「マタイの福音書」連続講解説教

子供たちの自由

マタイの福音書17章22節から28節
岩本遠億牧師
2008年3月2日

17:22 彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。
「人の子は、いまに人々の手に渡されます。 17:23 そして彼らに殺さ
れるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。

17:24 また、彼らがカペナウムに来たとき、宮の納入金を集める人た
ちが、ペテロのところに来て言った。「あなたがたの先生は、宮の納入
金を納めないのですか。」 17:25 彼は「納めます。」と言って、家には
いると、先にイエスのほうからこう言い出された。「シモン。どう思い
ますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てますか。自分の子ども
たちからですか、それともほかの人たちからですか。」 17:26 ペテロが
「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは言われた。「では、子
どもたちにはその義務がないのです。 17:27 しかし、彼らにつまずき
を与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさ
い。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わ
たしとあなたとの分として納めなさい。」

+++

イエス様は、ガリラヤでの宣教活動によって国主ヘロデから命を狙われ
るようになり、群集を巻き込まないため、またエルサレムで十字架にか
けられるという目的を達成するため、ヘロデの手を逃れて、ツロ、シド
ンという地中海の北の地方に退かれました。そこから、ガリラヤに戻ら
れますが、ガリラヤ湖を南から迂回して、外国人の土地に入り、また北
に進んで、高い山ヘルモン山でご自身の本当の姿をペテロ、ヤコブ、ヨ
ハネの3人にお示しになりました。今、また伝道の拠点としていたカペ
ナウムのペテロの家に戻り、いよいよこれからエルサレムに向かってい
く準備をしておられた時の出来事が今日の箇所です。

22節に、「彼らがガリラヤに集まっていた時」とありますが、これは単
に一緒にいたということではなく、エルサレムに向かっていくという目
的のために集まったということです。そこで、イエス様は、エルサレム
に登られる目的を語られるのです。

「人の子は、いまに人々の手に渡されます。 17:23 そして彼らに殺さ
れるが、三日目によみがえります。」とあります。「人々の手に渡され
る」とは、人々がイエス様に対してやりたい放題のことをやるというこ
とを意味します。神の子イエス様が人の手の中に落とされるということ
です。

文法的にもう少し正確に訳すと、「人の子は、人々の手に渡されること
になっている。そして彼らは彼を殺す。そして、彼は、三日目に甦らせ
られる」となります。「渡される」と「甦らせられる」は受身で書かれ
ていますが、動作主が誰か書かれていません。それは、伝統的な解釈で
は、父なる神様がそうするのだということであります。イエス様を殺す
のは人々ですが、イエス様を人々の手に渡し、イエス様を三日目に甦ら
せるのは、父なる神様なのだ。「私は、この方の御旨に従ってエルサレ
ムに行くのだ。人々は私を殺す。しかし、父なる神様が私を甦らせる。」
それは何のためか。罪の奴隷となっている人間を神の子とするためです。
罪の奴隷から自由な者とするためです。

イエス様は、全人類の罪の贖いのためにエルサレムに行くのだと仰って
いますが、弟子たちには分かりません。特に、最後の「三日目に甦らせ
られる」の部分は耳に入りません。それで、彼らは非常に悲しむわけで
す。

イエス様がこのように仰ったということを念頭において24節以下を読
むと、その意味が分かってきます。

イエス様はペテロの家をガリラヤでの拠点としておられましたが、そこ
に宮の納入金を徴収する人々がやってきました。宮の納入金というのは、
出エジプト記30章を根拠に集められていたものですが、次のように定
められていました。

「30:10 アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血に
よって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に
一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も
聖なるものである。」

30:11 主はモーセに告げて仰せられた。 30:12 「あなたがイスラエル
人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分
自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によっ
て、彼らにわざわいが起こらないためである。 30:13 登録される者はみ
な、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケル
は二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。
30:14 二十歳、またそれ以上の者で登録される者はみな、主にこの奉納
物を納めなければならない。 30:15 あなたがた自身を贖うために、主
に奉納物を納めるとき、富んだ者も半シェケルより多く払ってはならず、
貧しい者もそれより少なく払ってはならない。 30:16 イスラエル人か
ら、贖いの銀を受け取ったなら、それは会見の天幕の用に当てる。これ
は、あなたがた自身の贖いのために、主の前で、イスラエル人のための
記念となる。」

つまり、一年に一度、イスラエルの罪の贖いのために祭司が生贄の動物
の血を祭壇の蓋に注ぎかけるわけですが、その贖いを自分のものとして
受け取るためには、二分の一シェケルを贖い金として納めなければなら
なかったのです。動物の血が流されたらそれで自動的に罪が赦されるの
ではなく、贖い金を納めることによって、罪の贖いを自分のものとして
受け取ることができたということです。贖い金を納めなければ罪の贖い
が自分のものとならないので、災いが自分の身に起こると言われていた
ため、これは、非常に重要なものでした。また、富んでいる者も貧しい
者も命の価値に変わりありませんから、同じ二分の一シェケルを納めな
さいと命じられていたのです。

宮の納入金は神殿の補修や運営に用いられていたもので、エルサレムで
は過ぎ越しの祭りの時に納入されていました。地方ではその1ヶ月前に
徴収されていたということです。ですから、イエス様がエルサレムで十
字架にかけられる1ヶ月前の出来事だったということになります。

二分の一シェケルというのは、労働者の二日分の賃金に当たるものでし
たが、今の日本だと数万円に相当します。イエス様の時代には、律法に
従ってこれを納入する人も、納入する意味を認めない人もいたというこ
とです。納入金を集める人たちがペテロのところに来て、「あなたがた
の先生は、宮の納入金を納めないのですか」と質問しましたが、パリサ
イ人たちの監視の目がある中で、イエス様が律法を大切にするかどうか
を試すという意味もあったと思われます。

ペテロは、Yesと答えるわけですが、イエス様は、律法に従って生きて
おられたということです。

ペテロが家の中に戻ると、そのやり取りを聞いておられたイエス様のほ
うから、ペテロに語りかけられました。

「シモン。どう思いますか。世の王たちはだれから税や貢を取り立てま
すか。自分の子どもたちからですか、それともほかの人たちからです
か。」 17:26 ペテロが「ほかの人たちからです。」と言うと、イエスは
言われた。「では、子どもたちにはその義務がないのです。 17:27 しか
し、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に
釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、
それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」

ここで鍵となる言葉は、「義務がない」と訳されている言葉ですが、ギ
リシャ語の元の言葉は、「自由」という意味です。奴隷に対する自由人
という意味での自由です。「王の子供たちは自由である」とイエス様は
おっしゃいました。ここでは、神殿が問題となっていますから、王とは、
神殿の主、すなわち神様のことを指すことになります。ですから、「神
の子供たちは自由である」という意味になります。

では、何から自由なのか。先ほど、神殿のための納入金は、罪の贖いの
ためだと申しました。それが律法の規定です。罪の贖いを自分のものと
するために納入金を納めなければならなかった。罪を赦しもらうために
お金を納めなければならない関係というのは、神様と神様の子供の関係
ではありません。神様と神様の子供たちとの関係は、既に赦された関係、
既に贖われた関係である。神様の子どもは、罪から自由になった者なの
だ。

罪が赦されるか赦されないかと怯えながら、神殿のために金を納めると
いう、恐れのある立場から、恐れのない立場。奴隷の立場から、自由人
の立場に変えられたのだとイエス様はペテロに仰っているのです。

「子どもたち」と複数形で書いてあります。イエス様だけが神の子とし
て自由な立場を持っていると仰ったわけではない。ペテロに対しても、
「お前も自由なのだ。罪から、罪の恐れから自由なのだ」と仰っている
のです。

これからイエス様はエルサレムに向かい、十字架にかけられて罪の贖い
を成し遂げようとしておられるのです。ペテロも、これから躓き、イエ
ス様を否定するのです。そういうペテロに向かって、「お前は神の子供
だ。罪から自由なんだよ。罪の恐れに中に生きなくて良いのだ」と仰っ
ている。イエス様は、この時は言われませんでしたが、「わたしが、お
前の分の罪の贖いも全部成し遂げるから。お前を生かすから、お前は罪
から自由なのだ」との思いを内に秘めておられたのではないでしょうか。
これから行われる罪の贖いを、既に成し遂げられたこととしてペテロに
語っておられる。「お前は、罪の贖いを自分のものとして受け取るため
に、宮の納入金を支払う必要はないのだ。わたしが、お前の罪の贖いを
成し遂げるからだ。お前は自由なのだ」と。

ここに十字架に向かわれるイエス様の固い決意と、十字架の意味が籠め
られているのです。

皆さん、どうでしょうか。これを今の日本の状況に当てはめると、どう
いうことになるでしょうか。神社や仏閣に行くと、賽銭箱というのがあ
ります。特に宗教心のない人でも、初詣などに行ったり、あるいは観光
などで寺社を訪ねたりすると、賽銭箱に金を投げ込み、家内安全、商売
繁盛と祈る。金を投げ込まなければ聞いてもらえないと思うからです。

また、占い師や霊能者と言われるような人のところに多くの金が集まる。
金によって安心を買いたいからです。先祖が苦しんでいるというような
脅しの言葉に捕らえられて、御祓いをしてもらったり、加持祈祷をして
もらう。そのために多額の金を支払う。

何故か?自由でないからです。罪と罰にたいする不安があるからです。
誰かに「良い」と言ってもらいたい。何か霊的なことに権威がありそう
な人に「問題解決しました」と言ってもらいたい。そのために金を払う
のです。しかし、そのようなことでは恐れは解決しないのです。罪の呪
いは解決しない。むしろ恐れは強くなり、一度そのようなところに引っ
かかってしまったら、なかなか抜け出せなくなるのです。

パウロは言いました。「キリストは、自由を得させるために、私たちを
解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、
またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」ガラテヤ5:1

金によって、あるいは律法の行いによって罪を贖わなければならない者
はいつまでも恐れの奴隷であります。しかし、イエス様は十字架の血で
私たちを贖い、私たちを神の子としてくださった。イエス様ご自身が言
われるのです。「あなたがたは神の子供たちだ。あなたがたは、自由人
である。罪と恐れから解放されたものだ」と。聖書は言います。「あな
たがたは、これを金を払うことによってではなく、律法の行いを行うこ
とによってでもなく、ただ信仰によって受け止めなさい」と。

一方、イエス様は、ペテロに、人々を躓かせないためにイエス様とペテ
ロ、二人分の納入金を納めるようにと言われます。

「17:27 しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りを
して、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が
見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさ
い。」

ここに、大人の対応があります。神の子とされ、自由となった者は、神
殿の納入金を納めることは必要ない。罪が既に贖われたからです。一方、
神殿の納入金を納めることによって、今年一年の罪が赦されたと信じ、
それによって安心を得ようとしている人もいる。また、納入金を納めな
いことは、明らかに律法を否定することになるので、人々との間に無用
の対立を生じさせるようにもなる。イエス様に従っていた人たちの多く
も納入していたでしょう。もし、イエス様が納入しなければ、彼らの間
に混乱と不満が噴き出すことにもなります。

本当は、このようなことで信仰がぶれないほうが良いのですが、ぶれる
人のために自分の自由を自ら制限するということも愛の業として尊いも
のだということを聖書は教えているのです。

パウロが地中海世界で伝道を展開していた時にも同様の問題はしばしば
起こりました。パウロは、イエス様の十字架と復活を信じることによっ
てのみ救われるのであって、割礼の有無は救いとは関係ないと熱烈に説
き、割礼派の人々と激しく対立しますが、ギリシャ人のテモテを伝道旅
行に同行させる時、テモテに割礼を受けさせました。無用の対立と論争
を避けるためであり、テモテを攻撃から守るためです。

また、地中海世界では動物の肉は一旦偶像に捧げられたものを市場で売
っていました。偶像に捧げられた肉は汚れているから食べてはいけない
と考えるクリスチャンたちもいました。一方で、イエス様の十字架を信
じ、その血によって清められたら、偶像に捧げた肉などによって汚され
ることはないと考える人たちもいました。そして、両者の間に論争と対
立があったのです。パウロ自身は、自分が偶像に捧げられた肉で汚され
ることはないと考えていましたが、そう考える人を躓かせないために、
彼らの前では肉を食べることを控えるようにとの教えを述べています。

私たちも、このように大人の対応をすることは必要ですね。

一方、ここでイエス様がペテロにお命じになったことは、私たちの心を
温かくしてくれます。今、まさにこれからエルサレムに向かっていこう
とする時、ペテロに最後の漁をするようにと仰います。釣り針を垂れよ
と。最初に釣れた魚の口の中に二人分の納入金額の銀貨が入っているか
ら、それを私とあなたの分として治めなさいと。

もう、あなたが自分のお金で自分の罪の贖いをする必要はないのだ。全
てが神様の恵みの中にある。ペテロは、イエス様と一緒にエルサレムに
行ったら、いつガリラヤに帰れるようになるか分からない、いや、もう
帰れないかもしれないと思っていたはずです。そんなペテロに、最後の
釣りを楽しませるのです。そして、銀貨を口に入れた魚を見つけたペテ
ロは、「お前は、神の子だ。お前は罪から自由だ。自分の金で罪の赦し
を買わなくて良いのだ」と言われたイエス様のお言葉を体験し、それを
心に深く刻むことができたのではないでしょうか。

私たちは、「子供たちは自由だ」と言われたイエス様の言葉を心に留め
たいと思います。人々は言うでしょう。お前はこれができない。こんな
失敗をした。こんな罪を犯した。しかし、イエス様は弁護してくださる
のです。「お前は、わたしの子供だ」と。「わたしの子供は、罪から自
由だ。罪の恐れから自由だ。恐れることはない。なぜなら、完全な愛が、
ここに注がれたからだ」と。

ローマ人への手紙8章14節~15節

8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。8:15 あなた
がたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、
子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、
父。」と呼びます。

祈りましょう。

天のお父様。尊い御名を心から誉め讃えます。今日も聖書の言葉に耳を
傾けさせてくださいました。主よ、あなたの言葉によって私たちの心を
開いてください。

かつては、罪の奴隷であった私たちを、あなたは救い出してくださいま
した。罪を犯し怯えていたのは私たちでした。平安がなく死と滅びを恐
れていたのは私たちでした。私たちは、まさに罪の奴隷だったのです。
しかし、主イエス様、あなたは私たちを神の子とするため、私たちを自
由な者とするため、十字架にかかられました。

あなたの十字架の血が私たちを清めたのです。私たちを罪から贖いまし
た。

今、私たちは自由なものです。恐れなくあなたの御顔を仰ぎ見ることが
できます。恐れなく、あなたに向かって「お父さん」と呼びかけること
ができるのです。主よ、何と幸いなことでしょう。あなたの子供とされ
た者たちは。何と幸いなことでしょう。あなたの前に平和と安心を得る
ことができる者たちは。

主よ、さらに私たちに罪を犯さない自由をお与えください。罪に打ち勝
つあなたの十字架の恵みを更に私たちの内に溢れるように注いでくださ
いますよう、お願いいたします。

主よ、あなたが与えてくださったこの自由、この平安をさらに私たちの
内に満ち溢れさせ、あなたの喜びで満たして下さいますよう、心からお
願いいたします。そして、この自由を自分のために用いるのではなく、
他の人を生かすために知恵をもって用いることができますよう、私たち
を導いてください。

主よ、今日も私たちの中に病んだ者たち、苦しみと恐れの中にいる者た
ちがいます。主よ、顧みてください。あなたの子供とされる自由をお与
えください。病から解放してください。苦しみと恐れから解放してくだ
さい。癒してください。あなたの圧倒的な光と命によって、お一人お一
人を包み、新たに造り変え、あなた子供として生かしてくださいますよ
う、心からお願いいたします。

感謝して、尊いイエス様の御名によって祈ります。アーメン。

関連記事