「ルカの福音書」 連続講解説教

平安に生き平安に死ぬ秘訣

ルカの福音書講解説教(64) 第12章13節〜21節
岩本遠億牧師
2013年1月13日

12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。 12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」 12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。 12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。 12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』 12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

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私たち人間が誰しも考えること、また悩むことは、自分が一体何者かということではないでしょうか。自分は一体どこから来て、どこに行こうとしているのか。このことについて明確な答えが与えられ、確信を得ることができなければ、私たちは本当の平安を得ることができないのです。そして、本当の平安を得ることができないとき、私たちは物質によって自分の心を満たそうとする。富は自分の魂を満たすことができないと言うことは頭では分かっていても、それを止めることができず、もっと欲しい、もっと欲しいという貪欲の泥沼の中に落ちて行くのです。

イエス様は言われました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」「いのちは、財産にあるのではない」とありますが、では、いのちはどこにあるのか。これに対する答えこそ、貪欲の泥沼の中から私たちを救う力であります。

コロサイ人への手紙の中に次のような言葉があります。

3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されているからです。3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼり(貪欲)が、そのまま偶像礼拝なのです。

私たちのいのちは、神の中にある。私たちのいのちは、イエス・キリストその方であるというのです。そして、イエス様に握られている時、私たちは、貪欲、すなわちむさぼりから解放され、本当に自分が何者であるのかが分かるようになる。逆説的でありますが、自分が自分から解放される時、私たちは本当の自分を発見することができる。自分がどこから来て、今どこにいて、どこに行こうとしているかが分かるのです。

このことは、ここでイエス様が語っておられる愚か者のことばを詳しく見ることによって分かります。この原文には、日本語訳の聖書には訳出されていないたくさんの「私」という言葉があります。それを全部入れると次のようになります。

12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『(私は)どうしよう。(私の)作物を(私が)たくわえておく場所が(私には)ない。』 12:18 そして言った。『(私は)こうしよう。(私は)あの倉を取りこわして、もっと大きいのを(私は)建て、(私は)穀物や財産をみなそこにしまっておこう。 12:19 そして、(私は)自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

ここに9回も「私」という言葉が出て来ます。この人は自分の事しか考えていないのです。この人は既に金持ちであります。生活に困っているわけではない。そこに豊作が与えられた。誰が与えたのでしょうか。それは言うまでもなく、天地を造り、今も創造の業を続けておられる神様であります。神様がこの人に豊作を与えられたのは、この人がそれを自分のためにではなく、困っている人たち、貧しい人たちのために使うためです。金持ちですから、それを自分のために使う必要などなかった筈です。しかし、彼は、困っている人々のことなど、毛頭考えないのです。持っていた幾つもの倉庫を取り壊して、新しい大きな倉庫を幾つも作り、そこに穀物や財産をしまい込めば魂に平安が得られると思った。

しかし、この人の魂には平安は来なかった。それは、この人が人生において知らなければならない最も重要な事を知らなかったからです。彼が知らなければならなかった最も重要なことは何か。それは、彼の魂の所有者は自分自身ではなかったという事です。人の魂の所有者は神様であって、私たち一人一人ではない。どんなにこの世で財産を貯め込み、自分のしたい事を達成したとしても、それによって魂に平安は来ないのです。何故か。それは、私たちの魂は、私たち個人の持ち物ではないからです。魂だけではありません。私たちの心も体も、私たちの持ち物ではありません。

自分の持ち物なら、何でも自分の思い通りにする事ができる筈です。自分の部屋の模様替えをしたり、必要なものを売ったり買ったりすることができます。しかし、私たち自身の「自分」というものを構成している、この体、この心、この魂ついては、何も自分の思うどおりにすることはできない。私たちが自分自身について苦しむのは、自分が自分の思うようにはならないからです。何故自分の思うようにならないのか。それは、私たち自身が自分のものではないからです。神様のものだからでありす。

ここでイエス様は言っておられます。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』文法的には、「(彼らが)お前の魂を今夜要求する」ということになります。ここで「彼ら」というのは神様のことを間接的に指す用法です。神様がお前の魂を今夜要求する。神様がこの人の魂の所有権を行使し、この人から取り戻されるというのです。どんなに財産を貯め込み、自分で自分の魂を安心させようとしてもそれは無駄なことである。いつ神様がその所有権を行使して、魂をとられるか分からないからだというのです。

一方、自分が神様のものであることを知る人生というものがあります。私の人生は誰のものか。私というこの存在は誰のものなのか。誰が私を創造したのか。神様が私を創造なさった目的は何か。この生涯が終わるとき、私は誰のところに帰るのか。

キリスト信仰においては、これらの問いは、信仰の根本となることです。それで、いろいろな信仰問答書で、この問題について最初に取り上げています。

ウェストミンスター小教理問答では、次のように述べています。「人の主な目的は何ですか。」「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」私が、そしてあなたが存在していることには目的がある。それは神の栄光をあらわすためである。永遠に神様を喜ぶためだというのです。私たちは自分の栄光を求めるために創造されたのではありません。神様のお姿をこの世に映すためだ。ここに私がいる、あなたがいるだけで、神様がいることが分かるような存在となる。そのために私たちは存在しているというのです。そして、その時、私たちは輝くのです。溢れる喜びに満たされるのです。存在の目的を知るからであります。

また、ハイデルベルク信仰問答では次のように述べています。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか。」「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」私は私自身のものではない。イエス様のものである。これが私たちの存在を根底から支える慰めであり、力であるのです。自分が自分のものだと思い、自分のために人生を生きていたとき、私たちには不安があります。錨のない船が波や風に流され、どこに行くか分からないように、自分が神様のものであることを知らない人生は、人生の波や風が吹いて来た時、どこに押し流されるか分からず、不安を消し去ることができません。しかし、自分がイエス様のものであることを知る時、波や風がやってきて、多少揺れることはあっても、私たちは動かされることはない。私たちの存在を握りしめておられる方がいるからです。

このことを知り、このことを常に意識しながら生きるようになる時、私たちは神様の大きな愛の計画の中に生かされていることを知ります。その中で自分が為すべきこととして与えられていることを考えるようになり、その実現のために計画を立て、祈りながら進むようになる。しかし、それと同時に、神様のもとに帰る心の準備が整って行くようにもなるのです。コリント人への手紙第二に次のような言葉があります。

5:14私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イエス様は言われました。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」人のいのちは財産にあるのではない。その人の持ち物にあるのではない。むしろ、イエス・キリストの中に自分のいのちがある、すなわち、自分が自分のものではなくイエス様のものであることを知る時、私たちは貪欲という罪から救われるのです。

私は、大学生の時、一人の女子大学生に出会いました。その人は、同じ大学の同じゼミの学生だったのですが、ゼミの合宿で次のように言いました。「私は、お金や名誉はいらない。心の平安が欲しい」と。私はこの人にイエス様を伝えなければならないと思いました。そして、神は愛であるという話しをしました。救うに価しない汚れた私たちを救うために、父なる神様が御子イエス様をこの世に送ってくださった。そして、イエス様は私たちの罪を贖うために、十字架に血を流して死に、私たちの罪を贖ってくださった。これを神の愛という、そのような話しをしました。私には、その時、自分の話しがどれだけこの人に伝わっているのか良く分かりませんでした。しかし、この人はその時からキリスト教の礼拝に集うようになりました。そして、随分経ってからですが、私から最初に話しを聞いた時、自分の全身が温かい毛布ですっぽり包まれているような安心感と平安を与えられた。自分はまだ聖書を見たこともなかった。礼拝に行ったこともなかった。祈ったこともなかった。しかし、私は、その場でクリスチャンとなった、イエス様のものとなった、全く新しいものになったことを知ったというのです。

数年後に私はこの人と結婚することになりました。しかし、結婚した当初も今も、この人は、あれが欲しい、これが欲しいとは言わないのです。勿論生活に必要なものは買いますし、子供にお金がかかり仕事をするようにもなりました。しかし、自分の身を飾るために高価な物を欲しがったりするようなことはこの26年間一度もありませんでした。

イエス様はこの人の魂の叫びに耳を傾けられました。「私は、お金も名誉もいらない。ただ、心の平安が欲しい。」そして、その願いにお答えになりました。イエス様ご自身がこの人の神となられたのです。イエス様がこの人のいのちとなって下さったのです。

しかも、神様のご計画はそれに止まりませんでした。神様は、この人を私の妻とすることを決めておられたのです。何故かと言うと、私はあれが欲しい、これが欲しいという思いが強い人間だからです。もともと大金が手に入るような仕事をしているわけでもないし、能力的にもそのようなことはできませんが、可能な限り自分の欲しい物は何でも手に入れようとするのが私です。もし、私が物欲の強い人と結婚していたら、貪欲はエスカレートしていたことでしょう。それどころか、相手が自分のために金を使うのを見て腹を立てるような最悪の夫婦関係となっていたに違いありません。しかし、この人が私の妻であってくれることによって、私の貪欲は押さえられ、心が正されているのです。

ペテロ第一の手紙3:1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。3:2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。3:3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

神様はこのようにして、私たちの人生を導いてくださっているのです。神様はこのように聖書の言葉をとおして、人との出会い、人との関係をとおして、私たちの心を整え、私たちが私たち自身ものではなく、神様のものであるとうことを教え、また体験させ、貪欲から解放させようとしておられるのであります。

先週からNHKの大河ドラマ「八重の桜」が始まりました。日本で初めてのキリスト教主義教育機関となった同志社大学の創始者新島襄先生の妻八重子の生涯を描くものです。先週は、幼少期の様子でした。八重子は負けん気が強く、男勝りで、親も手を焼くような女の子として登場します。ある時、藩を挙げての軍事教練が行われましたが、八重子と友人の男の子たちは教練を見るために木に登りました。競争で上へ上へと登って行くうちに、八重子は足を滑らせ、草履を落としてしまうのです。草履は危うく家老の西郷頼母(たのも)にぶつかりそうになります。家老は怒り、犯人を見つけようとしますが、八重子は潔く、家老の前に出て、その前に手をついて赦しを乞います。家老は怒りが収まらない様子ですが、そこに会津藩の若殿様松平容保(かたもり)がやって来て、取りなしてくださる。「武士らしく、自ら名乗ったではないか。卑怯なことはしておらぬではないか」と。八重は、赦されますが、その夜、彼女は涙を流しながら言うのです。「若殿様は、私を武士らしいと仰せになった。私はお役に立ちたい。いつか若殿様に御恩を返したい」と。

脚色されたドラマではありますが、私は心を打たれました。私は八重の言葉を聞きながら、自分の中で次のように告白している自分に気付きました。「私の王であるイエス様が、私の罪の全てを赦し、私を神の子として下さった。私の王であるイエス様が私に『お前は神の子だ。わたしの子だ。わたしのものだ』と仰せくださった。私は、イエス様のお役に立ちたい。いつかイエス様に御恩を返したい」と。

私たちは自分のものではありません。私たちの罪や過ちを全て赦し、私たちを神の子としてくださったお方、私たちの神であり、私たちの王であるイエス様のものであります。この方を自分の王として生きる時に、私たちは貪欲という罪から解放され、この方の意志を行なう者と変えられて行くのです。イエス様が愛している方々、私の王が助けようとしておられる弱っている方々、苦しんでいる方々と共に生き、自分の持っている物で彼らを助け、共に生きる者となって行く。そして、この方との関係がますます強められ、この方が帰って来いと招いてくださる時に、いつでも「はい」と言って天に帰る準備が整って行くのです。

私たちは自分のものではありません。イエス様のものです。生きるのもこの方のために生き、死ぬのもこの方のために死ぬのです。何か特別、牧師になるとか伝道者になるということだけが、イエス様のために生き、イエス様のために死ぬということではありません。何ができても、できなくても、自分がこの方のものであるということを知ることです。生きている時にもこの方が握ってくださっている。死ぬ時にも、死んだ後さえ、この方が握ってくださっている。そのことを知る時、私たちは貪欲という罠を突き破り、真に神の子としての尊厳と輝きの中で生きることができるのです。イエス様のお心を自分の心とする者となるのです。

14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。 14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。ローマ14:7-8

祈りましょう。

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