「ヨハネの福音書」 連続講解説教

夜の訪問者

ヨハネの福音書2章23節から3章15節
岩本遠億牧師
2009年3月15日

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

3:1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。3:2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

3:3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」3:4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」3:5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」3:9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

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先週、私たちは、イエス様がエルサレムでなさっていた奇跡を見てイエス様を信じた者たちが、逆にイエス様には信じてもらえなかったということを学びました。聖書は、アダムとエバの罪によって人間は完全に堕落したと言い、人間が自分の思いで信じる信仰は人間を救う力とならず、神様から信頼していただけるような者に人間を変えることもできないと言います。そして、イエス様の言葉、神の言葉だけが私たち人間を根本的に打ち変える力となるのだと学びました。

今日は先週聞いた言葉と3章の15節までを続けて読みました。それは、イエス様を信じたけれどもイエス様に信じれもらえなかった人々の代表としてニコデモが登場するからです。そして、先週申し上げたとおり、イエス様は人々の心の中に何があるかをご存じだったので、人々を信じることはなさいませんでしたが、信じる人々に永遠の命をお与えになった。つまり、信じるに値しない者たちのためにご自分の命をお与えになった。今日の箇所を注意深く聞くことによって、ニコデモに対するイエス様の熱い思い、迸る愛を知ることができるでしょう。

ニコデモというのは、パリサイ派でユダヤ人の指導者だったとあります。サンヘドリンという最高議会の議員であったとも考えられます。ニコデモというのは、ギリシャ語の名前で、ユダヤの名前のほかにギリシャ語の名をつけるという上流階級の人々の間で流行っていた命名方法によるものだと言われます。そのようなことから、ニコデモは金持ちであり、イエス様に「先生、永遠の命を得るためにはどんな良いことをしたらよいのでしょうか」と質問した、富める青年がこのニコデモではなかったかと考える学者たちもいます。

この人は、イエス様がエルサレムで行っておられた癒しの業、力ある業を見て、この方こそイスラエルの救い主に違いないと信じ、夜イエス様のところを訪ねて来ました。何故「夜」訪ねて来たのかということについては、いろいろな解釈があります。他のユダヤ人たちの目を憚った、彼らを恐れたという解釈が多いようです。

中には、「夜」という言葉に重要な意味があると考える人もいます。それは、「闇」の中にいたニコデモが「世の光」であるイエス様のところにやって来た。ニコデモは「闇」の中から「光」の中に移しかえられたということです。

イエス様を裏切ったユダがイエス様を売ることを決意してイエス様のところから去って行った時、ヨハネの福音書は、「それは夜であった」と特に書き記しています。「光」であったイエス様のところから「闇」の中に出て行ったということです。ニコデモは「夜」という言葉が表わす「闇」から、「世の光」イエス様のところにやってきたのであります。聖書は、イエス様に信じていただけるような信仰を持っていなかったニコデモがイエス様のところにやって来て、イエス様の光に照らされるものとなった。光の子とされたのだと言うのであります。

私たちはどうでしょうか。私たちもイエス様から信頼していただくことができないような心の持ち主でした。今もそうでしょう。しかし、夜の闇の中に住んでいた私たちが、光を求めてイエス様のところにやって来た時、イエス様は私たちを照らし、私たちを光の子として下さったのであります。

ニコデモはイエス様に申し上げました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」

「神様が先生と共におられます」と告白したのです。「そうでなければ、あのような奇跡は誰も起こすことができません。」彼は、イエス様に向かって「先生」と呼びかけました。求める心があったのです。神様が共におられる方に対する求めがあった。それは、「神の国」ということに関するものであったに違いありません。イエス様がそれに対する答えで、「神の国を見ることはできない」と仰っているからです。

ニコデモは、偶像礼拝者たちに蹂躙されているイスラエルに神の国がやってくるのか、あなたはそれをもたらす方ですかと聞きたかったのかもしれません。あるいは彼自身が神の国の支配の中に生きるためには、永遠の命を受け取るためにはどうしたら良いのですかと聞いたのかもしれません。

それに対してイエス様はお答えになりました。「アーメン、アーメン、私はあなたに言います。」「アーメン」とは「真実」という意味です。イエス様が、「私の真実にかけてあなたに言います」と仰っているのです。「人は新しく(上から)生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

ニコデモは、努力してきた人です。努力して聖書を勉強し、民の指導者と仰がれるまでになった。しかし、そこには自分の努力、人間の努力ではどうしても神様の国、神様の支配を見ることができないという限界を感じていたのがニコデモではなかったでしょうか。だから、彼はイエス様のところに求めてやって来たのです。

しかし、彼が前提としていたのは、梯子の神学であった。人間が努力して神様に近づく、一歩一歩恵みの梯子を上って行くことによって神の国を見ることができるようになる。彼は、そのように理解していました。神様が共におられるこのイエスという先生のお力で、この梯子を更に上に登ることができるだろうかと思っていた。

しかし、イエス様の答えは彼の考えていたこととは全く違っていました。「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ある意味で、ニコデモは、自分のこれまでの努力や自分の人格の全てをイエス様に否定されたと感じたのではないでしょうか。私たちは全員例外なしに、次のように言ってもらいたいのではないでしょうか。「あなたのこれまでの努力、頑張りは素晴らしいものです。あなたはそれによって神の国にずいぶん近づいていますよ。」しかし、イエス様はそのようなことは仰らなかった。イエス様は、人間の努力や頑張りでは決して届くことができない神の国、天の命、永遠の命をニコデモに与えるために、ご自分の真実を賭けておられたからです。ニコデモにご自分の命を与えるおつもりだったからです。

「あなたのやってきたことは素晴らしい」と誰でも言ってもらいたい。それによって自分の価値を認められ、自分を受け止め、受け入れてもらえると感じるからです。私たち人間同士の関係においては、これは大切なことだと思います。お互いがお互いを認め会うことは大切なことです。それによって勇気も得られるし、心が癒されたりもします。しかし、それは「神の国を見る。神様の永遠の命に生きる。天に属する者になる」ということと関わりがないとイエス様は仰る。

イエス様は、何故、このような厳しいことを仰ったのでしょうか。それは、イエス様にはニコデモに神の国をお見せるなることができるからです。イエス様は、ニコデモを本当に神の国に移しかえることがお出来になるからです。イエス様は、この天の命、永遠の命の秘密を握っておられるからです。人間同士が互いを否定するようなことではなかった。イエス様は、ご自身の真実を賭けてニコデモを神の国に移し変えようとなさった。だから、ニコデモには自分のこれまでの全てを否定されたと感じるようなことを仰ったのです。

「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは、自分のこれまでの歩みが否定されたと感じたのでしょう。「もう一度母の胎にもどって、人生をやり直さなければならないのですか。そんなことできません。」これは、ニコデモの絶望の言葉です。

そこでイエス様は、「新たに」という言葉の意味を丁寧にご説明になります。「新たに」とは「上から」という意味でもありますが、イエス様は、これを「水と霊によって」とご説明になりました。

「水」が何を意味するかについてはいくつかの説があります。「洗礼」を意味するという人も、また「洗礼」が象徴する罪の悔い改めを意味する、また、心が清められること、さらに、聖書の言葉と理解する人もいますし、「水」と「霊」は同じ聖霊のことを指していると言う人もいます。私は、この最後の説明が一番良いだろうと思います。何故なら、ヨハネの福音書4章、7章でイエス様は次のように言っておられるからです。

4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

イエス様は聖霊が人を新たなものにすることを強調して仰います。「風は思いのままに吹く。あなたがたはその音を聞くが、それがどこから来てどこに行くのか誰も知らない。霊によって生まれる者もこれと同様である」と。「風」というギリシャ語はプニューマですが、これは「霊」という言葉と同じです。風が思いのままに吹くように、聖霊も思いのままに吹く。人はこれを押し止めることはできない。風の音が聞こえるように、聖霊の音、聖霊の声があなたに届くようになる。その聖霊の声、神の御霊の言葉こそ、あなたを全く作り変えるものなのだ。母の胎内に帰ってもう一度人生をやり直すということではない。あなたを作り変える原理は、この地上にあるのではなく、聖霊そのものにあるのだ。あなたも、聖霊に触れられ、聖霊に満たされ、神の声を聞く者となる。神様の時がやってくる。その時、あなたにも聖霊がやってくるのだ。

聖霊があなたを生まれ変わらせ、聖霊があなたを神の国に生きる者、天の命、永遠の命に生きる者とするのだ。肉から生まれたものはどんなに頑張っても、努力しても肉のままだ。しかし、聖霊があなたに臨む時、あなたは霊なるものとして生まれ変わる。新たに生まれるのだ。イエス様は、このようにニコデモに語っておられるのです。

しかし、ニコデモにはそれが理解できません。「どうして、そんなことが起こり得るのでしょう。」これは反論ではありません。質問です。「どのようにして、そのようなことが可能になるのでしょうか」という意味です。

イエス様は、ニコデモの無知をお嘆きになりますが、しかし、ご自身の真実を賭けて、仰るのです。「この私が、十字架にかけられて殺され、あなたに聖霊を届ける」と。

「3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」天から下って来たイエス様だけがなすことができる業がある。それが十字架の御業です。

イエス様は、それを旧約の故事になぞらえてお語りになります。出エジプトしたイスラエルは神様に何度も反逆しますが、彼らが餓えた時、神様は彼らにマナという不思議な食物をお与えになりました。最初は彼らはマナを喜んでいたのですが、そのうち飽きて来て、「こんな物ばかり食えるか。マナには飽き飽きした。エジプトの食事が懐かしい」と言います。神様はお怒りになり、彼らの中に毒蛇を送られ、多くの人々が焼けるような痛みに苦しみ、また命を落としました。イスラエルの人々は悔い改め、神様に取り成してほしいとモーセに懇願します。神様はモーセに言われました。青銅で蛇の模型を作り、それを竿のうえに掲げよ。それを見上げた者は生きると。

イエス様は、「人の子もまた上げられなければなりません。3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」と言われ、ご自分が十字架に殺されなければならないこと、そして十字架のイエス様を見上げる者たちが永遠の命を持つと仰っています。

イエス様は、人が風の音を聞くように、聖霊が吹いているのが分かるようになると仰った。イエス様の十字架こそ、全ての人が分かる思いのままに吹く聖霊の働きの表れなのです。

イエス様は、ニコデモとの会話で、あたかもニコデモのこれまでの努力やそのあり方を否定するかのような厳しいお言葉をお掛けになりました。それは、イエス様の奇跡を見てイエス様を信じたけれども、イエス様には信頼していただくことができなかった人間の現実なのです。聖霊から新たに生まれない肉のままの人間には神の国を見ることはできない。イエス様と同じ世界にいることはできないのです。しかし、イエス様は、そんな者たちを聖霊によって新たに生まれ変わらせるためにこの世に来られ、自ら十字架にかかって行かれるのです。

それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得るためです。

ニコデモは学問を収めた人です。努力をして生きてきた人です。それによって民の指導者と仰がれるまでになりました。しかし、自分の努力と頑張りではどうしても抜け出ることができなかった暗闇の中に生きていました。ある意味、神の御霊によって満たされること、新しい存在とされること、神の国の祝福と命の喜びに入れられることを人一倍求めていたのがニコデモであったのです。イエス様は、ニコデモのこの魂の叫びに耳を傾けられました。一見かみ合わないかのように見える会話の中に、ニコデモの心を満たそう、ニコデモの存在を新たなものにするために、ご自分の存在の全てを与えようとしておられるイエス様のお姿を見ることができます。

ニコデモは、イエス様の真実をかけたお言葉とそのご人格にふれ、イエス様の弟子となります。十字架の奥義はこの時には分からなかったでしょう。しかし、イエス様の言葉を信じ、いつか新しく造られる日がやって来ることを、希望をもって待つようになりました。イエス様に対する敵意と憎しみが渦巻く議員たちの議論の中でも、イエス様を弁護する者となりました(ヨハネ7:51)。そして、十字架に架けられたイエス様を仰ぎ見、イエス様の遺体をアリマタヤのヨセフと共に丁重に葬ります。イエス様の傷ついた体を洗い清め、傷を手当てしてイエス様の体に薬と塗って布を巻いていきます。イエス様の十字架に一番近いところにいたのが、このニコデモだったのです。

あの夜のイエス様の真実をかけた会話、「あなたを新しく生まれさせるために私は十字架に上げられなければならない」と言われたイエス様の言葉が自分のために実現したのです。ニコデモはどんな思いでイエス様の体を洗い、薬を塗り、体を布で巻いていったでしょうか。自分の実存の根底を造り変えないではおかないと言われたイエス様の真実、その絶大な愛に全存在が震えたことでしょう。ニコデモは、イエス様の葬りの備えをし、イエス様を墓に収めたとき、自分自身もイエス様と一緒に死んで葬られたのだということを心に深く刻み付けたことでしょう。

イエス様は三日目に甦り、弟子たちに現れた後、天に昇っていかれました。そして、聖霊を風のように人々に送られたのです。聖霊がニコデモのところにも届きました。聖霊が啓示したイエス様は、ニコデモが知っていたイエス様よりさらに栄光に満ちておられ、聖霊が啓示したイエス様の十字架は、ニコデモが目で見た十字架よりもさらに深く彼の実存を転換せしめ、新たな存在として生まれ変えないではおかない命に満ちていたのです。ニコデモは、聖霊、イエス様の御霊によって全く新たな存在として造り変えられることを自分の経験として知ることになったのでした。

ニコデモがイエス様から聖霊による新生の話しを聞いて、本当の意味で新生を経験するまでには、イエス様の十字架と聖霊の降臨という出来事を経ることになるのですが、イエス様の真実をかけたお約束は、確実なものとしてニコデモの上に実現しました。「もう一度母の胎内に戻れというのですか」「どのよにしてそのようなことが起こり得るのですか」というニコデモの叫びは、ニコデモの失望の経験によるものだったかもしれません。

私たちも、そのように思うことはないでしょうか。他の人は、新しく生まれ変わり、喜びと希望に満たされて行くかもしれない。しかし、私にはそういう日は来ない。度重なる失敗の記憶、取り返しの付かない失敗や罪。絶望の中に投げ込まれた人にとって新しく生まれ変わることができるという言葉は空言のように聞こえるでしょう。

しかし、イエス様は仰います。「聖霊は思いのままに吹く。」聖霊は、私たちのところに吹いてきて、私たちにイエス様の十字架と復活を啓示して下さる。聖霊が啓示して下さる十字架には、これを仰ぎ見る私たちの存在を根底から新たにし、造り変える絶大な神の力があるのです。イエス様は、このように仰っておられます。聖霊があなた方のところにやって来て、これを仰ぎ見ることができるように助けて下さる。あなたがたの人間的な状態がどのようなものであっても、聖霊は自由にあなたがたのところに吹いてくる。たといあなたが絶望と穢れのどん底にいるとしても、たとい自分では抜け出せない悲しみと暗闇の中にいるとしても、聖霊の風はあなた方のところにやって来る。誰のところにも風が吹いてくるように、あなたのところに必ず聖霊は吹いてきて、十字架を仰がせ、あなたを新たな者にするのだ。

今日、私たちはもう一度十字架のイエス様を見上げようではありませんか。聖霊の風が吹いて来て、私たちを助けて下さるに違いありません。十字架のイエス様を見上げる時、聖霊がさらに強く私たちの内に吹きこんできて、私たちの中にイエス様を啓示して下さるでしょう。私たちのところにも聖霊は吹いて来て下さる。私たちを天に属する者に、新しい者に作り変えて下さるのです。

祈りましょう。

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