「マタイの福音書」連続講解説教

安息日の癒し主

マタイの福音書12章9節から21節
岩本遠億牧師
2007年8月26日

12:9 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。 12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。 12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」 12:13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。 12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、 12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。 12:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。

12:18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。 12:19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。 12:20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

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何度かご質問していますが、何故私たちは日曜日ごとにここに集まっているのでしょうか。クリスチャンは日曜日に礼拝に行くものだからでしょうか。誰かに会うためでしょうか。それとも、教会の中に自分の自己実現の場があるからでしょうか。

私たちは全員、存在の破れ口というようなものを抱えて生きています。この存在が完全でない。痛みや病の中に生きている。自分が望む善を行うことができず、憎む悪を行ってしまうような内的問題を抱えている。あるいは、人を赦せない、自分を赦せないという苦しみを抱え、どうしたらこれから自由になるのかもがき苦しむと言うことがあります。私たちのそのような存在の破れ口を癒し、私たちの存在を完全なもの、完成されたものとする方の前に出る。それがキリスト礼拝であります。まさに、私たちが毎週日曜日に集まり礼拝を捧げるのは、私たちの存在を癒し完全なものとする方を誉め讃え、この方の赦しと命を与えられ、癒され、完全な者となるためなのです。

先週、私たちは、イエス様がご自分のことを「安息日の主である」と宣言なさったところを学びました。重要なことなので、もう一度、その内容を確認しておきたいと思います。

神様は天地を6日間で創造し、それを完成して、7日目に休まれたと創世記に記してありますが、これは、7という数字で表される「完全・完成」という時が現れたことを意味するものです。つまり、7日目で全てが完成した。それに付け加えるものは何も存在しなかった。それほど全てのものが全てによって満たされた状態が七日目の安息日だったのです。全てが完成し、付け加えるべき業がなかったわけですから、そこに永遠の完成がありました。

しかし、その只中で人は罪を犯します。神様が取って食べてはならないとお命じになった「善悪の知識の木の実」を食べ、善悪を決定する力を自分のものにしようとしました。また、自分の基準で人を裁き、人を断罪する権力を手に入れようとしたのです。ここに、全てのものの間にあった平和と調和が崩され、完成・完全の喜びが壊されたのです。人は、その罪のために神様との関係を失い、滅び行くものとなった。これが、創世記が告げる人による安息の破壊なのです。

神様は、この破壊された安息、破壊された完成・完全をもう一度取り戻すために、再創造の業を行っておられる。これが聖書全巻の主張であり、再創造を行う救い主こそイエス様であると言うのです。

神様は、この完全な安息の日を覚えるため、また神様との交わりの中、礼拝の中に安息を回復するために七日に一度の安息日の規定を律法としてお与えになりました。この日には一切の労働をしてはならない。全てのことを休んで、ただ神様のことだけを考え、神様と交わる時をもちなさい。金儲けのため、自分の欲望を満たすためにこの時を使ってはいけないという教えです。これは元々人の命を回復させるための恵みの規定であったわけですが、律法が形骸化し、さらに律法主義という、律法の精神よりもマニュアルを守ることを至上命題とする者たちが現われるに至り、安息日は全く変質してしまいました。

聖書以外の文献からも、イエス様の時代は、安息日に許される行為についての議論が活発に行われていたということが分かるということです。例えば、溺れている人を助ける行為は許されるのかというような議論が真面目に行われていたと言います。人命救助が安息日の規定に優先するとユダヤ教の中で確定したのは紀元150年頃だと言いますから、イエス様の時代には、そう考えない多くのパリサイ主義の律法学者たちがいたのです。彼らは、安息日に何もしないという人間の行為が安息日を完全なものにすると考えました。これを安息日主義と言います。彼らは、安息日に許されない行為をすることを、決して許しませんでした。

安息日主義、律法主義とは何か。それは、人が自分の行為、自分の行いで神様の前に完全であろうとすることです。マニュアルを守っていれば神様の前に完全であると自らを義とする。そしてマニュアルを守れないものに失格者としてのレッテルを貼っていくのです。それは安息日に限りません。様々な規定がありました。それを守ることに全精力を傾けていたのがパリサイ主義者だったのです。今もそれは同じです。もし誰かが、「毎週礼拝に来ないと救われませんよ」とか、「教会の奉仕のために自分の時間と労力を使わないと救われない」と言ったり、あるいは「救われるためにはこれこれの献げ物をしなさい」あるいは「これこれのものを買いなさい」などと言うなら、それはパリサイ主義なのです。自分の行為、自分の金で救いが買えると思っている高慢がここにあるのです。

救いは、十字架にかけられ、復活したイエス様を自分の神として信じること以外にありません。主よ、どうぞ私を憐れんで下さいと祈るものに、救いがやってくるのです。

イエス様は、安息日を安息日たらしめるものは、人をもう一度新たにし、完全にし、完成されたものとして神様の前に立たしめるイエス様ご自身なのであって、人の行為ではない。何もしないという人の行為が安息日をもたらすのではない。完全な安息に先立ち、人の再創造が行われなければならないということを、その存在の全てをかけて主張なさいました。主張なさっただけではなく、文字通り、このことのために十字架にかかり、命をお捨てになりました。

イエス様の生涯を記した四つの福音書のどれを見ても、イエス様が最初の癒しをなさったのは安息日です。安息日主義の律法学者たち、パリサイ主義者たちは、安息日に人を癒すのは律法違反だと主張していました。しかし、イエス様は、わざわざ安息日に人々を癒しておられるのです。パリサイ主義者との対立を避けるために、安息日には癒しの業を行わないという選択肢を選ぶこともできたはずです。しかし、イエス様は、命を賭けて安息日に癒しの業を行われるのです。命を賭けなければならないことがあったからです。今日の箇所にも、そのことが表されています。

12:9 イエスはそこを去って、会堂にはいられた。 12:10 そこに片手のなえた人がいた。そこで、彼らはイエスに質問して、「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言った。これはイエスを訴えるためであった。

この状況を思い浮かべて見ましょう。この人は、恐らく、脳溢血か何かで、片手の自由をうしなっていたのでしょう。彼は、働くことができなくなって、どのような思いでこの礼拝に集っていたことでしょう。彼の願いは何だったでしょうか。もう一度元気になることではなかったでしょうか。もう一度完全なものとなって、喜びに溢れて礼拝し、生活することではなかったでしょうか。

しかし、パリサイ人たちは、この人の苦しみ、この人の悲しみ、嘆きなど、どうでも良いと言っているのです。彼らにはこの苦しむ人に対する思いやりの一片、愛の一かけらもない。イエス様を訴える口実を見つけるために、この人の痛みを出汁にして、安息日論争を吹きかけるのです。

それに対してイエス様はお答えになります。マルコの福音書などによりますと、イエス様は怒ったと書いてあります。イエス様が怒るような状況があった。

12:11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 12:12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」

当時、羊を一匹しか持っていない人というのは貧しい人でした。自分の命と同じほど大切なのがそのたった一匹の羊です。その羊が安息日に穴に落ちたら、その貧しい人は自分のかけがえのない羊を助けるために穴から引き上げてやらないだろうか。イエス様は、この人は、神様にとってはたった一人のかけがえのない息子なのだ。君たちは、彼の痛み、彼の苦しみ、悲しみなんかどうでも良いと思っているかもしれない。しかし、天の父は、この人の痛みと苦しみ、悲しみ、呻きをご自分のこととして見ておられるのだ。聞いておられるのだ。天の父ご自身が苦しんでおられるのだ。今すぐ穴から引き上げるためにご自分の全てを用いようとしておられるのだ。と仰っているのであります。

この片手が不自由になったという悲しみと苦しみが解決しなければ、彼のところに安息が来ないように、この一人の苦しむ人の嘆き悲しみがなくならなければ、神様も安息を喜ぶことはできない。人にも神様にも安息は来ないのだと仰っている。だから、イエス様は命を賭けて、その存在の全てを賭けて、安息日に人を癒されたのです。安息日主義の名の下に、人の尊厳を卑しめ、これを否定する人の悪意に立ち向かわれました。安息日以外の日に癒してもらったら良いなどということのできない戦いがここにあったのです。

皆さん、どう思われますか。もし、イエス様が「じゃあ、明日癒してあげる。明日来なさい」と言ったら、この人の実存は癒されたでしょうか。自分の苦しみが人の神学論争の種になっているという、自分の存在が全く否定されるような状況の中で、イエス様が命を賭けて立ち向かわれたことが、この人を癒したのです。この人には、癒されるまで安息日は来なかった。今、イエス様に身も心も魂も、癒され、存在が回復して初めて安息の喜びに入ることができたのです。

まさに、イエス様こそ、「安息日を安息日たらしめる方」、「安息日の主」です。罪に汚れ、その存在の裂け目に苦しむ私たち全てのものを癒し、もう一度新たに創造する再創造の主こそ私たちの主、イエス・キリストであります。

12:14 パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。 12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやし、 12:16 そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた。

イエス様が十字架にかけられた理由は、パリサイ人たちが金科玉条のように大切にしていた安息日主義を否定なさったからです。また、祭司階級が最も大切にしていた神殿礼拝主義を否定なさったからです。イエス様は、命を狙われるようになった。しかし、癒しを必要とする多くの人たちがイエス様についてきました。彼らを癒す方こそ、彼らに本当に安息を与えることができる方だからです。そして、イエス様は彼らを全員癒されたのです。マタイは、これを預言者イザヤの預言の成就だと言いました。

12:18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。 12:19 争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。 12:20 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。 12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」

イエス様は、ご自分の時間とエネルギーをパリサイ人との論争に費やすことを良しとなさらず、病める者たちのためにそれをお使いになりました。「いたんだ葦を折ることなく、くすぶる燈心を消すこともない」と言われています。この地方ではパピルス職人がパピルスで籠を作ります。職人たちは傷のついたパピルスを見つけると折って捨てていました。傷のあるものが混じると売り物にならないからです。また、くすぶる燈心とは、燃え尽き、消えてゆく蝋燭の芯のようなものです。どちらにせよ、人には価値のないもの、存在しなくても良いと思われているような存在、それが「傷んだ葦」「くすぶる燈心」です。イザヤは、イエス様のことを預言しました。

「この方は、傷んだ葦を折ることのない方、くすぶる燈心を消すことのない方だ。傷んだ葦を癒し、新たにする方、くすぶる燈心を新たにし、油を注ぎ、聖霊の火を灯される方だ。人が捨てるようなもの、存在する価値がないと思われているものを癒し、新たにし、もう一度創造し、主の御用のために用いてくださる方。この方が公義を勝利に導くのだ」と。

「公義」と訳されている言葉は「裁き」という意味ですが、これは「救い」を意味するのです。病によって、人生の失敗によって、人に否定されることによって、あるいは自分の罪によって、私たちの存在は傷ついている。存在に破れ口がある。存在に裂け目があるのです。また、かつては明々と灯っていた火が消え、くすぶっている。もう自分の人生は終わりだ。否定され、もう捨てられるだけだと絶望する者を癒して新たにすること、これらの者たちをご自分の御用のためにお用いになる。これが主の裁きなのです。まさに高ぶる者をその高慢の座から引き摺り下ろし、低められている者を引き上げる主の御愛、ここに主の裁きが現れる。これこそ、低められた私たちにとっての救いなのであります。

この安息日の日、ユダヤ会堂で癒された人は、まさに傷んだ葦、くすぶる燈心でした。この人が癒されることなしに、真の安息は来ないのだ。この人のところに安息がやってこないうちは、安息はないと宣言なさったイエス様。そこにイエス様の全存在をかけた戦いがあったのです。そして、会堂を出られたイエス様は、多くの病める者たちを安息日にお癒しになりました。イエス様の安息日の戦いは、病める者、苦しむ者たちを再創造し、完全なものとする戦いだったのです。

聖書には、神様が人に向かって「完全なものであれ」とお命じになるところが何箇所かあります。最初は、信仰の父アブラハムが90歳になった時に神様から語りかけられた言葉です。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」またイエス様も、弟子たちに向かって言われました。「天の父が完全であられるようにあなた方も完全なものであれ。」

全能の神様が「完全なものであれ」と言われる時、そこに、不完全な者を完全にしようとする神様の存在をかけた人への働きかけがあります。自分の修行や努力で完全になれと仰っているのではない。自分で自分をどうすることもできない者の存在の破れ口を癒して、もう一度新たにしよう、いや、新たにせざるをえない十字架の恵み、復活の力、聖霊の臨在があると仰っているのです。

イエス様は、この再創造の命をこの地に満たそうとしておられる。この私たちの小さな教会にも満たそうとしておられる。だから、私たちは、大胆に求めたいのです。「主よ。あなたの御手を伸ばして病める者を癒してください」と。「全てのものを新たにすると言われた、あなたの約束の言葉を私たちの上に現実のものとして実現してください。私たちにあなたの真の安息と平安、キリストの平和を満たして下さい」と。

祈りましょう。

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