「ルカの福音書」 連続講解説教

全生涯にわたる回心

ルカの福音書講解(80)第16章14節から31節
岩本遠億牧師
2013年5月12日

16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。 16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。 16:16 律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音は宣べ伝えられ、だれもかれも、無理にでも、これにはいろうとしています。 16:17 しかし律法の一画が落ちるよりも、天地の滅びるほうがやさしいのです。 16:18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

16:19 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 16:20 ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 16:21 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。 16:22 さて、この貧乏人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 16:24 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

16:25 アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。 16:26 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

16:27 彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。 16:28 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

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1517年10月31日、アウグスチヌス隠修道会修道士であり、ヴィッテンベルク大学神学部教授であったマルティン・ルターが「真理への愛と、それを明らかにしようとする願いから」、いわゆる「95か条の提題」をヴィッテンベルク城の城門に貼付けました。それによって宗教改革が始まり、世界の歴史は大きく転換したのですが、その「95か条の提題」の最初、第1条にかかれている言葉は以下のとおりです。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ』(回心せよ)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改め(回心)であることを欲したもうたのである。」

「全生涯にわたる回心」、これこそがイエス・キリストが私たち人間に求めておられることだ。イエス・キリストは私たちにその全生涯にわたって毎日毎日、「わたしのところに帰って来い」と招いておられるのであるというのです。

日本語で「悔い改め」と訳されている言葉は、メタノイヤと言いますが、方向転換を意味します。悔い改めという言葉には、反省という意味はありますが、心が変わるという意味はありませんので、むしろ、「回心」という言葉のほうが訳としては適しているように思います。

では、回心とは何か。これを知ることが今日の箇所を理解する鍵となると思います。30節31節にこのように言われています。

16:30 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 16:31 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

この金持ちは、もし誰か死んだ者の中から自分の5人の兄弟のところに行けば、兄弟たちは回心するだろう、と言いますが、それに対する答えは、もし彼らがモーセと預言者、すなわち旧約聖書の言葉に耳を傾けないなら、誰かが死人の中から甦っても、その言葉を聞き入れることはない、回心することはないというのです。

回心とは何か。それは、自分中心の生き方から神中心の生き方に、存在のあり方が根底から変わることです。自分の正しさを主張する生き方から、自分の正しさに死ぬ生き方に変わることです。

この金持ちは何故死んだ後に地獄とも言うべきところで火に焼かれる苦しみを受けますが、それは何故だったのでしょうか。生きているとき、金持ちだったからでしょうか。ポイントは、彼は地獄の火に焼かれながらも、自分中心であることを止めなかったということです。天国の祝福の中にあるラザロを自分のために使おうとしている。自分のためにラザロを使うことができないのなら、自分の兄弟のためにラザロを使おうとする。自分の思いの実現のために全てのものが存在するとでも言っているかのような、自己中心、高慢のために彼は地獄の苦しみの中にあるのです。

イエス様は何故このような話しをなさったのでしょうか。先週の箇所で私たちはイエス様が次のような譬え話をなさったところを学びました。この世の富は不正である。しかし、知恵を絞ってこの不正なこの世の富を用い、貧しい者たちを助けよ、彼らの友となれ。神様はそれを覚えてくださると。

しかし、この世の富は不正であるという考えに反対した者たちがいるのです。それは金を愛するパリサイ主義者たちでした。彼らはこの世の富は神からの祝福であり、貧しさは神からの罰であると考えていました。ですから、この世の富は不正である、しかしこれを用いて貧しい者たちを助けるために知恵を使い尽くすことが神様から評価されるのだというイエス様の教えは愚かなものに感じたわけです。

それに対してイエス様は言われるのです。あなたがたは、聖書の言葉の中で自分に都合の良いところだけを取り上げて、その根本的な精神を踏みにじっているのではないのかと。その例が離婚に関するものです。当時のユダヤ社会で女性の地位は非常に低いものでした。パリサイ派の律法学者の中には、料理に失敗したとか、他の男性と口をきいたというだけ、さらに酷いのになると、もっと美しい人を見つけたというだけで、妻を離別する者たちがいたと言います。それは、申命記という律法の書に次のように書いてあるからです。

人が妻をめとって、夫となったとき、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなった場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせなければならない。申命記24:1

もともと、「恥ずべきこと」とは不貞のことを指していたのですが、それが夫の都合、夫の身勝手によって拡大解釈され、どんな小さな失敗でもそれを「恥ずべきこと」とし、離婚して別の女を妻としていた。イエス様は、それを、死刑に価する姦淫の罪であると断言なさいました。

「創造者は、初めから人を男と女に造って、19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。19:6 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」マルコ19:4-6

聖書の根本精神を踏みにじり、自分の都合の良いところだけを利用し、それで自分を正しい者としているのがあなたがたパリサイ派の律法学者なのではないのか。

確かに、旧約聖書の中には神が祝福された人は富むこと、神に敵対する者が貧しくなることが書かれている箇所はある。しかし、旧約聖書(律法と預言者)の中心的教えは、神を自分の全存在をもって愛すること、そして、自分の隣人を自分と同じように愛することの2点に集約されるのである。イエス様は、律法の中で最も大切なものとして次のものをあげられました。

12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」マルコ12:29-31

貧しさの中で苦しんでいる人を見ながら、富は神様からの祝福、貧しさは神様からの呪いなどと嘯くことは許されないと仰っているのです。もしあなたが、日々回心の生活を送っているなら、目の前で苦しんでいる人を見て、それを無視することはできるのだろうか。

そして、一つの寓話を話し出されます。この話しは、イエス様の創作ではなく、当時エジプトを起源とするよく知られた類似の話しがあり、それをイエス様が改作して、分かりやすい寓話になさったものです。

ある金持ちがいました。王侯貴族が着るような極上の着物を着て、毎日宴会を開いて遊び暮していました。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていました。「寝ていて」と訳されている言葉は、「置かれていた」とも「投げ出されていた」とも訳される言葉です。つまり、誰かに連れて来られ、そこに置き去りにされていたということです。このことからこの人は身体に障害を持ち、しかも全身が出来物で覆われていたということが分かります。この人がここに置き去りにされていたのは、この金持ちやこの大邸宅の門を通る人たちに物乞いをするためでありました。そして、犬たちがその出来物をなめていたと言います。犬というのはユダヤ社会では豚とならんで汚れた動物です。これ以上悲惨な生涯はない、それをラザロという人になぞらえているのです。

しかし、この人は死んで御使いによってアブラハムの懐に連れて行かれたと言われます。アブラハムとは祝福の基と言われたイスラエルの父祖のことです。アブラハムの懐とは天国と言っても良いところです。そこに連れて行かれた。貧しかったから天国に行ったというのではありません。聖書には富んでいる者は地獄に行き、貧しい者は天国に行くという考えはないのです。何故彼は天国に連れて行かれたのかということ、彼が神を頼みとしていたからです。彼の名前はギリシャ語でラザロですが、ヘブライ語ではエレアザル(神助け給えり)という名です。

イエス様は、この地上では惨めな生活を強いられた男にエレアザル、神助け給えりという名をお付けになりました。この貧しさ、苦しさ、痛みと惨めさの中にも神を呼び求める心があり、どんな小さな助けに対しても、神助け給えりと告白しながら生きた人として、この人を登場させているのです。この人は、死んですぐに御使いの手によって天国に連れて行かれたと。

一方、金持ちのほうも死にますが、彼は地獄の苦しみの中にある。それは、彼が自分の生き方を正しいとし、このラザロと何の関係も持とうとはしなかったからです。彼の僕たちが残飯をこの人に与えていたということはあると思います。しかし、この金持ち自身がラザロと個人的な関係をもったということは考えられないのです。何故かと言うと、死んで御使いに連れられて天国に行ったラザロと地獄の中にいる金持ちとの間には超えることができない渕があると言われていますが、これは、この金持ちが生きている間にラザロとの間に決してラザロが超えることができない溝、壁、垣根を作ったことの反映なのです。

あなたは、自分が生きている間、ラザロに話しかけたことがあっただろうか。ラザロの痛みのことを考えたことがあっただろうか。ラザロと自分の間に大きな壁を作り、全く関係のない者、別の世界に生きている者としてきたのはあなた自身なのではないのか。

しかし、ここでも、この金持ちはラザロに向かって、「申し訳なかった」とは言わないのです。自分の罪を認めようとはしないのです。自分の苦しみを和らげてくれる道具ぐらいにしか思っていない。地獄とはまさに、自分の罪を認めようとしない者たちの行くところ、死んでも回心しようとしない者たちの世界なのです。アブラハムは彼に向かって「子よ」と呼びかけていますから、まだ回心の機会は与えられると考えているようです。もし彼が回心するなら、この大きな渕は取り除かれる。イエス様はそれがおできになるお方です。それを成し遂げるために十字架にかかって死に、地獄の底まで落ちて、甦られた方だからです。

しかし、回心しない者には、大きな渕はそのままそこに存在するのです。回心しない者が、5人の兄弟が回心するようにラザロを遣わしてほしいと願い出る。これまた滑稽なことではありませんか。

これに対してアブラハムは次のように答えるとイエス様は言われます。「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」

何故、モーセと預言者、すなわち旧約聖書の言葉に耳を傾けないのか。それは、自分に都合の良いところだけを聞いてそれを拡大解釈して、聖書の根本思想を踏みにじるからです。聖書が語りかける神様の言葉に耳を傾けるとき、私たちは心が変わるのです。自分中心ではいられなくなるのです。自分の正しさを主張できなくなる。

聖書はいろいろな読み方ができます。自分に都合の良いところだけに焦点を当てて読み、都合の悪いところは読み飛ばしたり、解釈をねじ曲げるという読み方もあります。自分の心が慰められるところだけを読むという読み方もこれに近いものです。また、神はこうあるべきだと思っていることと聖書が言うことが同じである範囲で神を認めようという人もいます。しかし、これでは、イエス様がここで批判なさっているパリサイ主義の律法学者と同じではないでしょうか。自分の正しさを主張するとき、私たちは神様から遠くはなれたところにいるということを知らなければなりません。

しかし、そんな私たちですが、聖書の言葉が胸に突き刺さるという時があります。自分の罪を聖書によって示されるということがあるのです。しかし、そのとき、罪が示されるだけでなく、神様から「帰って来い」という招きを受けるのです。皆さんもそのようなことを経験したことはないでしょうか。

わたしは、昨日、ピリピ人への手紙を読みました。その中に、「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、イエス・キリストのことを求めてはいません。」(ピリピ2:21)という言葉がありました。これに触れたとき、この言葉が胸に突き刺さりました。そして、自分は言い訳をしながら生きているということを認めざるを得なかったのです。

去年の4月から、そして今年度に入ってさらに、わたしは大学という職場である責任を負わされるようになり、忙しくなっただけでなく、心理的な重圧を感じるようにもなりました。そのためにお送りできる聖書のメッセージの数も少なくなりました。また、心にかかる人に会ったり、連絡をする時間を取ることも以前より難しくもなりました。出来ることと出来ないことはあります。しかし、そのような事実があるということと、言い訳をするということは違います。

言い訳をしているとき、私たちは自分の正しさを主張しているのです。言い訳をしているとき、私たちは神様の前に出ることは出来ません。自分の正しさを主張し、且つ、神様の前に出るということはないのです。

しかし、聖書の言葉が胸に突き刺さるとき、それは、神様が私たちに「帰って来い」と招いてくださっている時でもあるのです。神様の赦しを受ける時であるのです。

わたしは、自分を求めず、イエス・キリストを求めるとはどのようなことか、もう一度ここに立ち帰らなければならないと気付かされました。皆さんにとって自分を求めずイエス・キリストを求めるとは一体どういうことでしょうか。わたしにとって、自分を求めずイエス・キリストを求めるとはどのようなことでしょうか。

神様は、信じる者の全生涯が回心であることを神様は願っておられるのだとルターは告白しました。信じる私たちが全ての日々、神様のところに立ち帰る、自分の正しさではなく、神様の御思いに生きる。イエス様は、今日もあなたを、そしてわたしを招いてくださっているのです。「帰ってこい」と。ここに永遠の安らぎといのちがあると。

マザーテレサは次のように祈りました。

主よ、私が空腹を覚えるとき
パンを分ける相手に出会わせてください。
のどが渇くとき
飲み物を分ける相手に出会えますように。
寒さを感じるとき
温めてあげる相手に出会わせてください。

不愉快になるとき
喜ばせる相手に出会えますように。
私の十字架が重く感じられるとき
だれかの十字架を
背負ってあげられますように。
乏しくなるとき
乏しい人に出会わせてください。

ひまがなくなるとき
時間を割いてあげる相手に出会えますように。
私が屈辱を味わうとき
だれかを褒めてあげられますように。
気が滅入るとき
だれかを力づけてあげられますように。

理解してもらいたいとき
理解してあげる相手に出会えますように。
かまってもらいたいとき
かまってあげる相手に出会わせてください。
私が自分のことしか頭にないとき
私の関心が他人にも向きますように。

空腹と貧困の中に生き
そして死んでいく世の兄弟姉妹に
奉仕するに値する者となれますように。
主よ、私をお助けください。

主よ、私たちの手をとおして
日ごとのパンを
今日彼らにお与えください。
私たちの思いやりをとおして
主よ、彼らに
平和と喜びをお与えください。

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