「ルカの福音書」 連続講解説教

内も外も清められて

ルカの福音書講解(61)第11章37節~44節
岩本遠億牧師
2012年12月9日

11:37 イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。そこでイエスは家にはいって、食卓に着かれた。
11:38 そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。 11:39 すると、主は言われた。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。 11:40 愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。 11:41 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。 11:42 だが、わざわいだ。パリサイ人。あなたがたは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりにしています。これこそ、実行しなければならない事がらです。ただし他のほうも、なおざりにしてはいけません。 11:43 わざわいだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。 11:44 わざわいだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」

クリスマスシーズンになりました。今日はアドベント、降誕節の2回目の礼拝を行っています。この季節は、年末助け合いの募金や救世軍の社会鍋など、経済的に困窮している人たちに自分の心と手を差し出そうという呼びかけが聞かれる季節でもあります。

つい最近知ったのですが、私の大学の事務室でアルバイトをしてくれている学生が東京神田の救世軍の将校、つまり牧師のお嬢さんでした。彼女もこのクリスマスの季節、街頭に立ち、社会鍋への募金の呼びかけをするということでした。本当に尊い働きだと感動すると共に、襟を正される思いでした。私たちは、イエス様に出会って魂の救いを得ても、もしそばで苦しんでいる人たちに対して心を閉じ、自分の手を差し出そうとしないのなら、私たちの信仰は虚しく、何の役にも立たないものです。信仰そのものが本物かどうか、疑わなければならないでしょう。

私たち、キリストの平和教会でも今年捧げられた献金をそのような働きのために捧げたいと考えています。しかし、それに当たって、私たちはどのような心でそれを捧げるのか、またこのクリスマスの季節、私たちのこの心、自分の持っている物を誰のために使うのか、本当に考えなければならないと思います。そのためにも、今日私たちに与えられている聖書の言葉は大切です。私たちの心をえぐるような言葉かも知れません。しかし、そこにクリスマスの意味を聞き取ることができる、そのような言葉であります。

今日の箇所は、イエス様がパリサイ派の律法学者の家にランチに招かれた時の出来事を記したものです。新約聖書の中にはパリサイ人と呼ばれる人々が出て来ます。イエス様に敵対した人々として、極悪非道の人間のように思われることもありますが、決してそうではありません。彼らは、宗教的特権階級に属していた訳ではありませんでした。自ら働きながら収入を得、聖書を勉強して人々に教える熱心な人々であったのです。伝道者パウロもパリサイ派の律法学者でしたし、イエス様ご自身もそうであったと考えられています。

現在であるなら、私のような人間がパリサイ人であるということになります。自分で働いて収入を得、自分で聖書を勉強して無報酬で教えているからです。ですから、イエス様のこの厳しいお言葉は、私自身に語られた言葉として聞く、そのことが私に求められているのであります。また、聖書を教える立場にある全ての者たちが、自分に向けて語られたものとして聞かなければならない言葉であります。では、それを聞く皆さんは他人事として聞いて良いかというと、そうでもありません。一人一人に語られた言葉として受け取る必要があると思います。

ここでイエス様は食事(ランチ)に呼ばれたとありますが、人を自分の家に招いて食事をするというのは、かなり親しい間柄であったことを意味します。つまり、この人はイエス様を陥れようと思って食事に招いたのではなく、親しい交わりを持ちたいと思って招いたのです。しかし、ここで彼はイエス様から非常に厳しいことを言われることになります。イエス様は、この人を攻撃しようと思われたのでしょうか。何のために、イエス様はこれほどまでのことを言われたのでしょうか。

ここで「わざわいだ」と訳されている言葉ですが、これは呪いの言葉ではありません。嘆きの言葉です。悲しみの言葉です。「災いが来ますぞ」という訳もあります。イエス様が嘆き、悲しまなければならない罪がこの人の中に隠れていたということです。イエス様は、この人がその罪から救われることを願い、真実を語られたのです。しかし、その思いは伝わらず、パリサイ人全体がイエス様を敵対視するようになって行きます。

そのきっかけは何だったのでしょうか。それは、イエス様が食事前に手を洗うという儀式を行われなかったということだと書かれています。これは、私たちが外出先から帰って来て、食事前に手を洗うというようなことではありません。宗教的な清めの儀式として手を洗うということが行われていました。掲げた両手に水差しに入れた水を注いでもらう。交互に2度、3度と注いでもらうという儀式です。ユダヤ人たちはこれをとても大切にし、これを行わない者たちは汚れた者と見なされていたということです。ですから、このパリサイ人は、イエス様が手を清める儀式を行われなかったことを驚き怪しんだのです。

ただ、ここで確認しておかなければなりませんが、食事の前に手を洗うという儀式は、聖書の律法の中では定められていないことです。元々は、外出先で何か汚れたものに触って汚れてしまったかもしれない。すると、同じ食事に手を伸ばす人たちに自分の汚れが移るかもしれない。だから、皆が手を洗い、皆が清められてから安心して食事の交わりをするというのがその趣旨であったようです。ですから、これは良識的に考えて、決して悪いことではないのです。他者への配慮がここにあります。

しかし、イエス様が敢えて、意図的に食事前の手洗いの儀式を行われなかったことには理由があったに違いありません。イエス様は多くの病人に手をおいて癒しておられました。中には汚れた病気だと言われる病気にかかっていた人たちもたくさんいたのです。もし、汚れた病に冒された人に触ったら自分も汚れるのであれば、イエス様は汚れで一杯だったはずです。しかし、イエス様は、汚れていると言われているものに触れても、汚れが人に移ることはないというはっきりした考えをお持ちでした。汚れが人から人へと移ることはないのだ。外から人を汚すことができるものはない。人を汚すものは、その内側にある汚れた思いである。イエス様は、このことをはっきりと述べておられます。

15:16 イエスは言われた。「あなたがたも、まだわからないのですか 15:17 口にはいる物はみな、腹にはいり、かわやに捨てられることを知らないのですか。 15:18 しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。 15:19 悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。 15:20 これらが、人を汚すものです。しかし、洗わない手で食べることは人を汚しません」(マタイ15:16〜19)。

そのことを行動で示すために、敢えて食事前の清めの儀式を行われなかったのです。そして、それに驚いているこのパリサイ人に言われます。

「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです。 11:40 愚かな人たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。 11:41 とにかく、うちのものを施しに用いなさい。そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなります。」

ここで「杯や大皿の外側」と言われているのは、外から見える人の行為のこと、「内側」というのは、人には見えない心の中の働きのことです。このパリサイ人は、決して人から非難されるような人ではなかった筈です。イエス様の言葉を聞き、その教えに共感し、交わりを求めて来たのです。人からは立派な人、人格者と呼ばれるような人であったかもしれません。また、困っている人たちのために施しをするということについても、やるべきことはやっていた、そういう人であったに違いありません。何か人のものを盗んだりするような人ではなかった。それなのに、何故、イエス様は「その内側は強奪と邪悪で一杯」と言われたのでしょうか。

このことについて、ある神学者は、この人は、神様から自分を盗んだのだと解説しています。「外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか」と言われています。「あなたは、自分の体は神様が造ったと信じているでしょう。しかし、体だけではありません。あなたのその心も神様がお造りになったのです。本来神様が創造なさり、神様のものであったその心、それを自分のものとし、自分を喜ばせることに自分の心を使っているのではないのか」というのです。

律法を守る、また、律法以外の律法学者たちが考えた言い伝えや規則を守る。それによって自分が神様に喜ばれていると思う。それが自分の喜びとなる。しかし、あなたのその心は神様から離れているではないか。神様のお心が分からなくなっているではないか。病気の人は汚れている、礼拝を捧げられない者たちは汚れていると思い込み、彼らに触れたら汚れると恐れて、これらの人たちと距離を置く。そして、食事の前に入念に汚れを清める儀式を行う。それは、神様のお心なのだろうか。

あなたは、貧しい人たちに施しをしているかもしれない。しかし、あなたの心は貧しい人たちから離れてしまっているのではないのか。あなたは、彼らを汚れた者とし、自分を清い者としているのではないのか。あなたの心が彼らと結びつき、彼らと本当に共に生き始めるなら、全てのことが清くなるのだ。あなたの内側を清めるお方は、あなたの外の行いをも清め、あなたが関わる全ての人を清い者としてくださる。あなたもそのような愛の中に生きよと。

パリサイ人たちの熱心さは、十分の一の捧げものにおいても徹底していたと言います。十分の一の捧げものとは、収穫や収入の十分の一を神様に捧げなさいという律法の定めです。パリサイ人たちは、律法に定められている以上に厳格にやっていた。「はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一」とありますが、「はっか」や「うん香」などのハーブは捧げるべきもののリストには入っていなかったとのことです。つまり、どんなに小さなものでも、神様から捧げるように求められていないものさえも、その十分の一を捧げていた。勿論、これは責められるべきことではありません。立派な行為です。

しかし、彼らはこれをすることによって、「公義と神への愛をなおざりにしている」と言われる。「公義」とは「審き」のこと、「神への愛」は英語で言えば、the love of Godで、「神に対する愛」とも「神の愛」とも理解される表現です。また、「なおざりにする」というのは、「通り過ぎる」「無視する」という意味です。「審きや神の愛、あるいは神への愛」という最も重要なこと、神様が最も関心を持っておられることについて、神様のお心を踏みにじっているということです。それは、そのようにしている自分を誇り、自分を義とし、それができない人たちを見下すことになるからです。

私は、先日来、ある方から次のような話しを聞き、心を痛めています。あるキリスト教会では、十分の一を捧げるとは、自分に与えられているもの全ての十分の一を捧げることであると教え、それができないと天国には行けないかもしれないと脅しているというのです。例えば、人間に与えられている時間は24時間、だから、その十分の一である2時間、正確には2時間24分は神様のものである。一日約2時間半祈ることが十分の一を神様に捧げるということだということらしいのです。そして、その論理がどこから来るのか私には理解できませんが、一般の信徒は1時間、聖職者は2時間以上祈らなければ、天国行きの切符は取り消されるかもしれないと。そして、そのように脅された人が、トラウマに苦しんでいるのです。本来、祈りは楽しいものです。神様との交わりの時は喜びの時です。しかし、それを義務とし、脅しの材料に使われた途端、祈りは苦痛となる。神様がこのようなことに対して激しく怒られるのは当然であります。

そもそも、天国行きの切符という発想自体、そのように言う人がイエス様の救いを本質的に理解も体験もしていないことを表しています。何故なら、イエス様の救いは、イエス様に出会った時に始まるからです。その時に、既に天国、神の国、神様の支配の中に生きる始めるということを私たちは体験的に知るようになるからです。さらに、本当に時間の十分の一祈らなければならないのなら、一般信者は1時間、聖職者は2時間以上という論理そのものが破綻しています。

すでにイエス様を信じ、救われているクリスチャンに向かってこのようなことを言って脅すことは、「審きと神の愛、神への愛」の本質を踏みにじることだということは、皆さんもすぐにお分かりになると思います。

神様は、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」とお命じになりました。安息日に、礼拝を捧げ、神様と交わり、ゆっくり休息を取り、命に満たされなさいと招いてくださっている。十分の一ではありません。本来は七分の一です。しかし、それは、頑張って安息日に一日中祈るということでもありません。神様の御声に耳を傾け、礼拝を捧げ、昼寝をしたりして休む。それで良いのです。(詳しくは、手島佑郎著『ユダヤ教入門―安息日をとおして知るその内面生活』エルサレム文庫をご参照ください。)

自分勝手な決まりを作り、審きの本質をねじ曲げ、神様の愛、人が神様に対して持っている愛を踏みにじる、それがパリサイ主義の本質です。イエス様をランチに招いたこのパリサイ人は、悪い人ではありませんでした。善人です。しかし、自分が決めた基準によって自分を義なる正しい者とし、それができない者を心のどこかで見下げるということはあったのではないでしょうか。

イエス様は心の奥に潜む高慢を見抜き、続けられます。「11:43わざわいだ。パリサイ人。あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。 11:44 わざわいだ。あなたがたは、人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」

人から「先生、先生」と呼ばれることが好きな人間、そこには高慢があるではないか。人を外から見て汚れていると言いながら、自分の内側は腐った死体のように汚れているではないか。あなたの内側の汚れが他の人を苦しめているではないか。他の人を神様から遠ざけているではないか。イエス様は、このように仰っているのであります。

先ほども申しましたように、このパリサイ人は決して悪い人ではありませんでした。一生懸命生きていた人です。神様に喜ばれようと頑張っていた人です。しかし、その頑張り、良い行いの中に自分を誇る気持ち、高慢があった。低められた人々、汚れているとされていた人々を自分の体のように愛する愛が欠けていたのです。しかも、自分にそれが欠けていることを自覚していなかった。だからイエス様は嘆かれる。厳しい言葉をお語りになるのです。気付いてほしいからです。この人も、本当の審きの意味、神様の愛、神様への愛を知り、真の神の愛に生きる者になってもらいたい。救われてもらいたいからです。

イエス様は、この人の心の中は、「強奪と邪悪で一杯ではないか」と言われました。そのことについて、自分自身を神様から盗んで、自分のものとしたという解釈をご紹介しました。私は、それを読んで胸が刺し通される思いがしています。そして、このパリサイ人とは自分自身のことだと感じました。今も感じています。自分を誇る思いがある。人を批判する思い、人を心の中で見下げようとする思いがあることを否定できません。

皆さんご存知のように、私は自分で仕事をして収入を得ています。牧師として、またメッセージをする者としての報酬は全く受けていません。この教会に礼拝に来てくださる方々に負担をかけなくても良いように、自分で働いて得たものによって伝道しています。しかし、それが自分の誇りとなる。今は休んでいますが、多くの人たちがメルマガを読んでくださる。また、それに感謝のメールなどを頂く。すると、良い気持ちになる。誇らしい気持ちになる。神様から自分を盗んで自分のものとしているというのは、そのようなことを言うのです。

何か悪いことをしている訳ではありません。良いことをしているのです。しかし、良いこと、神様のための働きをすることが自分を高慢にする。ここに人間の罪の根がある、人間の存在の根本的分裂があることを、私は認めざるを得ないのです。

パウロは告白しました。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

人間は、自分の行いによって救われることは決してありません。それが仮に良い行いであったとしても、それによって救われることはないのです。良い行いが私たちを高慢にするからです。イエス様は、そのような私たちを救うために来られました。私たちの実存の中にある本質的な分裂、それを赦し、それを癒すことができるのは、イエス様が十字架で流された血潮だけです。この分裂を一つにすることができるのはイエス様の血潮だけなのであります。

聖霊が私たちの心の中の高慢に気付かせてくださるとき、イエス様の十字架の御許に行って「イエス様、ごめんなさい」と言える人は幸いです。私たちは赦され、また新たな道を歩み始めることができます。毎日、何度も高慢に陥るのが私たちです。しかし、私たちには帰るべきイエス様の十字架がある。何度でも新しく始めることを許してくださるイエス様がいるのです。

どうぞ、私たちは、「私はやるべきことはやっている」とか「私も頑張っている」などと思うことがありませんように。帰るべきイエス様の十字架を見失いませんように。いつもイエス様の前にひれ伏すことができますように。

清い心を与えられ、弱っている方々、痛み、苦しみの中にある方々を自分の体のように愛する愛を与えられますように。このクリスマスの時、イエス様のお心に自分の心を合わせることができますように。全てが清くなると言われたイエス様の愛の力を体験しつつ、この世の歩みを全うすることができますように。

祈りましょう。

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