「マタイの福音書」連続講解説教

地獄の底に響く声

マタイの福音書26章14節から25節
岩本遠億牧師
2008年10月12日

26:14 そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、 26:15 こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。 26:16 そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。 26:17 さて、種なしパンの祝いの第一日に、弟子たちがイエスのところに来て言った。「過越の食事をなさるのに、私たちはどこで用意をしましょうか。」 26:18 イエスは言われた。「都にはいって、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子たちといっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる。』と言いなさい。」 26:19 そこで、弟子たちはイエスに言いつけられたとおりにして、過越の食事の用意をした。 26:20 さて、夕方になって、イエスは十二弟子といっしょに食卓に着かれた。 26:21 みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」 26:22 すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言った。 26:23 イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。 26:24 確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」 26:25 すると、イエスを裏切ろうとしていたユダが答えて言った。「先生。まさか私のことではないでしょう。」イエスは彼に、「いや、そうだ。」と言われた。

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イエス様の受難について学んでいく時、どうしても避けて通ることができないのが、弟子のユダの裏切りです。また、ユダの裏切りに続いて、ペテロをはじめとする弟子たちがイエス様を否認する。そして、イエス様は、愛する者たちに裏切られ、否定され、ただ一人十字架に向かっていかれるのですが、ここで聖書が私たちにつきつけるのは、私たち一人一人はどうかという問いであります。しかし、それをはるかに超えて私たちに注がれるイエス様の愛の御業、聖書は、この恵みを私たちに語りかけている。それを、今日共に聞きたいと思います。

先週、私たちはイエス様の油注ぎの記事について学びました。ある女性がイエス様にイスラエル王任職の油注ぎを行いました。非常に高価な一人の人の1年分の年収に相当するような高価な香油の壺を割って、イエス様の頭に注ぎかけました。弟子たちは、その意味が分からず、またイエス様も、その意味をあえて隠し、人から崇められたり、奉られたりすることを拒否し、ただ、十字架に向かっていかれたのです。しかし、このイエス様の油注ぎに強い嫌悪感を覚えた人がいました。それがイスカリオテのユダです。彼は、この出来事のすぐあとに、祭司長たちのところに行って、イエス様を売る提案をします。

しかし、彼が受け取ったのは銀貨30枚。律法の時代に奴隷一人の値段とされていたものです。イエス様の時代には、物価は10倍ほどになっていましたので、一人の人を売り渡すにはあまりにも少額の取引だったのです。ある意味、ユダはお金のためにイエス様を売ったのではなく、裏切ること自体が目的となっていたのです。それがイエス様に対する嫌悪感だったのではないかと思います。

ユダは、祭司長たちとこのような約束をしてから、何食わぬ顔をして、グループに戻ります。そして、最も親しい関係の証とされる食事の席、しかも最後の晩餐の席にともにつくのです。通常、過ぎ越しの食事というのは、過ぎ越しである金曜日の夜に持たれるのですが、この時、イエス様は一日前、木曜日に過ぎ越しの食事を弟子たちと共にされました。そのために特別のアレンジをしておられます。

そして、その中で弟子たちの一人がご自分を裏切るとおっしゃるのです。どのような思いだったのでしょうか。するとどうでしょう。弟子たちが一人一人、「まさか私ではないでしょう」と言ったというのです。みんな、自分に自信がないのです。このようなイエス様に対する祭司長、律法学者たちとの強い敵意、憎しみの中で孤立していくイエス様の仲間であるということは、弟子たちにとっても不安なことだったのです。誰かがご自分を裏切ると言われたとき、それは自分かも知れないと思った。弟子たちも、私たちと同じ人間だったのです。

私たちは、このユダの物語を聞くと、心が疼きます。神様、感謝します、あなたを誉め讃えますという気持ちにはなかなかなれない。何故なら、私ならどうしただろうかと思うからです。実行するかしないかは別として、人を陥れようとする、そのような邪悪な思いが自分の心の中にもあるかもしれないと恐れるからです。そのような思いは、私たちだけでなく、弟子たちも共有していたということです。

10年ぐらい前になるでしょうか。大学で聖書研究会をしていた時のこと、マルコの福音書で同じ内容の箇所を読んでいました。すると、あるクリスチャンの学生が、「私は、イエス様を裏切るかもしれない」と言いました。その場は悲しい雰囲気に包まれてしまいました。

イエス様は、そのような弟子たちと最後の晩餐、過ぎ越しの食事を共になさった。ルカの福音書によると、「22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。」と言われ、こんなに弱く、崩れ去ろうとする弟子たちとの最後の晩餐を本当に楽しみにしておられたのです。また、この弱い者たちに、パンと葡萄酒の祝福を与え、イエス様による新しい契約をお与えになった。そのことについては来週学びます。

私たちも、弱く、いつイエス様を否定するかもしれないと思う心におののくことがあるかもしれない。しかし、イエス様はそのような者と共に食べ、共に飲み、新しい関係を与えることをどんなに願っていたことかと仰っておられるのです。私たちをも招いて下さっているのです。

しかし、そのお心はユダには届きませんでした。ユダはすでにイエス様を売る約束をし、心に堅く決心していました。サタンが彼の心に入ったのです。そして、臆面もなく、他の弟子たちと同じように、「まさか、私ではないでしょう」と言って、イエス様と仲間を欺くのです。イエス様は言われました。「あなたが、そう言っているのです」と。

結局、ユダはイエス様を売り、その後、後悔して、金を返し、自殺してしまいます。私は、良く聞かれます。ユダは絶対に救われないのですか。ユダはどうなったのですか。ユダには救われる道はなかったのですかと。

ユダがどのようになったかということについては、聖書は詳しくは語りません。ただ、ペテロは、「使徒の働き」の中で、「ユダは、自分のところに脱落していった」と述べ、彼が地獄に落ちたと明言しています。

しかし、ペテロは、やはり、このユダのことについては思いを巡らさずにはいられなかったのではないかと思います。3年間ともに歩いた仲間です。共にイエス様に愛された仲間です。イエス様のユダに対する思いと愛をペテロは知っていたのです。ユダは地獄に落ちた、ピリオドというわけにはいかなかったのがペテロだったのではないかと思います。むしろ、イエス様は地獄に落ちたユダをどうなさるのか、どうなさったのか、そのことを思わずにはいられなかったのではないでしょうか。何故なら、自分もただ逃げただけではない、自分の存在の全てでイエス様を否定したからです。徹底的に、存在の全てをかけてイエス様を否定した。そんな自分のところにイエス様はやって来られた。やはり、ペテロは、地獄に落ちたユダのところにもイエス様は行かれたのだと信じぜずにはいられなかったのです。

そのことを示唆する箇所が、ペテロの手紙第一にあります。

3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。 3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。 3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

・・・

4:5 彼らは、生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません。 4:6 というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。

19節に「3:19 その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。 3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。」とありますが、これは神様に反逆し、地獄の底に落ちた人々を指します。そして、一般的な理解によると、ユダもこの中に含まれます。

イエス様は、十字架に殺され、黄泉に下りとありますが、地獄の一番底まで下られたという意味です。神様に反逆して地獄に落ちたユダよりもさらに低いところに下り、そこで御言葉を語られた。福音の言葉を語られたのです。

地獄の底に響き渡るイエス様の声を、ユダは聞いた。ペテロは、それを信じました。ユダの霊がそれを聞いてどうしたかは、聖書には書かれていません。しかし、重要なことは、イエス様がどうなさったか、何をなさったかなのです。ペテロ自身も、自分がどうしたかということではなく、イエス様が自分に何をしてくださったかということが何よりも重要だということを知っていました。

私たちは、地獄に落ちたらそれで終わりだと思います。しかし、聖書は、地獄に落ちたものに福音を語られる方がいるのだと言うのです。地獄の底に響き渡るイエス様の声がある。彼らのためにもイエス様は死なれたのです。そして、彼らのために地獄の底に行かれたイエス様は、彼らをそこにおいて、ご自分だけ復活なさるでしょうか。

エペソ人への手紙にこのように語れています。「そこで、こう言われています。『高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。』」ここで「捕虜」というのは、地獄の底に繋がれていた者たちのことです。彼らを解放して天に引き連れていかれたということです。

私たちは、この方を信頼しているのです。

祈りましょう。

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