「マタイの福音書」連続講解説教

安息日の主

マタイの福音書12章1節から8節
岩本遠億牧師
2007年8月19日

12:1 そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。 12:2 すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」 12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 12:4 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。 12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。 12:6 あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。 12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。 12:8 人の子は安息日の主です。」

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新約聖書の中にパリサイ人と呼ばれる人々が登場します。言うならばイエス様の敵役のように取り扱われていますが、律法を研究し、それを守ることによって神様の御心をこの世に実現しようとした、ある意味、非常にまじめな人々でした。しかし、そのことだけに心を向け、律法だけでなく、その他の言い伝えや戒律によって、人を縛り、コントロールしようとしていたのが当時のパリサイ主義です。イエス様は、そのようなパリサイ主義と戦われました。

私は、高校生、大学生の時、パリサイ・エノクと呼ばれていたことがあります。真面目で熱心だったということですが、その熱心が人を裁き、慰めや励ましを与えない、そういう面がありました。今でもありますね。自分でそう自覚するようになったり、自分自身が弱さや罪の中で倒れたことなどをとおして、誰も律法によっては生きることができないこと、律法より更に偉大なイエス様の愛に赦され、生かされることの素晴らしさを知るようになりました。

今日の箇所は、そのパリサイ人とイエス様との安息日を巡る論争が記してあるところですが、パリサイ・エノクだったからこそ彼らの心理が分かるということがあります。しかし、それを圧倒するイエス様の恵みと祝福の大きさが語られている箇所です。それを共に分かち合いたいと思います。

ここで直接的に問題となっているのは、「安息日に麦の穂を摘んで、それを揉んで実を食べてよいか」ということですが、何が問題なのかを理解するためには、安息日がユダヤ人たちにとってどれほど重要な意味を持っていたか、そして今も、持っているかということを知っておく必要があります。これは単なる休日ではありません。

ユダヤ人が何度国を滅ぼされてもユダヤ人としてのアイデンティティを保ち続け、幾度も国を再建することができたのは、彼らがユダヤ教を保ち続けたからですが、そのユダヤ教の中心となるのがこの安息日なのです。ある意味、かたくなに週に一度安息日を守り続けてきたから、彼らは神の民としてのアイデンティティを失わず数戦年にわたる歴史の荒波を生き抜いてきたのです。

その基盤は、6日間で天地創造を終えられた神様が7日目に休まれたという創世記の記事、そして、出エジプトの後、シナイ山で与えられた律法の中にある安息日の規定(十戒の第4戒)です。それぞれ引用します。

創世記2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 2:3 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

出エジプト記20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。 20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―― 20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

神様は創造の業を6日間で完成なさり、7日目を「聖なるもの」であるとされたとありますが、これは、他の日とは質的に異なったものとして区別されたということです。勿論これは、神学的、霊的な事柄を象徴的に表しているものです。聖書の中では7は完全数と呼ばれます。創造の業が終わって、完成されたとは、もう何も付け足すことの必要のない、完全が現れたということです。全てのものが全てのものによって満たされた。ここに存在するもの全ての間に完全な調和があり、平和が満ち溢れ、存在すること自体が祝福である状態が現れたのです。神様は、全てのものの中に満ち満ちておられた。この完全・完成の中に神様の喜びが満ち溢れたのです。

しかし、人が罪を犯したことによって、この完全は壊されました。神様は、これをもう一度完成するために働き続けておられます。そして、神様は、安息日を定めて、完成の喜び、完全の祝福がどんなに絶大なものなのかを人に教えようとされたのです。完成と完全をこの地にもう一度実現するために、神様がご自分の全てを注いでおられることを知る日、そして礼拝を通して、人にもそれに参与するように招いておられるのです。

実に、安息日とは、不完全、不完成という罪に対する神様の祝福と勝利を宣言し、喜ぶ時なのであります。

ユダヤ教は、人の側でこのことを実践するためのマニュアルを作るのに多くの時間とエネルギーを費やしてきました。そのこと自体は素晴らしいことです。どうすれば、神様を自分の全てで喜び、賛美することができるのか、神様を礼拝する、神様のことだけを考えて一日過ごすために、その邪魔となるものをそぎ落とすための様々な規則が定められました。そこには多くの知恵が込められています。が、その用い方を誤ると、目的を達するための手段だったものが、主役になり、マニュアルを守ることが目的となってしまう、それをイエス様は指摘なさいました。

安息日に収穫してはいけないというのも、その一つです。収穫は労働ですから、安息日には禁止された行為です。しかし、もう一方で、飢えた人が他人の畑に入って麦や葡萄を手で摘んで食べる権利が律法の中で保障されています。鎌や籠をもって他人の畑に入ることは許されませんでしたが、飢えた者が手で摘めるだけのもので飢えをしのぐ権利を神様は認めておられるのです。

イエス様は弟子たちを連れて、麦畑を通られました。9節を見ると、それが礼拝に行く途中だったということが分かります。朝の礼拝に行く途中に、弟子たちはひもじくなったのです。どういう理由かは分かりませんが、彼らは朝食を食べることができなかった。イエス様は麦畑を通ることで、彼らに朝食をお与えになったということです。

古代のユダヤ社会は一日二食でしたが、安息日だけは三食食べることになっていました。空腹のまま安息日を過ごすことは「完成・完全の喜びを祝う」安息日にはふさわしくないからです。必要が満たされることが「完成・完全の喜びを祝う」安息日を過ごすためには必要なのです。

ところが、弟子たちが麦の穂を摘んで、揉んで実を食べ始めたのを見て、パリサイ主義者たちがイエス様を非難しました。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」どんなにお腹がすいても、安息日に収穫してはいけない。それは律法違反だというのです。彼らは、弟子たちがひもじい思いをしていること、事情で朝食を取ることができなかったことなど、どうでも良いのです。そこにどのような必要があるのか、どのような欠けがあるのか、どのような苦しみがあり、辛さがあるか、また痛みがあるかということを、全く見ようとしないのです。人と同じ思いになり、人を理解しようともしない。そこに律法主義の非人間性、そして、愛の否定があるのです。

それに対してイエス様は旧約聖書の記事を引用してお答えになります。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。 12:4 神の家にはいって、祭司のほかは自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べました。」律法によると、神様の前に捧げられたパンは、祭司だけしか食べることが許されていませんでした。ところが、サウル王に命を狙われ逃亡していたダビデは飢えた時、祭司アビメレクのところで聖別されたパンをもらいました。しかも、それは安息日でした。

イエス様の主張ははっきりしています。「ひもじい者が安息日に腹を満たす行為は、安息日の規定に反しない。むしろ、空腹のまま安息日を過ごしてはいけないのだ。人の飢えを満たすことが父なる神様の御心だ」ということです。

また言われます。「 12:5 また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。」神様に仕える祭司たちは、日々の献げ物のほかに、安息日のための献げ物のため、動物の献げ物をし、供えのパンを整えました。それはかなりの重労働ですが、安息日にそれを行うことは許された。何故か。それは、安息日が礼拝を捧げる日であり、宮の奉仕は、礼拝そのものだったからです。礼拝のための働き、神様に仕える働きは、労働を禁止する安息日の規定の適用外だということです。

そして、イエス様は宣言なさいます。「ここに神殿よりも偉大な者がいるではないか」と。「神殿より偉大な者」とはイエス様ご自身のことです。神殿に仕える者が安息日の規定を受けないのなら、神殿より偉大なイエス様に仕える弟子たちが安息日の規定のそとにあるのは当然ではないか。このように言って、イエス様は弟子たちを擁護なさるのです。

12:7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。 12:8 人の子は安息日の主です。」生贄とは、形式的な神礼拝と意味します。生贄を捧げて、それで良い事にする。神様がどんなに憐れみ深い方なのかということを知ろうとしない。神様の憐れみが私たち一人一人に注がれていること、飢えた者に対する神様の憐れみを知っていたなら、罪のない者を断罪したりはしなかっただろう。一人一人は、神様の憐れみの中に生かされているのだ。律法を形式的に適用しようとするのではなく、そこに溢れる神様の憐れみを見よと仰るのです。

「人の子は安息日の主である。」「人の子」というのは、イエス様がご自身を指して言われる称号ですが、イエス様ご自身のことを指しています。どういうことかというと、「安息日の主」とは、「安息日を安息日たらしめる者」という意味です。「安息日を安息日たらしめるのは、戒律的に律法を守る人の行為ではない」ということです。「収穫しない行為」とか「何もしないという人の行為」が安息日をもたらすのではない。「安息日を安息日たらしめるものは、イエス・キリストご自身なのだ」ということです。

先ほど、天地創造七日目の安息は、完全・完成の安息だと説明しましたが、人の罪によって壊されたこの世界をもう一度完成することこそ、イエス様の働きなのです。罪によって汚され、壊された私たちの心と体を、十字架の血潮によって赦し、もう一度新たにし、完全なものとするためにご自身の全てを注がれたのです。

エペソ「1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。 1:8 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、 1:9 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、 1:10 時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。」

「1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」

「一切のものを一切のものによって満たす。」これこそ、創造がもう一度完成する状態です。一切のものを一切のものによって満たす方、イエス様こそ、もう一度完全な安息日を作られる方なのです。だから、イエス様は「安息日主義」と戦われるのです。人の行為が安息日を完全なものにするのではない。だから、安息日に病める者を精力的に癒されたのです。安息日に飢える者に食べ物を与えられたのです。

私たちは、礼拝を大切にし、安息日を大切にしたいと思います。しかし、私たちが日曜日にここに集まる行為が私たちに安息日を与えるのでも、平和と安息を与えるのでもないということは、何度言っても言い過ぎることはありません。

全人類の罪、私の罪、あなたの罪を十字架によって贖い、平和を実現された方、天にあるもの地にあるものの全てを十字架によって集め、父なる神様の前に完全なものとして立たせることができるイエス様が、私たちに真の安息、真の安息日を与えてくださるのです。この方が、もう一度全てのものを完成し、完全なものとする「安息日の主」だからです。

元々安息日は、金曜日の日没から土曜日の日没までの時間でした。今もユダヤ人たちはその時間を安息日として大切に守っています。一方、クリスチャンたちは、日曜日を安息日としています。それは、イエス様が復活なさったのが日曜日だからです。日曜日の礼拝は、イエス様の復活を記念し喜び楽しむためのものです。まさに、十字架を復活によって全てのものをもう一度完成し、全てのものにもう一度完全な安息を与えるイエス様を誉め讃える日として、日曜日はふさわしい日なのです。

「実に、人の子は安息日の主である」と宣言されたイエス様の十字架の恵みが一人一人の上に溢れるように注がれますように。罪の中にある古い人がイエス様の十字架に葬られ、イエス様の復活によって新しい人として、もう一度完成されますように。完全なものとされますように。それを私たち一人一人が自分の体験として経験することができますように。

祈りましょう。

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