「マタイの福音書」連続講解説教

御言葉が聞かれなくなることはない

マタイの福音書24章1節から14節
岩本遠億牧師
2008年8月24日

24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。 24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」 24:4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 24:5 わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。

24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。 24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。 24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。 24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。

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もう何年前になるでしょうか。たしか35年前(1973年)だったと思いますが、『ノストラダムスの大予言』という本が出版され大流行したことがあります。それは、1999年の7月に人類が滅びるという内容のもので、東西冷戦による核戦争の可能性や、地球規模の環境汚染に不安を抱えていた日本人若者の心理につけ込み、3か月ほどで100万部を売ったそうです。その内容そのものは、いい加減なものであったと言われますが、若者たちに将来に対する強い不安をもたらし、それを読んだ私の弟も、絶望と無気力の中に落ち込んでしまいました。

この『ノストラダムスの大予言』は、後に、キリスト教やユダヤ教とは何の関係のない、でたらめな破壊的終末論を標榜して若者たちを洗脳したオウム真理教などにも影響を与えたと言われています。そう言えば、オウム真理教の教祖は、自分こそがキリストだと言っていました。

イエス様は、「人に惑わされないように気をつけなさい」とおっしゃいましたが、惑わす者が現れ、それに影響を受けた若者たちが人生を狂わされ、犯罪にまで巻き込まれていくことを私たちは自分たちのこの時代に見ています。

地球温暖化や資源の枯渇、地球規模で展開するテロとそれに対する戦い、地震や天災の頻発、あるいは世界的な金融危機、政治の茶番など、私たちの時代を取り巻く状況を見ると、終わりの時が近付きつつあるとの不安を抱く人も多いことでしょう。

確かに、イエス様は、人類のこの繁栄がいつまでも続くのではない。終わりの時が来るとおっしゃいましたが、それは、絶望の宣告ではありませんでした。罪が支配する時代の終わりがやってきて、イエス様の来臨と共に、イエス様の義と愛と光だけが支配する新しい局面がやってくるとお約束になったのです。それは、舞台の幕が下りて、次の幕が開くのに似ています。勿論、そこには痛みや苦しみはありますが、私たちは、イエス様以外の者が語る偽の予言や噂に惑わされないようにしましょう。そのためにも、終末についてイエス様が語っておられることをしっかりと理解することが大切です。

24:1 イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。 24:2 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

パリサイ人、律法学者たちとの論争を終えたのち、イエス様は、彼らについての7つの禍を語られました。それに続いて、エルサレムが荒れ廃れることを預言なさいましたが、1節と2節は、それを受けたものです。

イエス様は、宮を出て行こうとしておられました。すると弟子たちが近寄ってきて言うのです。「先生、すごい石ですね。どうやってここまで持ってきて組み立てたんでしょうか。このような立派な石で作られた神殿も荒れ廃れるのですか」というような内容のことを言ったのだと思います。この神殿を築いたのはヘロデ大王ですが、石材建築に非常な才能を持った人で、彼が作った湾岸都市は今も発掘中で、その規模とデザインには目を見張るものがあると言います。弟子たちは、神殿の壮大さに圧倒されているのです。

しかし、イエス様は言われました。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」この大きな石も、崩されるのだと。

しかし、イエス様は、単にこの石、この神殿が崩されることを嘆いておられるのでしょうか。確かに、歴史的には、紀元70年、ローマのティトゥスによって、エルサレムは徹底的に破壊されますが、イエス様は、そこに住む人々のことを思い、嘆き、苦しんでおられるのです。これから、自分を十字架にかけて殺す人々、その人たちの将来を呪っているのではありません。イエス様は、罪がもたらす破滅と破壊を予見し、その人々の苦しみを知り、胸が張り裂けるほど痛んでおられるのです。

「わたしが来臨するとき、お前たちは、『主の御名によって来る方(キリスト)に祝福あれ』と言うようになる。しかし、その時まで、お前たちは荒れ廃れる。滅びを経験するのだ。それは、お前たちが自分を正しい者とし、神に立ち帰らなかったからだ。神に逆らい続けたからだ」と仰っている。

しかし、それは、エルサレムの人々だけのことではありません。イエス様は、時空を超え、全ての時代の人々に語りかけておられるのです。「自分は正しい」という者、神様よりも自分を義とする者、神様の前に立ち帰り、自分を低くしようとしなかった者、また、自分はこの石垣のようだと思っている人間、自分たちは変わることがないと思っている者が崩される時が来る。そのことを嘆いておられるのです。

その後、イエス様はオリーブ山に登られ、そこからエルサレムを見ておられました。あの神殿の丘に建つ壮麗な神殿を見ながらイエス様は何を考えておられたのでしょう。数日後に十字架にかけられるご自分、そして、破滅するエルサレム。しかし、破滅するために破滅するのではない。新しく建てられるために破滅するエルサレムを見ておられたのではないでしょうか。イエス様は、このエルサレムが破壊されるために十字架にかかられたのではありませんでした。また、ご自分を十字架に架けるエルサレムを呪って、これを破壊なさったのではありません。新しくするためです。新しく立て直すために、新しく「主の御名によって来る方に祝福あれ」と叫ぶことができるようにするためです。神の花嫁とするためです。

先ほどご一緒にイザや書62章を読みました。「62:1 シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは。」そのために十字架にかかられたのです。しかし、立て直すためには、一度徹底的に倒されなければならない。そのことを嘆いておられる。建て直されるためだから、倒されても良いじゃないかとはおっしゃらない。そこにもたらされる痛みと苦しみを予見し、一緒に嘆き、苦しんでおられるのです。イエス様はそのような方です。

昨日の「元気の出る聖書の言葉」でも書きましたが、神様は徹底的な方です。イスラエルに偶像崇拝をやめさせるためにイスラエル統一王国を南北に分裂させ、そして、バビロニア帝国によって滅ぼさせてバビロン捕囚の苦しみをお与えになった。彼らの子孫はペルシャのキュロス大王によってエルサレムに帰り神殿を再建しますが、バビロン捕囚以降、現在に至るまで二度と偶像崇拝を行わない民になるのです。神様は、このように徹底的に導こうとなさり、徹底的に作り変えようとなさるのです。赦すと決めたら徹底的に赦し、愛する者を徹底的に愛しつくされるのです。

エルサレムがもう一度、「主の御名によって来る方に祝福あれ」と心から叫ぶようになるために、徹底的にこれを作り変えようとなさっているのです。私たちをも、もう一度徹底的に作り変えようとしておられる。だから、この苦しみは「産みの苦しみの初め」だと仰る。

「産みの苦しみの初め」とおっしゃるのだから、新しく生まれるものがあるのです。それは、「主の御名によって来る方に祝福あれ」と存在の全てで叫ぶ者たちの時代です。イエス様によってすべてが新しくされる時です。私たちが、新しくされ、このような中途半端なものではなく、救われてはいても罪を犯し続けるようなものではなく、新しい心と新しい体の全てで、「主の御名によって来る方に祝福あれ」と叫ぶ時が来るのです。その喜びの時、その主の栄光が満ち溢れる時が来る。

この罪深い性質がそぎ落とされるためですから、その産みの苦しみの時は、決して楽なものではないでしょう。イエス様はおっしゃっています。「24:9 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。」これらは、これまでの教会の歴史の中で起こってきたことですし、今も進行中であり、これからも起こることです。私たちの中にも、このような苦しいことを経験なさった方がおられることでしょう。

12節「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」とありますが、不法とは、律法の遺棄です。ここでイエス様がおっしゃっている律法とは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と言われた愛の律法です。人が自分のことしか考えなくなり、神様を愛することも、人を愛することも忘れ、自分のことしか考えなくなることです。愛が冷える時代が来る。

そのような時、多くの偽預言者が起こって、多くの人々を惑わすと言われる。「もう最後の時だ。この世の仕事をしている時ではない。自分の財産にしがみついている時ではない。仕事を辞めて出家して、献身して、財産を全部教団に捧げなさい。そうすれば、救われます。」このような言葉を聞いて、どれだけの人が騙されて来たことでしょう。

このような中で、イエス様はなお、希望を語っておられるのです。13節「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」

ここで「耐え忍ぶ」と訳されている言葉は、単に我慢するという意味ではありません。ある注解書は、この言葉を「神の招きと言葉が聞かれ守られるということに基づいている」と解説しています。それは、黙示録3:10を根拠にしています。「3:10 あなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」私たちが握りしめたイエス様の言葉が、試練の時、私たちを守るのです。

また辞書で調べると、「耐え忍ぶ」と訳されている言葉は「留まる」という意味です。何にとどまるのか。主イエスの言葉にとどまるのです。イエス様が語り続けて下さる。イエス様の言葉が語り続けられるのです。愛の冷えたこの世に、なおイエス様の言葉が語り続けられる。それにとどまるのです。

イエス様は言われました。「24:14 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。」全世界に宣べ伝えられ、全ての国民がこの福音を聞く時まで、このイエス様の言葉、福音の言葉が聞かれなくなることはない。たとい、人の愛が冷えても、人がその隣人を売るような時代になっても、この福音の言葉、イエス様の言葉は語り続けられる。イエス様がこの内側で語り続けて下さるのです。「わたしの愛にとどまれ」と。苦しみの時代に、私たちを支えるイエス様の言葉があるのです。

仮に苦しい時がやってきても、この肉の体を脱がなくてはならなくなった時も、私たちはイエス様の言葉を聞き続けることができる。そして、終わりの時がやってきて、全く新しい時が始まり、私たちが新しい復活のからだ、栄光の体を与えられ復活するとき、そこに満ち溢れるイエス様の言葉があるのです。イエス様の言葉は変わらない。天地が滅びても、イエス様の言葉は滅びることがない。決して変わることはないのです。

だから、私たちは、惑わされず、イエス様の言葉を聞きながら生活すればよいのです。イエス様は、私たちを握って決して見捨てることも、見放すこともありません。

イエス様の言葉「24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」

祈りましょう。

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