「マタイの福音書」連続講解説教

付いて来いと言われる方

マタイの福音書19章16節から30節
岩本遠億牧師
2008年4月27日

19:16 すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」 19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」 19:18 彼は「どの戒めですか。」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。 19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」 19:20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」 19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 19:22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。 19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」 19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」 19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。 19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

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先週に引き続いて「富める青年」と呼ばれる聖書の箇所、それに続く箇所を学びたいと思います。私が今日この箇所から聞き取りたいと願うことは、「この青年は滅びてしまったのだろうか」ということです。イエス様は、なんと仰っているのでしょうか。イエス様に従うとは一体どういうことなのでしょうか。

多くの財産を持っている非常に真面目な青年がいました。彼は、自分が永遠の命に繋がっていないことを自覚していました。一生懸命良い生き方をしてきた。律法を守ってきた。なすべきことをしてきた。しかし、永遠の命に生きているという実感がない。自分の実存に何かが足りないと感じていたのです。
彼は、イエス様に問います。「永遠の命を得るためには、どんな良いことをしたら良いのでしょうか」と。イエス様は答えられます。「戒めを守れ。」「どの戒めですか」「殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証するな。父と母を敬え。」「そんなことは全部小さい頃から守っています。さらに何が足りないのでしょうか。」するとイエス様は、お答えになりました。「持ち物を売り払って、貧しい人に施し、その上で私に従え」と。
先週も申し上げましたが、この青年とイエス様のやり取りは、次のようなものだと理解すると分かりやすいと思います。「先生。私は生まれた時からのクリスチャン家庭に育ち、聖書の教えを良く守り、悪いことはしてきませんでした。収入と財産に応じて献金をし、真面目に生きてきました。沢山の財産を親から受け継ぎ、祝福されていますし、社会的には相当の立場と学識を持ち、社会の指導者となりました。生きていくうえで何も困っていません。これは神様からの恵みです。しかし、何かが足りません。永遠の命に繋がっているという自覚がないのです。あと何をしたら良いのでしょう。」
それに対して、イエス様は言われるのです。「そのようなものは全部捨ててきなさい。あなたは持ちすぎているのだ。自分の財産、自分の行う良い業、自分の立場、プライドそのようなものであなたは富みすぎている。それがあなたの存在を形成するものとなっている。そのようなものを捨てて、貧しい者となって、わたしに従いなさい」と。
青年は、この言葉を聞くと、悲しんで立ち去ったとあります。怒って立ち去ったのではありません。反発したのでも、もっと別の先生のところに行って教えを乞おうと思ったのでもない。「その通りだ」と思ったのです。自分の弱点、自分が最も欠けていたところはこれだと思った。イエス様の仰ることに間違いはなかった。しかし、彼は従うことができなかった。自分の力では越えることができない大きな壁がそこにあったのです。
しかし、これはこの青年だけの問題でしょうか。私たちの多くは、この青年のような金持ちではないでしょう。しかし、自分の財産、金、自分の社会的地位、自分の経験、自分の思い、自分のプライド、また、自分の何かを握り締めている。「あなたは持ち過ぎている。永遠の命を得るためには、それを捨ててわたしに従え」と仰るイエス様の言葉に従うことができないのは、私たち一人ひとりではないでしょうか。
イエス様にそう言われて、その通りだと思ったとき、それが自分ではできなくて、悲しんで立ち去っていくのは、この青年一人だろうか。私自身がその一人であることを認めざるを得ないのです。皆さん、どのように思われるでしょうか。

イエス様は嘆かれます。
19:23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。 19:24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 19:25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」 19:26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
イエス様は言われるのです。「金持ちが天国に入ることは難しい。金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが簡単である」と。「らくだが針の穴を通る」という表現には昔からいろいろな解釈がありますが、イエス様が「不可能だ」と言われたということに変わりはありません。
すると弟子たちが非常に驚いて言います。「では、誰が救われるのだろうか」と。当時のユダヤ社会では、多くの財産を持っていることは神様の祝福と考えられていました。金持ちが一番天国に近いと考えられていたのです。ですから、金持ちが天国に入ることができないとなれば、誰が天国に入れるのだろうか。誰が救われるのだろうか。弟子たちは驚愕するのです。
弟子たちは、ショックを受けました。それならば自分たちも救われないと感じたからです。天国に入るとは、それほど難しいものなのか。それは、私たち日本人にも同じように感じることではないでしょうか。善行を積めば天国に入れる。良い人間になったら天国に入れる。仮に罪を犯しても罪滅ぼしをしたら、天国に入れると私たちは考えたい。そこにあるのは、天国はこの地上と連続的に繋がっているという考えです。この地上の価値観が天国で通用するようにしたいという希望を私たちは持っている。だから、若い時は悪いことをしても、年をとって慈善活動などをしたら、最後の良い活動が天国に繋がると考えるわけです。
しかし、イエス様が「金持ちが天国に入るより、らくだが針の穴をとおるほうが簡単だ」と言われるとき、この地上の価値観、この世で良いとされることによっては天国の門は開かれないと仰っているのです。天国には天国の原則がある。地上の原則では天国の門の鍵は開かないのだと。弟子たちは、この言葉にショックを受けるのです。私たちも同様ではないでしょうか。
それでイエス様は、彼らをじっと見つめられました。愛を込めて見つめられたのです。「それは、人にはできないが、神には全てができる」と。「君たちにはできない。しかし、神様にはできる。神様には、君たちを天国に入れることができるのだ」と言うのです。「君たちのために天国の鍵を握っておられる方がいるのだ。」

ところが、ペテロは、このイエス様の言葉を聞いていたのでしょうか。
19:27 そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」 19:28 そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。 19:29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍をも受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。 19:30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」
ペテロは、イエス様が青年に「持ち物を全て売り払って貧しい人たちに施し、その上でわたしに従ってきなさい」と言われた言葉を聞いて、「俺は、そうした。全てを捨ててイエス様に従った。俺はそうした」という思いに満ちていて、イエス様が「富む者が天の御国にはいるのは難しい。しかし、人にはできないが、神にはすべてのことができる」と言われた言葉が、全く頭に入っていないのです。「俺たちが受ける報いは大きいぞ。何がもらえるんですか」と聞くのです。
しかし、皆さん、このペテロの言葉を聞いてどう思いますか。ペテロは本当に全てを捨てていたのでしょうか。確かに、彼はイエス様との運命の出会いをしたとき、イエス様に「わたしについて来い」と言われ、舟と網を捨ててイエス様に従ったと書いてあります。しかし、彼は、自分の商売道具であった舟と網を売り払ったわけではないし、イエス様の活動の拠点となったカペナウムの家を売り払ったわけでもありません。彼には妻がいましたが、イエス様が天にお帰りになった後の伝道旅行には妻も同行しています。
ペテロは、「何もかも捨ててあなたに従ってきました」と言いました。確かに、そのような思いはありましたし、イエス様の伝道旅行に同行していた時は、仕事や家族は置いて来ていました。しかし、それは、あくまでも置いてきていたのであって、いつでも元に戻ろうと思えば戻れる状態ではあったのです。実際、イエス様が十字架にかけられるために捕らえられた時、イエス様を否定して逃げて行きました。そして、復活のイエス様に出会っても、立ち直ることができず、ガリラヤの自分の家に帰り、元の漁師生活に戻るのです。そこには、自分の家と舟、網、そして、家族がいたからです。
このように確認してくると、ペテロのこの発言には、自己陶酔的な部分が含まれていることが分かります。「自分は全てを捨ててイエス様に従っている」という気分に酔っているのです。
このペテロは、いよいよイエス様が十字架にかけられる前の日の夜、「あなたと一緒に死ぬ覚悟はできています。あなたのために命を捨てます」と豪語します。持ち物を捨てるどころか、命を捨てると誓うのです。しかし、イエス様は、「今夜鶏が鳴く前に、あなたは3度知らないというだろう」と予告されます。そして、そのイエス様の言葉どおり、ペテロはイエス様を否定し、絶望するのです。そして、あの富める青年と同様、彼は悲しみながらイエス様の前を去って行ったのです。
ペテロの誓いの言葉、「あなたのために命を捨てる」という言葉は虚しかった。それと同様、「ご覧下さい。私たちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました」という言葉も虚しかったのです。
イエス様は、ペテロのこのような性格をご存じなかったのでしょうか。すぐにカッと燃え上がるけれども、実質のない言葉によって自己陶酔してしまう弱さを知らなかったのでしょうか。勿論、イエス様はご存知だったのです。そんなペテロを愛されたのです。そんなペテロを教会の最初のリーダーとしてお立てになった。彼に天国の鍵を渡すとまで仰ったのです。
何故か。ペテロという人にはできないけれども、神にはできるからです。この弱い器を天国の器とすることがイエス様にはできるからです。
イエス様は、そんなペテロの言葉を聞きながら、「ペテロ、自分自身のことをしっかり振り返ってみろ。本当にそんなこと言えるのか。本当に全てを捨てたのか」とは仰らなかった。むしろ、「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」と仰った。「もう一度全てが新しくされる時が来る。その時、あなたがたは、天国での祝福を受けるのだ」ということです。これ以上ない言葉です。
ペテロは、しっかりと自分を振り返ることもせず、言葉に酔っていることと現実との違いが分からないような人でした。そのことの故に、彼は十字架を前に絶望します。自分の思い、自分の意志、自分の力では、何も捨てることができない情けない人間であるということを徹底的に知ることになるのです。

しかし、そんなペテロを握っていたイエス様がいました。絶望して自分では立ち上がることができないペテロ、もうイエス様との関係の中に生きていくことはできないと思っていたペテロのところに復活したイエス様は現れ、彼をもう一度招くのです。もう一度出会いの感動を回復させるのです。そしてお尋ねになりました。
「ヨナの子シモン(ペテロ)。わたしを愛するか」と。もう自分の言葉で何かを宣言することができないペテロは答えました。「私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」「わたしの教会を養え。」「ヨナの子シモン。わたしを愛しているか。」「主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」「わたしの教会を養え。」「ヨナの子シモン。わたしを愛しているか。」「主よ、あなたは全てをご存知です。わたしがあなたを愛していることを、あなたはご存知です。あなたは、全てをご存知です。」
自分の言葉に酔うのではなく、「イエス様、あなたは全てをご存知です」と告白する者にペテロは変えられたのです。
そして、イエス様は、「あなたのために命を捨てます」と言ったペテロの言葉を後に真なるものとして実現なさいます。ペンテコステの後、聖霊に満たされたペテロは、自分の言葉に酔う者ではなく、神の言葉に満たされたものとして、復活のイエス様を宣ベ伝え、最初のキリスト教会を打ち立てます。そして、ついにローマで殉教の死を遂げるのです。
何度も申しますが、人にはできないのです。しかし、神にはできる。私たちの執着する心を捨てさせるのも、永遠の命を与えるのも神様の恵みなのであります。

このように考えてくると、あのイエス様の前を悲しみながら立ち去った富める青年に対するイエス様のお心が分かってくるのではないでしょうか。イエス様は、この青年に天国の門を閉じられたのでしょうか。イエス様を否定し、悲しみながら去って行ったペテロを受け入れ、赦したイエス様は、この人を受け入れ、赦さなかったでしょうか。私たち全ての者のために十字架にかかって命を捨て、罪を贖ってくださった方は、この人の罪をも贖ったのではなかったでしょうか。
同じことを記録したマルコの福音書を見ると、「イエスは、彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた」と書いてあります。イエス様の慈しみ、愛は、この人に届いたのです。この人がこの地上の生涯を終わってイエス様の前に立った時、イエス様の愛と慈しみはこの人に変わることなく注がれたのです。イエス様は、この人に永遠の命を与えられた。この人は救われた。私は、そう信じます。また、だからこそ、今全てを捨てて従うことができない者にも、イエス様の救いは届けられると信じることができるのです。

言うまでもなく、聖書は、私たちが神様に従わなくて良いと言っているのではありません。執着を捨てなくて良いと言っているのではありません。「ついて来い」とお命じになるイエス様がおられるのです。「全てを捨てよ。心の貧しい者となれ。貧しい者として生きよ」とお命じになるイエス様がいる。私たちは、イエス様のこの招きの言葉に自分の全存在をもってお答えしなければならないのです。真剣にそのことと向き合わなければなりません。どうでも良いことではありません。しかし、真剣に向き合おうとすればするほど、自分の言動、自分自身を深く点検すればするほど、できない自分を発見してしまう。自分の思いと力ではイエス様に従うことができない現実を知るのです。イエス様の基準は余りにも高く、厳しいからです。
では、聖書は何を言っているのか。そのような人間の限界を超えさせる神様の力があると言っているのです。付いていくことを得しめる力は、「ついて来い」とお命じになる方にあるのです。すぐにはできなくても、いつか必ず付いていくようになる。イエス様がお命じになるからです。この方の言葉は必ず実現するからです。
イエス様はペテロに言われました。「今、あなたがたはわたしについて来ることはできない。しかし、後になったらついて来ることになる」(ヨハネ13:36)と。
人にはできないが、神には全てのことが可能である。私たちを救うのも、私たちの執着を捨てさせ、永遠の命を与えるのも、全て神様がなさるのです。神様には全てが可能だからです。
祈りましょう。

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