「マタイの福音書」連続講解説教

命を与える祈り

マタイの福音書21章18節から22節
岩本遠億牧師
2008年6月8日

21:18 翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。 21:19 道ばた
にいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もな
いのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もうい
つまでも、ならないように。」と言われた。すると、たちまちいちじく
の木は枯れた。 21:20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どう
して、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」 21:21 イエス
は答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなた
がたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたよ
うなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、
海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。 21:22 あなたがた
が信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

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この中には、今日初めてキリスト教会の礼拝に来られた方もおられると
思います。あるいは、聖書の言葉を初めて読んだという方もおられるこ
とでしょう。そのような方々は、今日の聖書の箇所を読んで、ショック
を受けられたかもしれないと思います。「キリストは愛のある方だと聞
いて今日教会に来て見たのに、自分の空腹が満たされない腹立たしさの
ために、生きていた無花果の木を枯らせるなんて、愛があるどころか、
我儘な人だ。怖い人だ」と感じた人もいるのではないかと思うのです。

しかし、聖書は、私たちがそのように感じるために、この記事を記録し
たのではないと思います。聖書が伝えようとするイエス様の御思い、イ
エス様の愛とは何でしょうか。そのことを、今日皆さんとご一緒に学び
たいと思います。

イエス様は、イスラエルの北部ガリラヤ地方で伝道の働きを始められ、
今十字架にかけて殺され、全人類の罪の贖いを成し遂げるため、ここエ
ルサレムにやって来られました。時期は、丁度全世界からユダヤ人たち
がエルサレムに集る過ぎ越しの祭りと言われる、ユダヤ人たちにとって
は最も重要な祭りの時でした。200万人とも言われる人々がエルサレ
ムに集っていましたが、イエス様は、それに時を合わせてやってこられ
たのです。

ガリラヤでの伝道で、そして、さらに北のレバノンやシリアの地方まで
足を伸ばし、神様の愛を現し、病気の人を癒し、人生に絶望した人々に
希望と力を、暗闇に住む人々に光を照らしたのがイエス様でした。大群
衆に囲まれ、この方こそ神の民イスラエルの王となる方だと言われなが
ら、エルサレムに向かっていかれました。

イエス様がエルサレムに入城なさった時、群衆は王を誉め讃える言葉、
「ホサナ」という言葉を叫んでイエス様を迎えました。しかし、イエス
様は、エルサレムに入るや否や、すぐに神殿に入られ、そこで、神殿礼
拝主義に対する宣戦布告とも言うべき激しい戦いを行われるのです。神
殿の中の異邦人の庭には、生贄として捧げられる牛や羊、山羊、鳩など
を売り買いする人々が溢れていました。生贄を買って捧げれば、それで
罪が赦されるという風潮があった。それで暴利を得ている特権階級がい
ました。

確かに、動物の生贄を捧げることが神様に対する礼拝行為であり、また
羊、牛、山羊の命によって、犯した罪が赦されるということは神様がお
決めになった律法の定めることでしたが、それは、自分が大切に育てた、
最も良いものを捧げること、あたかも自分自身を捧げるような献げ物を
することが前提だったのです。

今、礼拝が商売の場となり、自分自身を捧げることではなく、金を払っ
て献げ物を買えば礼拝したことになる、というような風潮が神の都エル
サレムの神殿に満ちていました。そして、このようにして商売をする者
たちのために、遠く外国から礼拝に来ていた異邦人たちが礼拝から排除
され、そして、体に障害がある人たちが礼拝から排除されたままになっ
ていたのです。

イエス様は、このような礼拝の現状に対して烈火のごとく怒られ、牛や
羊、山羊それらを売るものたちを追い出し、机や腰掛を覆す「宮清め」
という荒業を行われました。イエス様は言われるのです。「お前たちの
心はどこを向いているのか。お前たちにとって金儲けが礼拝なのか。金
で買ったものを捧げたら、それで礼拝をしたことになるのか。また、そ
のために神様が愛しておられる弱い者たち、遠くから来た者たちをお前
たちは無視し、排除して何とも思わないのか」と。

イエス様がこの神殿礼拝主義と戦い、宮清めを行われたため、神殿は大
混乱に陥りました。これで利益を得ていた者たちは、イエス様を殺すた
めの計画を立てるようになります。イエス様は、この宮清めの後、エル
サレムを後にして、近くのベタニヤという村で一夜を過ごされます。今
日の箇所は、その続きです。

「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた」とあります。先週、
私たちは、エルサレムの中にはイエス様を迎える場所がなかったと学び
ました。イエス様は、神の御子として、礼拝の地、エルサレムに帰って
きたのに、神殿の中にも、エルサレムの中にもイエス様をお泊めする場
所がなかったのです。ベタニヤでハンセン病だったシモンの家に泊まり、
そして、また翌朝エルサレムに帰っていかれるのです。自分を受け入れ
ない場所、自分を拒絶するエルサレム、そこを自分の場所として帰って
いかれるイエス様のお心はどのようなものだったでしょうか。

ここに「空腹を覚えられた」とありますが、英語の訳の中には、「飢え
た」と訳してあるものもあります。ただ単に「お腹が空いたなあ」とい
うことではなかった。しかし、私は不思議に思います。当時のユダヤの
世界では、食事は朝夕2回で、イエス様が泊まっておられたシモンの家
では、当然、朝食を出したはずです。つまり、イエス様は、出された朝
食をお食べにならなかったのです。エルサレムでの戦いのために、断食
をしておられたのです。

ですから、無花果の木に実がなかったので、それを呪われたと言っても、
空腹が満たされない苛立ちのため、木を枯らせたということではないと
いうことが分かります。聖書学者たちは、共通して次のように理解して
います。葉は茂っているけれども実を結ばせることのない無花果は、盛
大に礼拝が行われているようには見えても、心からの礼拝が行われず、
神様を心の中で蔑み、人に対する愛が失われているエルサレム神殿を表
していると。エルサレムの神殿がこの世から取り去られることを象徴的
に表しているのです。そして、そのとおりに、紀元70年エルサレムは
ローマによって占領され、神殿は破壊されて今日に至っています。

しかし、それを見て驚いた弟子たちの質問の言葉に対するイエス様のお
答えは、不思議なものです。

21:20 弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐ
にいちじくの木が枯れたのでしょうか。」 21:21 イエスは答えて言われ
た。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を
持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができ
るだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』
と言っても、そのとおりになります。 21:22 あなたがたが信じて祈り求
めるものなら、何でも与えられます。」

イエス様は、「この無花果は、エルサレムの神殿を表しているのだ。ど
んなに盛大に礼拝が行われていても、そこには真実の礼拝は行われてい
ない。この無花果が枯れたように、エルサレムの神殿は破壊されるのだ」
とはお教えにはならなかった。

むしろ、イエス様は、信仰と祈りについてお教えになるのです。「あな
たがたが信仰をもって疑うことがなければ、いちじくの木になされたよ
うなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、
海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。 21:22 あなたがた
が信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」

「無花果の木になされたことができる」「山に向かって『動いて、海に
入れ』と言うとは何でしょうか。これは、生と死にかかわる権威が与え
られるということです。生と死とは、決して交わることのない、絶対的
な区別です。山と海は交わることがありませんが、そのように絶対的な
違いが生と死との関係です。生きている者が死に、死んでいる者が生き
るようになる。

神様を信じる、信仰を持つということは、このような絶対的な命の世界
に生かされることなのだというのです。私たちは、自分の生きている世
界は相対的な価値観が支配する世界だと思って生きています。あの人は、
この人よりも力がある。あの人は、私より経済的な力を持っている。私
は、力がない。いや、私はあの人よりもましだ。このようにある時は劣
等感に、またある時は優越感に浸りながら生きているのが罪ある人間の
姿なのではないでしょうか。

しかし、そのような時、私たちは、生と死を与えることができる絶対的
な権威を持った方を忘れているのではないでしょうか。本来的な意味で
私たちを握っているのは、時と共に過ぎ去る相対的な力ではなく、私た
ちを永遠に握って離すことのない、私たちを決して見捨てることのない
絶対的な神様の御手です。

イエス様は、言っておられるのです。君たちが信仰を持つ、私を信じる
ようになるとは、このような絶対的な世界、永遠の命という生と死を分
かつ世界に生かされることなのだ。そして、そこに生かされるものは、
死に行く者たち、滅んで行こうとする者たちに命を伝える働きをするよ
うになるのだというのです。また、どんなに表面的には繁栄しているよ
うに見えても、命がない者に悔い改めを迫る働きであります。

山が海の中に移るとは、実を結ぶことのなかった無花果に実を結ばせる
働きです。

「21:22 あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
とは、自分の欲望を満たすための祈りではありません。何を信じるのか。
神様を信じるのです。滅んでいこうとしている者たち、希望のない者た
ち、自分にがっかりしている者たちに命を与えることができる方を信じ
るのです。相対的な世界から、私たちを絶対的な世界に生かすことが出
来る方を信じるのです。そして、「あの人を、あなたの絶対的な救いの
中に入れてください。あの人をあなたの永遠の御手で握ってください。
体が死んでも死なない永遠の命をその霊に与えてください」と祈るので
す。また、私たち自身がこの命に生かされることを祈るのです。その祈
りは必ず聞かれます。

イエス様は、信じて祈られたのです。この神殿礼拝主義が打ち砕かれる
ことを。真の礼拝がこの地に確立することを。神殿礼拝主義が打ち砕か
れ、真の礼拝が確立し、一人ひとりの心が神様と直接繋がるようにと、
イエス様は祈られました。そして、そのことの実現の預言として、無花
果の木は枯れたのです。

イエス様は、この神殿礼拝主義を打ち砕くために、信じて祈り、そして、
そのために自ら十字架にかけられて殺される道を選ばれました。罪のな
い神の子イエス様の血が十字架に流され、殺されることによって、牛や
羊、山羊などの血では決して完全には赦されることも、贖われることも
なかった全人類の罪が赦され、贖われたのです。

イエス様は、「この山よ、この人の罪よ、動いて海に移れ。動いて、な
くなれ」と祈られたのです。そのためにご自分の存在の全てを捨てられ
ました。

この方が、私たち一人一人のために祈ってくださっている。「この山よ、
動いて海に移れ。」「死の支配よ、消えてなくなれ。永遠の命よ、ここ
に現れよ。」「人生の絶望よ、消えてなくなれ。」「希望に満たされよ。
祝福よ、満ちよ。」「悲しみよ。消え去れ。喜びよ、この中に満ちよ。」
「恐れよ。消えてなくなれ。平和よ、満ちよ。」「この心の痛みよ、消
えてなくなれ。」「この縛られている心よ、解放されよ。」イエス様は
信じて私たちのために祈ってくださっている。

私たちも祈りましょう。

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