「ヨハネの福音書」 連続講解説教

声は消え行くとも

ヨハネの福音書1章19節から28節
岩本遠億牧師
2009年1月25日

1:19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか。」と尋ねさせた。1:20 彼は告白して否まず、「私はキリストではありません。」と言明した。1:21 また、彼らは聞いた。「では、いったい何ですか。あなたはエリヤですか。」彼は言った。「そうではありません。」「あなたはあの預言者ですか。」彼は答えた。「違います。」1:22 そこで、彼らは言った。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人々に返事をしたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」1:23 彼は言った。「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」1:24 彼らは、パリサイ人の中から遣わされたのであった。

1:25 彼らはまた尋ねて言った。「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」1:26 ヨハネは答えて言った。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。1:27 その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」1:28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。

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ヨハネの福音書は、万物の根源であり、全てのものの創造者、また世の光、命の光であるイエス様についてのイントロダクションを1章1節から18節までで述べた後、洗礼者ヨハネの証言を取り上げています。

何の証言かというと、それは「簡易宗教裁判」と言っても良いような状況での証言です。エルサレムの神殿礼拝の中心にいた、神殿礼拝による既得権益を持った宗教的特権階級だった祭司とレビ人と、彼らとは言うならば犬猿の仲にあった宗教的知識階級であったパリサイ人が共同で洗礼者ヨハネのところに人を遣わした。両者にとって都合の悪い状況がヨハネの出現によって起こっていたからです。

ヨハネは、ヨルダン川で「罪の赦しが与えられる悔い改めのバプテスマ」を授けていました。神様の前に罪を告白して、悔い改め、神様に立ち帰り、ヨルダン川の水に体を沈めることによって罪が清められるという教えです。罪の告白と悔い改め、水の洗礼による罪の赦しという宗教運動は、体験的な力を持っていたのだと思います。イスラエル中の多くの人々がヨハネから洗礼を受けるために集まってきていました。また、ヨハネの死後もヨハネの洗礼は弟子たちによって地中海世界に広められたことが知られています。それほど力のあるものだったのです。

しかし、このヨハネの洗礼は、当時のユダヤ教の慣習と常識からは逸脱したものでした。ユダヤ教においては、異教徒がユダヤ教に改宗する時に洗礼を受け、神の民に加えられることになっていました。すでに神の民であるユダヤ人が洗礼を受けるということは、ユダヤ神学的にはあり得ないことだったのです。また、罪の赦しは、神殿においていけにえを捧げることによって与えられるというのが律法の教えでした。罪の告白と洗礼によって罪が赦されるという教えは、モーセの律法を否定するものとして、パリサイ人にも、また神殿への捧げものがなくなってしまう事態を起こしかねず、祭司、レビ人にも受け入れがたいものがありました。また、それは生まれながらのユダヤ人であるという宗教的特権を否定するものであり、とても見過ごしにすることができない問題だったのです。

一方で、ヨハネのもとに集まっていた多くの人々の間では、「この人こそイスラエルを救うメシヤ、キリストではないか。あるいは、この人こそ再来のエリヤではないか。あるいは、神様が約束なさったモーセのような預言者ではないか」という噂が溢れていたに違いありません。

ですから、彼らはヨハネを尋問するのです。「あなたは一体何者か」「なぜこのようなバプテスマを授けているのか」と。これは、単なる質問ではないのです。権力者による尋問であり、止めさせようとする宗教的圧迫であったのです。

それに対するヨハネの証言は何であったか。それは、「私はキリストではない」というものでした。また、「キリストが来られる前に現れると言われるエリヤでも、神様が約束なさったモーセのような預言者でもない」と証言しました。

ここで、「あれっ」と思われる方もおられると思います。イエス様ご自身が洗礼者ヨハネを「来たるべきエリヤであった」と語っておられるからです。確かに、ヨハネは悔い改めのバプテスマによってイエス様の凝られる道備えをした、エリヤの働きをおこなった人でした。イエス様が「バプテスマのヨハネこそ、エリヤだったのだ」と言われる時、それはエリヤの働きをする者、エリヤの霊的働きを受け継ぐ者という意味であるのに対し、遣わされた祭司、レビ人たちは、まさに再来のエリヤその人を意味していた。それに対してヨハネは「違う」と答えたのです。

洗礼者ヨハネは、自分のことを何と言ったか。「私は、『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫ぶ者の声だ」と言いました。「声」とは何か。それは、消え行くものです。

ヨハネの福音書は、イエス様を「ことば」であると言いました。声は、ことばを運ぶものです。ことばは人に届くと、その人のうちに留まりますが、声は消えてなくなります。ヨハネは言っているのです。「私は消えてなくなる存在だ。しかし、私が声としてあなたがたに伝える方、ことばであるキリストこそ、初めから存在し、永遠に存在し、あなた方のうちに留まる方だ。私は、ことばであるこの方を届ける声なのだ。届いたとき、私は消えうせるのだ。」

ヨハネは言いました。「わたしは、この方の履物の紐を解く値打もない」と。履物の紐を解く仕事は、僕、奴隷の仕事でした。ヨハネがその値打もない、この方の奴隷にもなれないというとき、彼が自分とイエス様との関係を正しく認識していたことが分かります。勿論、彼は主の僕だったのです。しかし、主の僕になれるか否かは、主がお決めになることであって、私たちが志願したところでなれるようなものではない。主に絶対的な主権があるのであって、主が私たちに向かって、「わたしの僕」と呼びかけて下さることによってのみ、私たちは主の僕であることができるのです。

ここに、永遠の存在者であるイエス様と、消えてなくなっていく声との関係があるのです。しかし、この声をイエス様はこよなく愛して下さり、この声にご自分の言葉を乗せて下さる。そして、この声に乗せて、ご自分の救いを人々に届けようとしておられるのです。

先日、ある方からご連絡を頂きました。学生時代一流の大学と大学院で学び、語学に堪能で、アメリカやフランスにも長期留学をしておられました。しかし、若い時からずっと満たされないものがあった。満たされないものを満たすために、必死で勉強もなさったわけですが、それだけでなく、満たされないものがあるが故に、多くの痛みをご自分の中に呼び込んでこられ、重い病気に冒されたときも、満たされない虚しさの中に消えていこうとする自分を無感覚に眺めているような状態だったと言います。

しかし、そんな彼を支えられた多くの方々がおられたということでした。アメリカで虚しさの中にいた彼をイースター礼拝に誘い出し、しばしば家に招きいれ、愛してくれたクリスチャンの先生がいた。また、東京の銭湯でたまたま出会ったアメリカ人紳士のJさん。下宿で具合を悪くしている時にミネストローネを届けてくれたり、一緒に富士山に登ったり、アメリカ留学を支援してくれたのも、このJさんだったと言います。四半世紀、ずっと支え、愛してくれたJさんがお亡くなりになった。一緒に祈ってほしいとのご連絡でした。

私は、丁度、今日のメッセージの準備をしていました。消え行く声に載せて下さる神のことば。消え行く者たちに載せて届けて下さる愛があるということを語ろうと思っていたところでした。

虚しさの中にある自分をどうすることもできないこの青年の存在を支えるために、愛と実際的な支援を届けてくれた人がいたのです。その人、Jさんは永遠の存在ではありませんでした。やがて消え行く声であったに違いない。しかし、このJさんを通して、確実に届けられたものがあったのです。この青年を生かした愛があったのです。

洗礼者ヨハネは、「私は声だ」と言いました。しかし、神様のことばを届ける声だと。わしたちの存在も弱いものです。声のようにやがて消えていくものです。しかし、この声と共に届いてくださる、イエス様がいるのです。私たちは消えて行っても、そこに永遠に留まって下さるイエス様がいる。そこに留まる永遠の愛があるのです。

この私にも、イエス様を届けて下さった方がいた。虚しさと絶望の中でもう身動きも出来なくなっていた私、罪の故に病にも冒されていた私のために祈ってくれた人がいたのです。その人は弱さのために倒れもしました、その方も病気になりました。伝道者であっても、けっして永遠の存在ではありません。やがてその人も主のもとに帰っていくのです。しかし、その方が届けて下さったイエス様、神の言葉、聖霊は、その時以来、私の中で揺らぐことはなかった。確実にこの私の中に留まり、ここに命の光を照らし続けて下さったのです。

私たち小さな群れの中に、伝道して行こう、この愛を伝えていこう、オフ会をしようという思いが湧きあがってきています。声のような存在である私たちの存在をとおして、永遠に留まって下さる主がいる。永遠の愛の業を届けて下さる主がいるのです。

私たちの力は弱いかも知れない。しかし、私たちの強さ弱さは関係ないのです。声ではなく、届けられることば、イエス様ご自身に力があるからです。この方に光があり、命があるからです。そして、この消え行く声をご自分のところに呼び返し、永遠に握って放さない方がいるのです。

パウロは告白しました。「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」IIコリント5章17節

祈りましょう。

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