「ルカの福音書」 連続講解説教

光の子らの賢い生き方

ルカの福音書講解(78)第16章1節から13節
岩本遠億牧師
2013年5月5日

16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。16:2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』16:3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。16:4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、16:6 その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。

16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。

16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。16:12 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。16:13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

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イエス様は、「この世の子ら」「光の子ら」と言われました。この世の子たちの生き方と、光の子たちの生き方の違い、その存在のあり方の違いということを教えておられます。15章の三つの譬え話はパリサイ人たちに語られていますが、この16章の1節から13節までは弟子たちに語られたものです。ですから、これは「光の子ら」に向かって語られたものであります。

そして、驚くべきことを言われるのです。「この世の子らは光の子らよりも賢い。光の子らはこの世の子らの賢さを見習え」と。聖書の中には「この世に調子を合わせてはなりません」と教えられているところがあり、私たちはこの世の生き方から離れ、神の子らしく生きることを求めて来たのではなかったでしょうか。イエス様がここで、光の子らはこの世の子らの賢さを見習えと言われる。それはどのような意味なのでしょうか。

それは、お金をどのように利用するか、コントロールするかということにおいてであります。ここで富と訳されている言葉はマンモン(マモーン)という言葉です。小さい時からこのマモーンと言う言葉を聞く度に、「魔物」(まもん)を連想して来ました。まさに金、この世の富は魔物である、そのように理解して良いものです。イエス様は、ここで「不正の富」と仰っていますが、これは「正当な富」に対する「不正の富」という意味で仰っているのではありません。この世の富は全て不正であるという意味なのです。

「かわいい子供たち」という表現には、子供たちにはかわいい子たちとかわいくない子たちがいて、そのうちのかわいいほうの子供たちという意味と、子供たちは全部かわいい、その子供たちという意味の二つがあります。家内は小学校の教師をしていますが、前任校では朝早くから夜遅くまで働き、家に帰ってからも仕事をする、夜1時に寝て、朝5時に起きるという生活をしていたことがありますが、そんな中でも、「かわいい人たちがいるからね」と言いながら、頑張っていました。ここで、家内が「かわいい人たち」と言っているのは、クラス全員の子供たちのことを指しているのです。

同様に、「不正の富」という言葉には二つの意味解釈が可能ですが、イエス様はここで、この世の富はすべて不正であると仰っているのであります。これは、当時ユダヤの社会では富は神様の祝福である、貧しい者たちは神に呪われていると考えられていたことに対する強烈な反論であり、強い警告であるのです。

イエス様は、伝道のご生涯をお始めになるとき、悪魔の誘惑をお受けになりました。悪魔はイエス様を高い山に連れて行き、全世界の栄華を見せて言いました。「これらの国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」それに対し、イエス様はお答えになります。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主だけに仕えなさい。』と書いてある。」(マタイの福音書4:8-10、ルカの福音書4:6-8)この世の富の分配の権限を持っている悪魔と戦われたのがイエス様だったのです。ですから言われました。「幸いなるかな!貧し者たちよ。神の国はあなたがたのものである」と。

この世の富は不正である。この世の富は私たちを永遠に祝福するものではない。悪魔に支配されたものである。しかし、この世の終わりに悪魔が完全に滅ぼされるまで、私たちはこの世の富という体制の中で生きて行かなければならない。では、私たちはどのように生きるのか、私たちはマモーンの世界の中でどのようなものであるのか。イエス様はそれを教えようとなさっているのです。このような観点からこの不正の管理人の譬えで語られていることに耳を傾けるなら、新約聖書の中でも特に難解と言われるこの譬えを通してイエス様が教えようとしておられることが分かってくるでしょう。

ある金持ちがいて、その財産を一人の管理人に任せていました。ところがこの管理人が主人の財産を乱費している(放蕩しているという言葉)という訴えがなされた。主人は管理人を呼び出し、聞きます。「お前についてこういうことを聞いているがそれは一体どういうことか。もう管理人をさせるわけにはいかない。会計報告を出しなさい。」

この主人はこの管理人を即刻首にしたのではなく、会計報告を求めました。管理人は、自分が主人の金で放蕩していたことを認め、首になることを覚悟します。しかし、会計報告をまとめるまでに時間的に少し余裕がありますから、首になった後どうやって生きて行くか考えるわけです。土木現場での肉体労働をするだけの力はない、かと言って、乞食をするのはプライドが許さない。

そのとき、彼は良いことを思いつきます。主人に多額の借金をしている人たちの借金を減額してやるのです。油100バテも小麦100コルとありますが、借財は油や小麦で返すことになっていたと言います。いずれにしても多額の借金です。ここで減額してもらった油50バテも小麦20コルも、500デナリ、すなわち500日分の労働者の賃金に相当するという解説もあります。すでにこれだけの借金がある人たちです。返せる当てがあるわけではありません。この人たちは、自分と家族を奴隷として売りに出さなければならない危機にありました。管理人は、この貧しい人々が自分たちを奴隷として売りに出さなくても良いように、借用証の金額を減額し助けてやるかわりに、自分が首になったとき、居候させてもらえるようにしたというわけです。借用証などは、管理人が全て管理していますから、主人はそれぞれの人たちがどれだけ自分に対して借金があるかを知りません。主人の知らないところで裏取引をして、失職後の生活の担保にしました。

「主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」とありますが、ほめたのは「主人」ではなく、「主」だという解釈があります。神様がこの賢い、抜け目のないやり方を誉めたのだと。勿論、この人の不正や主人に損害を与えたことを誉めているのではありません。この主人も不正の富を貯め込んでいる。その不正の富を不正の管理人が乱費し、不正なやり方で貧しい者と裏取引して身の安全を図った。主は、不正を誉めているのではないし、不正を勧めているわけでもありません。不正な富の世界でそれを徹底的に使いこなし、貧しい者を助け、自分自身も助けた、その賢さ、抜け目のなさを誉めたのです。

そして言われます。「16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがない」と。つまり、光の子たち、イエス様に付き従っている弟子たちは、不正の富を使いこなすことについては、十分でないと仰っているのです。これを徹底的に使いこなしていない。むしろ中途半端であると。

「16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。」

「不正の富で自分のために友を作る」とは不正を働いて、その金で友を作るということではありません。先ほども申したように、この世の富は全て不正なのです。しかし、それでもこの不正の富を逆手に取り、これを用いて、友を作れ、すなわち、貧しい人たちを助けよと仰っているのです。すると「富がなくなったとき」、すなわち、富が役に立たなくなったとき、死んだとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎え入れてくれると。

ここで、「彼ら」という言葉が出て来ますが、神を複数形で呼ぶというユダヤの言葉の伝統(「絶対複数」と言います)から考えて、「神があなたがたを永遠の住まいに迎え入れてくれる」と理解することができます。また、私たちに助けられた貧しい人たちが、神様の前で私たちのために懇願し、「この人は、私が貧しく、飢えていたときに食べさせ、裸であった時に着させ、病気であった時に見舞ってくれました」と弁護してくれると理解することもできます。

何れにせよ、この世に生きている間に手にした不正の富を用いて、苦しんでいる人々、痛みの中にある人々を助けよ。わたしはそれを見ているぞとイエス様は言われるのです。マタイの福音書25章に次のようにあります。

25:31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。25:32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、25:33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。25:35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、25:36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

25:37 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。25:38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。25:39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

25:41 それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。25:42 おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、25:43 わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

25:44 そのとき、彼らも答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹であり、渇き、旅をし、裸であり、病気をし、牢におられるのを見て、お世話をしなかったのでしょうか。』25:45 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』25:46 こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」

イエス様が仰っていることは明確です。この世の富が与えられたなら、それを自分の楽しみのために使ってはならない。それはマモーンの支配下に下ることである。光の子に求められているのは、マモーンに支配されず、むしろマモーンを神様の目的のために使い尽くすことである。貧しい人々苦しんでいる人たちのためにこれを使うことである。

しかし、もし私たちがこれを不承不承で行なうなら、それもまたイエス様のお心に背くことでありましょう。目の前に苦しんでいる人がいるのを見て、その人を助けたいと思うのではなく、ここで助けないとイエス様に知らないと言われてしまうから、この人のことなんかどうでも良いけど、自分のために助けることにしよう。イエス様がこのような心を持つ者に対してどのようになさるか、言うまでもありません。痛んでいる人、苦しんでいる人、倒れている人を見て、かわいそうに思う、はらわたが戦慄くように、何とかしてあげたいと思う。だから私たちは行動するのです。

しかし、イエス様はそのことだけを仰っているのではありません。イエス様は「光の子ら」「光の子供たち」と言われました。光の子とは一体どのようなものでしょうか。それは光を見る者たちであります。イエス様の光を見る者たちであります。マモーンの支配する闇の世に支配される者たちには見えないイエス様の光がある。その光を見るとき、私たちはこの世の富、マモーンが不正なものであることが真に分かり、これに支配されてはならないことを納得することができるのです。

イエス様は言われました。「6:22 からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、6:23 もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」と。ここで目という言葉は、複数形ではなく単数系で書かれています。つまりここでイエス様が目と仰っているのは、霊の目のことを意味するのです。「それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。6:24 だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

私たちの霊の目が開かれる。すると、そこには悪魔の力、マモーンの力を打ち砕かれた王の王、主の主であるイエス様がおられるのです。王の王であるイエス様のお姿を霊の目で見るとき、私たちの全存在が不思議な喜びに包まれる。私たちの存在そのものが光となる。

「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。」エペソ5:8。

暗闇そのものであった者たちが、主イエスの光に照らされ、主イエスの光を見て光となった。「喜びなさい。イエスは王であられる。」と告白せざるを得ない喜びといのちが私たちの内から湧き上るのです。そのとき、私たちは不正の富に支配されることなく、これを正しく支配し、苦しんでいる人たちのためにこれを使い、神の国のためにこれを使うことができるようになって行きます。

そして、不正の富によって私たちが自分の何を喜ばせようとしているかということに理解を広げて行くと、私たちが正しく支配すべきものは何かということも分かって来るのです。私たちが不正の富によって喜ばせようとしているものは、5感の喜びです。触覚、嗅覚、味覚、聴覚、視覚の五つの感覚、これらが喜ぶことを不正の富は与えてくれるのです。お金をかければかけるほど柔らかく肌触りの良い美しい着物を手に入れることができます。香水も料理もそうです。また音楽もそうです。芸術作品を手に入れることもそうです。人間の歴史は、これらを追求し、その質を高めるために果てしない努力を続けて来たのです。しかし、それはまさに貪欲と高慢の世界を膨らませて来たことに他ならないのです。

ローマ時代の神学者にアウグスチヌスという人がいます。この人は『告白』という大きな本を書いていますが、その中でこのような感覚的な欲望を満たそうとする高慢の罪について語っている箇所があります。私たちはこのような感覚があるからこそ、生を維持しているわけですが、それはさらに心地よい感覚を求める肉欲、貪欲へと繋がるのです。そのような肉の欲について語る文章の中で、アウグスチヌスは音楽と信仰との関係についても議論しています。聖書の言葉がメロディーとともに語られる、すなわち歌われる時に、私たちは心動かされることを感じる。礼拝の中では歌ってはいけないという教会もあるようだが、自分としては礼拝の中で歌を歌うことは認めて良いと思う。しかし、私たちの魂を救うのは聖書の言葉なのであって、音楽ではないのであるから、聖書の言葉からはなれて音楽が一人歩きするようなことがあれば、それは肉欲を求めているのであり、信仰とは無関係だというような内容のことを言っています。

現在のキリスト教会においては、歌を歌うか歌わないかということが議論されることはありませんが、どのような音楽を用いるかということについては多くの教会で議論されています。中には楽器の演奏は禁止というところもありますし、オルガンだけが認められている教会、ピアノは良いが讃美歌だけ、あるいは聖歌だけという教会、さらに今増えつつあるタイプは、どんな楽器もOK、どんなタイプの曲もOKという教会です。ですから、ロックバンドのライブのような礼拝を行なっている教会もあります。

賛美を歌うことは礼拝の主要な部分ですし、音楽は時代によって変化もするので、私自身はどのような音楽をどのような楽器で演奏して賛美を歌っても良いと思っています。しかし、音楽が宣教を成功させるとか、こうゆう音楽がなければ伝道はできない、礼拝はできないという言葉を聞いたりすると、強い違和感を覚えます。また、音楽の奉仕者が礼拝を支配できると錯覚している教会を見たことがあります。さらには、ここでこの音を使うと聖霊が働くと本気で言っている音楽奉仕者の言葉を聞いたことがありますが、それらは信仰とは関係ありません。音楽的陶酔に浸っているだけです。イエス様を出汁に使って自分の音楽的欲望を満たそうとしているだけです。音楽も肉欲に属するのです。そして、それは教会の中でも暴走することがある。クラシック系の賛美であれ、ロック系の音楽であれ、同様です。

ですから、私たちは霊の目を開かれ、王の王、主の主であるイエス様を見つめつつ、音楽という肉欲が暴走することを知った上で、これが暴走しないように正しく支配し、賢く使って行かなければならないのです。

音楽に代表される耳の欲だけではありません。手の欲、鼻の欲、口の欲、目の欲、これらの欲をお金は満たしてくれる。そして、その暴走を許し、私たちを高慢の極みにまで追い立てようとする。しかし、高慢の極みとはまさに地獄の底です。神様とは何の関係もない世界なのです。

しかし、それらの暴走を食い止めてくれるものがある。それは悪魔の力、金の力、マモーンの力を打ち砕いてくださったイエス様です。光の子らにはもっと大切なものが見えるのです。イエス様が見えるのです。悪魔の力、マモーンの力を打ち砕かれた勝利の主イエスがいる。この方に自分の目を向けているとき、私たちはマモーンの力に支配されず、これを愛することもありません。

支配されず、愛することもないので、これを苦しんでいる人々、痛みの中にある人々のために思い切って使うことができる。自分に与えられた経済的な力や、様々な才能を謙遜に使いこなし、イエス様が愛しておられるお一人お一人に仕えて行くことができるようになる。私たちは自分自身のために存在しているのではないということを知るようになって行くのです。

パウロは告白しました。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」ローマ人への手紙第14章7-8節

私たちは、どんなに金をかけてもこの自分自身を変えることはできませんでした。金の力によってこの罪深い心が清められることがあったでしょうか。私たちの罪を赦し、聖め、この存在そのものを光へと造り変えることができたのは、ただイエス様の十字架の血潮だけなのです。このイエス様の十字架の血は、金で買えるものではありませんでした。ただで与えられたのです。ただ、イエス様の前に赦してくださいとひれ伏したものだけに与えられたのです。この絶大な恵みはただで与えられた。イエス様が金の力、マモーンの力、悪魔の力を打ち砕いてくださったからです。

私たちは告白しよう。主よ。今、私たちはあなたのものです。私は私のために生きているのではなく、あなたのものです。生きるにしても死ぬにしてもあなたのものです。どうぞ、存分にお用い下さい。あなたに与えられたものを賢く使いこなし、あなたのため、あなたが愛する人々のためにこれを使い尽くすことができますよう教え、導いて下さい。あなたのお心を私にもお与え下さいと。

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