「ルカの福音書」 連続講解説教

初めの愛に戻ろう

ルカの福音書講解(66) 第12章35節〜48節
岩本遠億牧師
2013年1月27日

12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。12:39 このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。12:40 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」

12:41 そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」12:42 主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。12:43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。12:44 わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。12:45 ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、12:46 しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。12:47 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。12:48 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

+++

今読んだところで、主人が帰って来るというのは、イエス様がもう一度この地にやって来られるという意味であります。ここでは婚礼から帰って来る主人という譬えをお話しですが、今の日本での結婚式と披露宴のように2時間あるいは3時間ということではなく、延々と続き、数日間にも及ぶことがあった。帰りもいつになるか分からない。夜中かもしれない。イエス様は、いつかもう一度この地に来られるとおっしゃいましたが、それがいつかは私たちには知らされていない。しかし、いつイエス様が来られても良いように備えをしていなさいということをお語りになっています。そして、イエス様と出会うということは、私たちが肉体の死を迎えるということでもあり、この命がいつこの地上から取り去れても良いように準備をしなさいということでもある。このように伝統的には解釈されています。

今主イエス様が来られても良いように、また今死んでも良いように何時も準備していなさいと言われる。どのような準備をすれば良いのでしょうか。また、どうすれば準備していることになるのでしょうか。皆さんはどのように思われますか。

わたしは自分が突然死んだときには、誰に連絡すべきか、メルマガやインターネット関係の人にはどのように知らせるかということについては手順を書いて、ダイニングルームのキャビネットの中に入れてあります。しかし、それだけでは十分ではありません。数ヶ月前に家内が「エンディングノート」というのを二人分買いました。まだ記入していませんが、早く記入しておくべきだろうと思います。

しかし、自分が死んだ時、誰に連絡するのか、自分が整理しきれず残したものをどうしてもらいたいのか、あるいは、この教会に集っている皆さんにどうしてもらうのが良いのか、私がいろいろ考えエンディングノートを書き残したところで、それが主イエス様にお会いする準備となるのであろうか。

イエス様はここで何と言っておられるか、それに私たちの心を向けることが大切だと思います。まず、「12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい」とおっしゃっています。「腰に帯を締め」というのは、すぐに動ける格好でいるということです。当時の服装は、長い布を体にかけていました。急いで歩いたり、他の人の給仕をしたりするためには、裾が邪魔になりますから、裾をからげて帯で結んでいたのです。腰に帯を締めるとは、いつでも主人に仕えることができる格好でいなさいということです。

そして、「あかりをともしていなさい」と言われます。眠る時にはランプの火を消していました。つまり、眠らずに待っていなさいということです。勿論、これはイエス様が戻って来られるまで毎日徹夜で祈るということを意味している訳ではありません。

聖書の中で、火は神様の臨在を象徴するものです。イエス様が私たちに与えてくださった信仰の火を点し続ける。今、体は離れているけれども、聖霊として私たちの中に住んで下さっているイエス様を礼拝し、イエス様のお心を自分の心とし、イエス様によって生かされ、支えられる生活をするということです。しかも、真っ暗な夜をランプの光が照らすように、イエス様の光をこの世に輝かせ続けよとおっしゃる。それはどのようなことでしょうか。

イエス様が求めておられることは、42節からの言葉で明らかです。「12:42 主は言われた。『では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。』12:43 主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。12:44 わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」

イエス様は、私たち一人一人に私たちの助け、私たちの世話を必要とする人を預けて下さっている、任せて下さっているというのです。彼らの必要とするものを与え、彼らを思慮深く守り、導くことを求めていらっしゃる。腰に帯を締め、一人一人に仕える者となれ。一人一人を愛せよ。わたしがあなたがたを愛したように、彼らを愛せよ。私があなたがたの足を洗ったように、互いに仕え合い、互いに愛し合いなさいとおっしゃっているのです。そして、自分に預けられた人たちを大切にした管理人は主人から大いに喜ばれ、全財産の管理を任せられるようになるとまでおっしゃっています。

これと同様の譬え話が、イエス様がなさった「タラントの譬え」です。主人が僕たちに非常に高価な宝ものであるタラントを預け、長い旅に出た。5タラント預かった僕は、それによって更に5タラントをもうけ、2タラントを預かった人も同様であった。しかし、1タラントを預かった僕はそれを土の中に埋めてしまった。主人が帰ってきた時、5タラントと2タラントの人は褒められますが、1タラントの人は罰せられたと言います。そして、その人が土の中に埋めていた1タラントを5タラントの人に与えよと言われる。

一般に教会ではこのタラントとは能力、才能と意味すると言われますが、私はその解釈は完全に間違っていると思います。イエス様が私たち僕にお預けになる宝ものはイエス様が大切にしておられる人間以外にはあり得ません。人以上に価値あるものはありません。私たち一人一人に最高に大切なものとして人を託して下さっている。多くの人を預けられている人もいます。一人のために自分の生涯を使うようにと一人を預けられる人もいます。そこに差別はありません。人を大切にすることによって、愛が愛を呼び、人が集められて行く。愛の共同体が作られて行く。イエス様はもう一度この地に帰って来られますが、その時、あなたがたが互いに愛し合い、互いに仕え合い、互いに生かし合っているその姿を見せてほしいとおっしゃっているのです。

預けられた人を踏みにじり、光の見えない土の中に埋めてしまうようなことをイエス様はお許しにならない。そのようにおっしゃっているのであります。特に宗教家というのは、高慢になりやすい。自分に預けられている人たちを自分の持ち物のように扱うことが聖書の時代にもあったし、現在もあることは心に覚えておかなければなりません。

「12:45 ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、12:46 しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。12:47 主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。12:48 しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」

教会指導者は、信徒の上に君臨したり、支配したり、搾取したりすることは許されていないのです。教会指導者は、信徒に仕えるために召されているのです。先ほどエゼキエル書34章をご一緒に読みました。牧者たち、民の宗教的指導者たちが民を食い物にし、自分だけ肥え太っている。主なる神様は牧者たちを罰し、羊たちをご自身が養う、これを守る、散らされた者たちを集め、これを救うとおっしゃっています。

私は、思います。今日主の許に帰り、主の前に出なければならない状況になったら、どうしたら良いのだろうかと。私はどの僕だろうか。私はお一人お一人に仕えてきただろうか。礼拝に長く来られなくなっている方々に対して、私はどれだけのことをしてきただろうか。土の中に埋めるようなことはしなかったと言えるだろうか。私は、イエス様の宝ものであるお一人お一人を大切にし、お一人お一人が愛に生き、互いを生かし合う愛の交わりを築き上げることにどれだけ心を配ってきただろうか、力を注いできただろうか。私は、どれ一つをとっても主の御前に顔を上げることはできません。ただ主の御前にひれ伏します。

しかし、イエス様は私たちが自分の過ちや不十分さに気が付いたら、すぐに方向転換して、初めの愛、初めの行いに戻れば良いとお語りになっています。

黙示録2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。2:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

イエス様の御霊は、ヨハネをとおしてエペソ教会にお語りになります。あなたがたには良いところがたくさんある。しかし、「非難すべきところがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい」と。

初めの愛に戻れ。イエス様の愛に触れ、この愛で愛して行こうと願い祈った、あの愛の業に戻れ。イエス様は、それを願っていらっしゃるのです。そして、初めの愛、初めの愛の業に戻ることを、「勝利を得る」ことだとおっしゃっている。イエス様の愛に触れられた者、イエス様の愛に生きるようになった者を、「勝利を得る者」とおっしゃって下さっているのです。自分で何か戦って勝ち得たものではありません。ただ、触れて頂いた。ただ、愛を頂いただけだったのです。

イエス様は、この勝利を得る者にどうしてくださると言っていますか。「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせる」とおっしゃっているのです。今日のルカの福音書の箇所で「12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます」と言われています。

イエス様のほうが帯を締めて僕の姿となり、私たちを食卓に着かせ、いのちの木の実を持ってきて食べさせて下さるというのです。

皆さん、初めの愛に戻りましょう。初めの愛の業に戻りましょう。私たちは全員、イエス様に出会い、新しい心を与えられた時、「イエス様、わたしをあなたの御用のために用いて下さい」と祈ったと思います。イエス様に出会う、イエス様の救いを得るとはそのようなことです。イエス様のお心を与えられたのです。もし、何時の間にかその純真な心を失ってしまったのなら、私たちはイエス様にもう一度出会う必要があります。イエス様も私たちに出会おうとして下さっています。

イエス様は「腰に帯を締め、灯りを点していなさい。眠らずに待っていなさい」と言われましたがが、私はこの言葉を聞いて、思い出さずにはいられないことがあります。それは、イエス様が十字架にかけられる前夜、イエス様と一緒にゲッセマネの園に祈りに行った弟子たちのことです。イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネを連れて、園の奥のほうまで行き、言われました。「目を覚まして、誘惑に陥らないように祈っていなさい」と。しかし、彼らは激しい睡魔に襲われ、起きていることができず、眠ってしまうのです。すぐ先のほうでイエス様が血の汗をしたたらせるほど激しく祈っておられるのに、彼らは目を覚ましていることができなかった。彼らは肉の弱さのゆえに、誘惑に陥り、ついにイエス様を否定してしまうのです。

眠るとは、イエス様に対する信仰を失うことであったのです。しかし、イエス様は復活なさって、彼らにもう一度出会い、眠っていた彼らの信仰、死んでしまっていた彼らの信仰を甦らせ、聖霊を注いで決して消えることのない火を彼らの中に与えられたのです。

イエス様は言われました。「初めの愛に帰れ。初めの愛の業に戻れ」と。しかし、それは、私たちが努力して、頑張って戻れることではないのです。ペテロたちが失ってしまったイエス様に対する愛を自分でもう一度取り戻すことができなかったように、私たちも自分の力、自分の思いでは、イエス様の愛を取り戻すことはできない。イエス様はそのような私たちの状態を良く知っておられ、イエス様の御霊ご自身が私たちのところにもう一度やって来て下さるのです。私たちをその愛で満たし、もう一度、主に対する愛を私たちの内に甦らせて下さるのです。決して消えない火を私たちの内に燃え上がらせて下さる。来週読む箇所で、イエス様は言われました。「私は、火をこの地上に投げ入れるために来たのだ」と。一度燃え上がったら消えない愛の火、聖霊の火を投げ込むためにやって来られた。この火は、私たちの中にある「自分」という思いを焼き尽す火です。主が、私たちを愛して下さったように、私たちをも互いに愛する者とするそのような火です。

この愛の火、聖霊の火が与えられたら、恐れることはありません。何時このいのちが取られ、イエス様のところに帰ることになっても、大丈夫です。イエス様が何時来られても大丈夫です。イエス様ご自身が私たちにいのちの木の実を食べさせて下さるのです。希望をもって初めの愛に戻りましょう。

関連記事