「マタイの福音書」連続講解説教

天からのしるし

マタイの福音書12章38節から45節
岩本遠億牧師
2007年9月16日

12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」 12:39 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。 12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。 12:41 ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。 12:42 南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。

12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。 12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。 12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」

毎週マタイの福音書を連続で学んでいます。今日の箇所は、その前から続いているイエス様とパリサイ主義者、律法学者との論争の最後の部分です。この箇所で、律法の専門家たち、つまり聖書の専門家たちの何人かが立ち上がって、イエス様をテストしよう、試そうとします。彼らは言います。「しるしを見せてください」と。これは、「天からのしるし」という意味で、「あなたが天から、つまり神様から遣わされた人間だという証拠を見せてください」ということです。

この前のところで、イエス様は目も見えず話すこともできない苦しみの中にある人を癒され、その存在と尊厳を回復なさいました。しかし、それを見たパリサイ主義者たちは、その癒しの業は悪魔によるものだとの暴言を吐きます。イエス様は、言われました。「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら(つまり、癒しの業をおこなっているのなら)、もう神の国はあなた方のところに来ているのだ」と(28節)。

パリサイ主義者たちは、人間の尊厳の回復、健康の回復、存在の回復という奇跡を見ても、それによっては、イエス様が神様の働きをしているとは認めなかったのです。むしろ、悪魔の働きをしていると言った。そして「天からのしるしを見せよ。そうしたら、信じてやろう」というのです。

私たちの周りにもそういうことはないでしょうか。人生に絶望した人が教会に来るようになる。その人に希望が与えられ、存在の尊厳が回復していく。ある場合は病気が癒されていく。そして、喜びと感謝と賛美が教会の中に与えられていく。そういう状況を見ているのに、「神が愛なのなら、証拠を見せろ」「キリストが生きているというならその証拠を見せろ」という人はいるのではないでしょうか。「今ここに、こうやって人生と存在が回復した人がいるではないですか。喜べなかった人に喜びが、感謝のなかった人に感謝が与えられてるではありませんか」と言っても、「証拠を見せろ」という人は納得しないのです。なぜかと言うと、彼らが言っているのは、「俺が納得する証拠を見せろ。俺が、その証拠が証拠としての価値があるかないかを決めるから」と言うことだからです。

誰が善悪を決めるのか。誰が神様の業かそうでないかを決めるのか。ここで問題となっているのはそういうことなのです。聖書は一貫して言います。人間にはその権限は与えられていない。人間がそのように主張するのは高慢という罪の本質の故だと。

イエス様は、彼らにお答えになります。「悪い、姦淫の時代はしるしを求める。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」この言葉は、マタイ16章4節にも出てきます。 イエス様が何度も仰っていたことだということを意味しています。「邪悪な姦淫の時代」と仰っています。個人というよりも、むしろ時代全体が邪悪なのだ。神様に対して姦淫を犯しているのだ。神様を裏切り続け、神様でないものを拝んでいる。自分の高慢、自分の思いを自分の礼拝対象としているのです。しるしを求めるのは、神様を神様としないからだ。

だからイエス様は言われるのです。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と。「預言者ヨナのしるし」とは、謙遜のしるしです。旧約聖書に「ヨナ書」という預言書があります。紀元前8世紀ごろの話ですが、当時中近東最大のアッシリア帝国にニネベという首都がありました。神様はヨナに言われます。「ニネベの罪はあまりにも大きい。40日後にニネベを滅ぼす。ニネベに行ってそのことを伝えよ」と。ところが、ヨナは恐れ、神様の顔を避けて、船に乗って、ニネベとは反対側に逃げていこうとしました。ところが結局ヨナは船から投げ出され、大魚に呑み込まれます。三日三晩大魚の腹の中にいて彼は悔い改め、立ってニネベに行って、神様の言葉を伝えるのです。するとニネベの人々は、王から身分の低い者まで、灰をかぶり、断食をして悔い改め、神様の怒りと滅びを免れたといいます。

イエス様は言われます。ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩地の中にいる。つまり地獄に落ちるということです。イエス様が十字架にかけられ、殺され、地獄に落ちるまで低められる。低められることが、天からのしるしなのだと言うのです。

旧約聖書には、自分が神様から遣わされた者だということを表すために、雹を降らせた預言者もいます。しかし、イエス様は、そのような形でご自分の存在を表そうとはなさらなかったのです。

伝道の活動を始める前、イエス様は、悪魔の試みに会われます。悪魔は言うのです。「もしあなたが神の子だったら」と。「もしあなたが神の子だったら、石をパンに変えて御覧なさい。」「もしあなたが神の子だったら、神殿の上から飛び降りて、空中浮遊し、自分が神の子とであることを人々に知らしめなさい。」しかし、イエス様はそのような悪魔の試みを聖書の言葉で退けられ、何一つしるしを表そうとはなさらなかったのです。

また、イエス様が十字架にかけられた時、祭司長たちが言いました。「もしお前が神の子なら、今、十字架から降りて来い。そうしたらお前を信じよう」と。しかし、イエス様はそうなさらなかった。

人を驚愕させ、あるいは、恐怖に陥れるようなしるしは、自分を高めようとするしるしです。人はひれ伏すかもしれません。しかし、それは、真の神の御子のしるしではないのです。イエス様は言われます。十字架の死という究極の謙遜こそ、神の子のしるしなのだと。不義な姦淫の時代、全ての者が高慢になっている時代、その時代に神の子が神の子としての実存を表すしるしは、全き謙遜というしるしでしかありえないのだと。

イエス様は言葉を継がれます。ニネベの人たちが裁きの時に、今の時代を裁くと。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、今、ここにヨナの説教よりも偉大な説教が語られている。「ヨナよりも偉大な者」と訳されていますが、ギリシャ語では「人」という意味ではありません。「ヨナよりも偉大なあるもの」ということで、ヨナの宣教よりも偉大な宣教ということです。今申したとおり、イエス様は自分をヨナより偉大であると言って高めようとなどしておられないのです。低められた者としての実存を全うしようとしておられるのです。今ここに、ヨナが語った「滅ぼすぞ」という説教より偉大な説教、「幸いなるかな」と祝福をもたらす説教が語られている。不完全な者を完全な者とする命の説教が語られているではないか。天の命がここに語られているではないか。病の人々が癒されているではないか。なぜ、これを見て悔い改めないのか。

また、紀元前10世紀頃、南の女王、シェバの女王がソロモン王の知恵の言葉を聞くためにわざわざやって来た。しかし、今ここに、ソロモンの知恵よりも偉大な知恵が語られているではないか。人を生かす天の知恵、福音の言葉が語られているではないか。なぜ神の言葉を聞いて悔い改めようとしないのか。

なぜ、いつまでも自分は正しいと言い張るのか。そう言い続けるのか。謙遜な心で見ようとすれば分かることだとイエス様は仰っているのです。

イエス様は、この状態を、汚れた霊が出て行った人にもう一度もっと悪い霊が入ってくる状態に擬えてご説明になります。汚れた霊が人から出て行くとは、聖書の言葉を聞いて、偶像礼拝や占いを止めたり、それまでの霊的な悪癖を止めたりすることです。しかし、汚れた霊が出て行っても、そこにイエス様に入っていただかなければ、空き家のままです。そして、きれいに掃除がしてあり、片付いているというのは、客を迎えようとしているのに、イエス様を迎え入れていないということです。救い主を迎え入れるのを拒否している。それでいて、他のものを待っている。そうすると、そこには、出て行った霊が、自分よりももっと悪い七つの霊、すなわち、ありとあらゆる悪霊をつれて住みつく。そして、その人の後の状態は、前の状態よりはるかに悪くなる。邪悪な姦淫の時代もこれと同じであると。

皆さん、私たちは、イエス様に心の中に住んでいただきましょう。イエス様が住んでおられたら、悪霊は決して入ってくることができないからです。

イエス様を受け入れるとはどういうことでしょう。イエス様を信じ、イエス様に心の中に住んで頂くとは一体どういうことなのでしょう。それは、十字架にかけられて地獄に落ちることが神の子としてのしるしだと言われたイエス様を信じることです。地獄の底にまで落ちたイエス様の謙遜が自分に救いをもたらしたことを頷くことです。イエス様の犠牲の上に自分の救いがあり、幸いがあるのだということを感謝することです。

イエス様の時代と同じように、今も邪悪な姦淫の時代です。全ての者が自分は正しいと言っているのです。神様の真実よりも自分の思いを第一にする。この時代の中から私たちを救うもの、それはイエス様の謙遜です。イエス様が低められた。苦しめられた。侮辱され、痛めつけられ、殺された。その低さの中に私たちの救いがあるのです。

私たちは何と言うでしょうか。イエス様、もしあなたが神の子なら、戦争を今すぐ全て止めさせるとか、飢饉や天災をすべてなくさせるとかいった、何か他のしるしを見せてください。そうしたら信じますというでしょうか。私の問題を全て解決してください。私を幸せにしてください。そうしたら信じますというのでしょうか。

それとも、主イエス様、あなたの低さ、あなたの謙遜の中に私の救いがあります。あなたの低さで私を覆ってください。あなたの低さで、私を包んでください。あなたが低められたから私は救われたのです。あなたが地獄にまで行って苦しんだから、今の私の幸いがあるのです。あなたの低さをもっと知ることができるようにしてください。低められたあなたが、私の心の中に住んでください。低められたあなたの心を知ることができるようにしてください。私の心を満たして下さいと祈るでしょうか。

祈りましょう。

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