「マルコの福音書」 連続講解説教

何のための聖霊?

マルコの福音書第1章12節~13節
岩本遠億牧師
2016年6月26日

1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。 1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

神の子とは何か?
父なる神に喜ばれるとは何か?
→聖霊がイエスを荒野に追いやった

荒野:人がいないところ、さびしいところ
    見捨てられたところ
    水なく、食物なく、渇き衰えたところ
    →主イエスの祈りの場

荒野
神との出会いの場所=神が人と出会う場所
 創世記16:7(ハガル)
 出エジプト3章(モーセ)=召命の場
  「あなたの足から履物を脱げ。あなたが立っている場は、聖なる場所である」

神を礼拝する場所=出エジプト5:1
「わたしの民を行かせ、荒野でわたしのために祭りをさせよ」

神が民を教える場=民数記1:19
神の導きと守りの場=火の柱、雲の柱
出エジプト13:20 こうして彼らはスコテから出て行き、荒野の端にあるエタムに宿営した。13:21 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。13:22 昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。

神がその民を導く(=試みる)場
申命記 8:2 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 8:5 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

荒野=人が神に対してつぶやく場、反逆の場
  出エジプト17:1-4、民数記20:2、33:14 
「水がない!エジプトで死んでいたほうがましだった。」
  民数記11章、21章
「肉が食いたい。」「この惨めな食べ物(神が与えたマナ)に飽き飽きした」
  出エジプト32 「金の子牛を作って偶像崇拝」

神による試験に失敗する場
民数記14:21-23
14:21 しかしながら、わたしが生きており、主の栄光が全地に満ちている以上、 14:22 エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、 14:23 わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。

荒野でサタンの試みを受ける主イエス
サタンの試み=神の許しの許に行われる 参考. ヨブ記
試みの内容について、マルコは沈黙→マルコ8章

8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」 8:30 するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。 8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。

8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

8:34 それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。8:35 いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。

真のメシア=キリストとは何か?

イスラエルをローマから解放してイスラエル王国を復興するイスラエル王か?
それとも、人の罪の代価として十字架に殺される者か?

自分の中に満ち満ちる聖霊は、何のためか?

マルコ「10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

十字架を避けたい思い=サタンの誘惑
主イエスの不断の戦い→荒野での祈り

「我らを試みに会わせず、悪より救い出だし給え。」
←サタンの誘惑、試みがあるという現実
→ここから私たちを守り、御心を行わせて下さい

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