「マタイの福音書」連続講解説教

心の清い者は幸い

マタイによる福音書講解説教5章8節
岩本遠億牧師
2006年10月1日

心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る。

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イエス様はその教えの中で、まず最初に祝福について語っておられます。8つの祝福についてお話ですが、初めの4つは低められる者の祝福、後ろの4つはイエス様の姿に似せられていく祝福と言われます。私たちは、イエス様が齎された祝福を受ける者でありたいと思います。そこに私たちの真の存在の輝き、平和と平安があるからです。

今日の祝福の言葉は、「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。」

ここで「清い」と言われている言葉は、「穢れ」と対比させられる言葉であり、またその動詞である「清める」は「穢れを取り除く」とか「罪なき者とする」という意味を持ちます。例えば、聖書の中には、人の死体に触れる者は穢れるとありますが、これに穢れを清める特別の水(雌牛を焼いて灰にしたものを湧き水に加えたもの)を振り掛けることによって人は清められ、普通の社会生活に戻ることができました。

ですから、「心が清い」という時、心の罪を清められ、神様との関係を持つことができることを意味しています。反対に、心が穢れたまま神様を見るようなことがあると、それは滅びを意味していました。旧約聖書にイザヤという預言者がいましたが、彼は、祭司として神殿の中で奉仕している時、突然、幻の中に神様の姿を見、天使たちが賛美している声を聞きました。その時、彼の口から出た言葉は、次のようなものでした。

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

すると、彼のところにセラフィムという天使が祭壇から取った炭火を持ってきて、彼の口に触れさせて言います。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」と。この後、イザヤは預言者としての召命を受けます。

幻の中に神様を見るということは、私たちのほとんどが経験することはないのですが、神様との存在と存在との直接的関係ということは、幻でなくても、私たちに与えられるものです。そして、そのような関係は心の清い者だけに与えられる恵みなのだと聖書は言うのです。

さらに、聖書は、私たちの心を清め、神様との関係を回復するものは、私たちの修行努力ではなくイエス様の十字架の血だと言います。

まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。ヘブル9:14

人は、心が清くなったら神様を信じることができると考える傾向があります。ですから、何とか修業努力して心を清めようとします。しかし、聖書は、罪が清めるためには神様が命じる方法に従わなければならないと言っているのです。死体に触れた者は、自分で川の水で体を洗っても清められない。物質的な汚れは取れるかもしれないが、死体に触れたという霊的な意味においての穢れ、罪からは清められないのです。何故かと言うと、死は神様との関係の断絶、「罪」の結果だからです。神様が定めた方法、雌牛を焼いた灰を湧き水に加えたものを3日目と7日目に振りかけてもらうことによって、清められると律法は規定しているのです。

心の穢れも同様です。自分で心が汚れると思うようなことから遠ざかっていても、それで心が清められるわけではありません。また、滝浴びや禊をしても、それで心の穢れが洗い清められるわけではありません。神様の方法、イエス様の十字架の血を注ぎかけていただくことによってのみ、私たちの心は清められると聖書は言うのです。「イエス様、あなたの十字架の血で私の心を清めてください」と祈るとき、十字架の血が注がれ、清められるのです。ここに私たちに求められる謙遜ということがあります。

私たちは、イエス様の十字架の血を、観念的なものにしてはなりません。「十字架の血を注いで、清めてください」と祈る者に与えられる恵みがあるからです。「十字架の血を注いでください」と祈るときに、自分の心が清められるという恵みを自分の内面で経験するのです。初代教会のキリスト者たちは、イエス様の十字架の血と言うときに、自分の内側に働きかけ、自分を罪から清める力を経験していたのです。

「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」1ヨハネ1:7

「御子イエスの血はすべての罪から我らを清める。」これは「清め続ける」という意味です。私たちは、生きていると体から垢が出るように、心にも穢れが溜まっていきます。毎日お風呂に入ったりシャワーを浴びて体の垢を洗い流すように、心の垢である穢れも毎日洗っていただく必要があります。イエス様は、小さな子供をお風呂に入れて喜んでいるお父さんのような方です。毎日触れ合い、私たちの心を洗ってくださる。そのことを喜んでおられるのです。ですから、私たちは、今日も、「イエス様、あなたの十字架の血で清めてください」と祈ってまいりましょう。

「心の清い者は神を見る」とあります。イエス様の十字架の血によって清められ、恐れることなく、神様の御顔を仰ぐことができると言います。

「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブル10:22新共同訳

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」ヘブル10:22新改訳

勿論、私たちが顔と顔を見合わせるように神様を見ることができるのは、天国に帰ったときのことでしょう。そのような時が来ることを信じて、希望を持って生きて行きたいと思います。

しかし、聖書は、神様を見る、神様に出会うということを天国に帰ったときの希望だけに限定しているわけではありません。また、私たちは、この信仰をただ観念的なものにしてはいけないし、気持ちの問題にしてもいけないのです。

マザー・テレサは、最も貧しい人たち、最も小さい人たち、人にいなくても良いと思われている人たち、病気に倒れた人たちの中に神を見ると言っています。それは、イエス様ご自身が言われた次の聖書の言葉を本気で自分のものとして受け取っているからです。

マタイによる福音書25:34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 25:35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 25:36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 25:37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 25:38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 25:39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』25:40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

マザー・テレサは、私たちが、心を清められるなら、これらの人々の中にイエス様を見いだすと言うのです。痛んだ人々の中に、鞭打たれ十字架に苦しむイエス様の姿を、愛に渇く人々の中に、十字架の上で「私は渇く」と言われたイエス様の姿を見いだすと言うのです。貧しい人たち、病気に倒れている人たちの中にイエス様がおられる。また、私たちのそばで愛に飢える人々の中に、人々の愛を求めてさまようイエス様がおられるのです。

イエス様の十字架の血によって心を清められる時、私たちの心からベールが取り去られ、イエス様の姿が見えるようになっていく。だから、マザーは、私たちは心の清いものとならなければならないと言います。

先週もご紹介したマザー・テレサの祈りをもう一度読みたいと思います。

「最愛の主よ。病んでいる人は、あなたの大切な人。今日も、いつも、病人ひとりひとりのうちに、あなたを見ることができますように。看病しながら、あなたに仕えることができますように。

イライラと短気な人、気難しい人、理屈に合わないことを言う人、人の目には好ましく思えないこうした人の中にもおられるあなたを見分けて、こう言えますように。『わが患者イエス、あなたに仕えることはとても嬉しい。』

主よ、このように見る信仰を与えてください。そうしたら、仕事は少しも単調ではなくなるでしょう。貧しく苦しんでいる人々の気まぐれを、温かくユーモアのうちに受け止め、その人々の願い事を満たすことに絶え間ない喜びを見出す者となるでしょう。

愛する病人さん、あなたがキリストを現しているとなれば、あなたは、二重に親愛な方となります。あなたをお世話することが許されるのは、わたしにとって特別な恩恵です。・・・

神であるお方よ、あなたはイエス。わたしのお世話する患者のなかにおられます。どうかわたしに対しても、ひとりひとりの患者イエスが忍耐深いイエスとなって、わたしの数々の落ち度は大目に忍び、あなたの大切な一人一人の病人のうちにおられるあなたを愛し、あなたに仕えようとしているこの志だけを見取ってくださるようにしてください。主よ、今もいつも、わたしの信仰を強め、深めてください。わたしの努力と仕事を祝してください。」(『マザー・テレサのことば』半田基子訳、女子パウロ会より)

また、次のようにも祈っています。

「主よ。多くの場所で私はあなたにお会いしました。静かな畑の中で、空っぽの大聖堂の薄暗い聖櫃の中で、あなたを慕って寄り集う人々の心と思いの一致の中で、私はあなたの心臓の鼓動を聴いたのです。そう言えば、喜びの中にあなたを探したとき、そこにもあなたはおられました。

でも、苦しみの中でこそ、私は確実にあなたを見いだします。苦しみは鐘の響きのように神の花嫁を祈りへと誘います。

主よ、私は他人の苦悩をとおして、あなたにお会いしました。苦しむ人々の示す崇高な受容の態度と言い知れぬ喜びとの中で、私はあなたにお会いしたのです。

それとは反対に、私自身のつまらぬ不都合や、取るに足りぬ不満の中で、あなたを見いだすことはできませんでした。苦難に見舞われながらも、私はあなたの贖罪的な受難のドラマを惜しいことに無駄にしてしまい、あなたの過越しの喜びを、安っぽい自己憐憫によって曇らせてしまったのです。

主よ、私は信じます。私の信仰を強めてください。」『マザー・テレサの祈り』ドン・ボスコ社より)

罪に穢れた私たちの心とはどのようなものでしょう。それは、人やいろいろな物を自分の思いの実現や自分の欲望との関わりでしか見ない心です。自分に役に立つか、自分の味方をしてくれるか、自分の欲望を満たすか、自分を傷つけないか。自分の思い、自分の欲望というフィルターをかけて見ていますから、そこに神様は見えないのです。

しかし、心を清められ、自分というフィルターが外されるとき、そこに貧しいイエス様、傷ついたイエス様、人に捨てられたイエス様が見えるようになっていく。私たちはイエス様に仕えるものとなっていくのです。

そして、きよい心、それはイエス様の心であり、イエス様はこんな私たちの中にも神様の姿を見ていてくださる。私たちの中に無限大の価値を見ていてくださるのです。私たちの中に、十字架の死によって贖うに値する神の子の輝きを見てくださっているのです。私たちがイエス様の清い心を与えられたら、お互いがどんなに輝いて見えることでしょう。お互いの中に神様を見ることができるでしょう。どんなに幸いなことでしょう。祝福されていることでしょう。

私たちがイエス様の十字架の血によって心を清められるというのは、観念的なことではなく、経験的なことです。祈りの中に経験していくことなのです。毎日心清められ、私たちのそばにいる人、家族や同僚、友達の中にいるイエス様と出会うことなのです。彼らに仕えることなのです。

エレミヤ書29:11わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。

祈りましょう。

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