス様が十字架にかかられるからです。しかし、このイエス様の十字架こそが、カラシ種の信仰を大きくする命そのものであったのです。ですから、イエス様はこのカラシ種一粒の信仰があったら、この山に動けと命じたら、そのようになる。この山は動くようになるのだと仰ったのです。

イエス様がこの地上で伝道の働きをしておられたとき、弟子たちのうち誰がイエス様にその信仰を誉められたことがあったでしょうか。そんな弟子は一人もいなかったのです。皆、「信仰の小さい者。何故恐れるのか。お前たちの信仰が小さいからだ」と言って叱られました。しかし、そんな弟子たちが、イエス様の十字架と復活を経て、聖霊を注がれ、どんなに大きく変わったでしょうか。弟子たちは、自分の頑張りで、信仰を大きくしたのではなかった。彼らはイエス様の十字架を前に、イエス様を否定し、絶望しました。プライドも、思い上がりも、イエス様に与えられた権威も全てを失ってしまったのです。

しかし、そこにふっと息をかければ飛んでなくなってしまいそうな、小さな小さなカラシ種一粒の信仰が残されていました。イエス様が彼らの中に置いた、小さな小さな信仰が残っていた。復活なさったイエス様は、それに命を吹き込まれたのです。

イエス様は、言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」ヨハネ12:24

イエス様が十字架で命を捨てられることによって、多くの実が実るようになる。カラシ種一粒の信仰に実を結ばせるもの、それは一粒の麦となって死なれたイエス様であったのです。「わたしが十字架で死んで復活したら、これを大きくするぞ。この山は動くようになるのだ。」これがイエス様の約束であったのです。

そして、どうでしょう。聖霊を注がれた弟子たちの働きは、まさに山を動かす働きだったのです。病んでいる者たち、悪霊に苦しむ者たちを癒し、闇に住む者たちに光を照らし、歴史を動かし、歴史を救うものだったのです。イエス様は言われました。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。」ヨハネ14:12

皆さん、どうでしょうか。私たちの信仰は小さいかもしれない。しかし、イエス様は私たちの中にカラシ種一粒の信仰を置いてくださっていないでしょうか。聖書の言葉、イエス様の言葉が私たちの中に植えられていないでしょうか。吹けば飛んでなくなってしまうような信仰と自分では思うかもしれない。しかし、イエス様ご自身が仰ったのです。カラシ種一粒の信仰があれば、この山は動くようになると。イエス様が十字架にかかり、復活し、私たちに聖霊を注いで下さるからです。この方が小さな私たちの信仰を大きくしてくださるからです。

信頼して行きたいですね。

お祈りをします。

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