「マタイの福音書」連続講解説教

悲しむ者の幸い

マタイの福音書講解説教5章4節
岩本遠億牧師
2006年9月3日

悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。

前回も「心の貧しい人」というのがどういう意味なのかということなのから、その御言葉の意味を考えましたが、今日も「悲しむ人」という言葉の持つ意味から、イエス様のこの祝福の言葉の意味を考えていきましょう。

1.注解書によると、ここで使われている「悲しむ」と訳されているギリシャ語のpenqewという言葉は、悲しみを表わす4つの言葉のうち、最も強い悲しみを表わす言葉だそうで、英語では ‘to mourn’ という訳を当てています。すなわち、親しい人が亡くなったときに経験するような悲しみを表わします。日本語では「嘆く」という言葉がこれに当たるかもしれません。

 私たちは、肉親を失い、深い悲しみの中にある人に対しては、全く言葉を失います。何と言っていいか分からなくなります。また、反対に深い悲しみの中にあるとき、どんな慰めの言葉をかけてもらっても、悲しみが深ければ深いほど、心に届かない、慰められることすら拒むような状態になります。エレミヤ書という預言者の書に「聞け。ラマで聞こえる。苦しみの嘆きの声が。ラケルがその子らのために泣いている。慰められることを拒んで。子らがいなくなったので、その子らのために泣いている」(エレミヤ書31:15)という言葉があります。これは、戦争で国が滅ぼされ、子供たちが奴隷として連れて行かれる母の嘆きを預言したものです。また、同じこの言葉が、ヘロデ王によって幼い子供たちを殺害された母親たちの嘆きを表わすために使われています。ここで、イエス様が「悲しみ」とおっしゃったのは、このような悲しみ、人が慰めてやることも、どうすることもできない、慰められることさえ拒むような悲しみを意味するのです。イエス様は、この様な人は祝福されているとおっしゃいました。どうしてこういう人が祝福されているのでしょうか。普通の価値観とは違います。イエス様がここで「ああ、何と祝福されていることか、嘆き悲しむものたちは」とおっしゃるとき、ここに、私たち人間が知っている祝福観とイエス様の祝福観が違うことを聖書は教えています。ここで私たちは、この言葉に表わされているイエス様のお心を知りたいと願います。

 2.旧約聖書を読みますと、そこには嘆き、悲しみ、泣く多くの人達の姿を見ることができます。自分の主人に苛められる女奴隷の嘆き。自分の父親に捨てられ、命を落としそうになる少年の嘆き悲しみ。子供を与えられない婦人の嘆き。奴隷として過酷な労働を強いられる人々の嘆き苦しみ。罪の深さ、重大さを知って絶望に泣く人々の悲しみ。多くの人々が嘆き、悲しみ、泣く姿が旧約聖書に書いてあります。しかし、彼等は、嘆き、悲しみ、泣くだけでは終わりません。聖書には、「主は、~の悲しみを心にとめられた」「主は~の涙を覚えられた」「主は~の嘆きの声を聞かれた」という表現が数多く見られます。そして、神様は彼等の運命を回復し、祝福を与えて下さるのでした。イエス様は、嘆き、悲しみ、泣く者に応える神様がいるということを、「ああ、何と祝福されているのだろう」という言葉で教えて下さっているのです。今日は、この中から、創世記に出てくるイシュマエルという少年の悲しみと、それに応えられた神様についてご紹介したいと思います。

イシュマエルというのは、ユダヤ人の父またアラブ人の父と呼ばれるアブラハムの子でした。アブラハムは、主なる神様から今のイスラエルの地に導いて来られ、「あなたの子孫は天の星のようになる。あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました。しかし、アブラハムと妻サラには子供が産まれません。そこでサラは自分の女奴隷ハガルを夫のアブラハムに与え、アブラハムはハガルによって男の子を得ました。この子供がイシュマエルです。イシュマエルは14歳になった時、すでに老人になっていた正妻サラに男の子が産まれました。イサクです。

創世記21:9 サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、 21:10 アブラハムに訴えた。「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません。」 21:11 このことはアブラハムを非常に苦しめた。その子も自分の子であったからである。 21:12 神はアブラハムに言われた。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。 21:13 しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ。」

21:14 アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。 21:15 革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、 21:16 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた。 21:17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。 21:18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」 21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。

21:20 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。

サラは、自分の子供のイサクがイシュマエルにからかわれるのを見て、我慢ならず、ハガルとイシュマエルを家(天幕)から追放するようにアブラハムに強く迫りました。アブラハムは苦しみます。しかし、サラの要求を受け入れて、二人を家から追放しました。ロバもラクダも与えず、パンと水を入れた皮袋一つだけを与えました。乾燥した荒れ地です。これは、ハガルとイシュマエルにとっては「死ね」と言われることと等しいことでした。

イシュマエルは14歳になるまで跡取りとして大切に育てられました。父親の愛を受けて育ったはずです。しかし、正妻のサラに息子が産まれてから、父親の自分に対する態度が変わったことに気付いていたことでしょう。さらに、死を意味する家からの追放を経験しました。確かにアブラハムは、喜んでハガルとイシュマエルを家から追い出したわけではありません。イシュマエルに対する思いとサラとの間に板ばさみになり、葛藤しました。アブラハムは神に祈り、どうすべきか尋ねました。神に「わたしはイシュマエルを大きな国民の父とする。イシュマエルを守る。安心して妻サラの言うとおりせよ」と言われ、彼等を追い出すことにしました。

しかし、いくらアブラハムが葛藤したとしても、神の保護の約束を頂いていたとしても、イシュマエルは父親に捨てられたのです。追放されるイシュマエルは、自分の父親に「お前は産まれてこなくてもよかった。もう生きていなくていい」と言われたと思ったことでしょう。水がなくなり、渇き、死ぬばかりになったとき、イシュマエルが味わった悲しみ、嘆き、苦しみは如何ばかりであったでしょうか。自分の親に捨てられる子供の苦しみは、経験したことのあるものでなければ、決して知ることのできない、人の同情を受け付けないような悲しみです。言葉に表わせない深い深い悲しみです。しかもイシュマエルが死にそうになったとき、母のハガルは悲しみに耐えきれず、自分を見捨てて離れて行ってしまったのです。イシュマエルは、もう言葉にならない嘆き、悲しみの中に息を引き取ろうとしていました。声もでない状態でした。しかし、「神は少年の泣き声を聞かれた。」神様は、父親に捨てられ、灼熱の乾燥した荒野の中で今にも息を引き取ろうとしていたこの少年の深い悲しみをご存じでした。そして心の呻き、嘆きに耳を傾け、助け出してくださいました。

21:17 神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。「ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。 21:18 立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」 21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた。21:20 神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。

親に捨てられ、絶望のなか、悲しみの中で一人の少年が死んでいくことを、神様はお見過ごしになりませんでした。これが神様のお心、イエス様のお心なのです。このイシュマエルの悲しみをしっかりと受け止め、これに祝福をお与えになるのが聖書の神様なのです。イシュマエルは父親に捨てられた悲しみ、痛みをどうすることもできなかったでしょう。しかし、「神が少年とともにおられた」と書いてあります。イシュマエルの心の傷、他の何者によっても埋め合わせることのできない心の空虚な場所に神様が入って来て下さいました。満たしてくださいました。そして、祝福をあたえ大いなる国民の父としてくださいました。

イエス様はおっしゃいました。「ああ、何と祝福されていることだろう。悲しみに打ちのめされた人。その人は慰められるからだ。」自分で「元気を出そう、悲しみに負けずに頑張ろう」と言えないほどの悲しみを経験した人、悲しみに打ちのめされた人、彼等は幸いである。彼等の悲しみを受け止め、それを祝福に変えることのできるお方がいるのだ、今のあなたの悲しみを祝福に変えることのできるお方がおられる、と教えて下さっているのです。

3.イエス様は「その人は慰められるからだ」とおっしゃいました。「慰められる」とはどういうことでしょうか。ここで大切なことは、誰が慰めるのかということです。人の慰めを拒むような悲しみのとき、人はこれを慰めることはできません。慰めるのは神様なのです。これは重要なポイントです。神様が慰めて下さるから、祝福されているのです。

 「慰める」と訳してある言葉は、ギリシャ語では、「傍らに呼ぶ」というのが語源的な意味です。この言葉から派生したのが「助け主、慰め主」と訳される聖霊様の別名です。「援助のためにそばに呼ばれたもの」これが聖霊様です。イエス様は、十字架に殺される前夜、つぎのように弟子たちにお語りでした。

14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。 14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。 14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。ヨハネ14:16-17

イエス様は、自分がいなくなったあとで、弟子たちを助けるもの、慰めるものがやってくる。真理の御霊、聖霊がやってくる、とおっしゃいました。さらに、「この方は、あなた方とともに住み、あなた方の内におられる」とおっしゃり、聖霊がイエス様の霊、イエス様ご自身であることを教えておられます。「この方があなた方とともにおられる。」これが、私たちにとっての最大の慰めなのです。聖霊が、イエス様が、私とともにおられる。これにまさる慰めはありません。私たちは、悲しみに出会うと、「どうして?何故?」と言いたくなります。しかし、イエス様がともにいて下さることを知るとき、それを体験するとき、「何故」を超えた大きな喜びに包まれるのです。

今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。ヨハネ16:22

先程読みました創世記の中にも、「神が少年とともにおられた」とありました。神様がともにおられたので、父親に捨てられた悲しみから立ち上がることができたのです。人間の父親が満たすことのできない心の空しさを神様が満たして下さいました。

イエス様はインマヌエル「神が私たちとともにおられる」と呼ばれるかたです。イエス様は語っておられるのです。「あなた方がどんなに深い悲しみに打ち倒されていても、わたしはあなた方のところにやってきて、あなた方とともに住む、あなた方を満たす。あなた方の悲しみを喜びに変える。わたしがあなたがたとともにいるからだ」と。

4.イエス様は、これほどまでに悲しみを慰め、私たちを満たす方ですが、それは、イエス様ご自身が大きくて深い悲しみを経験なさった方だからです。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」とイエス様は仰いました。しかし、イエス様は、私たちの誰よりも、もっとも深い悲しみを経験されたのです。イエス様は、十字架に殺される前、ゲッセマネの園で、「私は悲しみのあまり死ぬほどです」と言われました。これは、痛いのがいやだとか、殺されるのが怖いということを言っておられるのではないのです。イエス様にとっての最大の悲しみは、完全に一つであった父なる神様との断絶、父なる神様を失うことだったのです。

イエス様は、「私と父は一つである」(ヨハネ10:30)とおっしゃっていました。全人類の罪を背負って十字架にかけられるとは、一つであった父なる神様とイエス様が、裂かれることだったのです。十字架によって裂かれたのはイエス様の体だけではありませんでした。完全に一つであった父なる神様からイエス様の存在そのものが引き裂かれたのです。そこにイエス様の深い悲しみがありました。人類すべての罪を背負うとは、このことを意味していたのです。これがイエス様の十字架でした。罪のないイエス様が罪びとである私たちに代わって、その存在を引き裂かれたのです。イエス様は、十字架の上で詩篇の言葉を引用して叫ばれました。「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と。我が父と呼んだ神様、イエス様が神様の中にいるのか、神様がイエス様の中にいるのか分からないほど、一つであった神様から、引き裂かれ、見捨てられる悲しみはどんなものだったでしょう。神の御子が神の御子でなくなる悲しみとは一体どのようなものだったのでしょう。

しかし、引き裂かれた時、ご自身の中に満ちていた神様の永遠の命、贖いの命を注がれました。この命によって、悪魔との壮絶な戦いに勝利してくださったのがイエス様です。罪よって私たちを縛る悪魔の力を打ち砕き、私たちを解放してくださったのです。自分の罪によって神様と断絶し、神様との関係が引き裂かれている私たちが赦され、神様との関係が回復したのです。

十字架の血というのは、単に物理的な意味でイエス様が流された血ということを意味するのではなく、父なる神様と引き裂かれることによって流されたイエス様の神としての本質そのものを意味するのです。

十字架とは、一方では、父なる神様との断絶という、イエス様にとっては最大の悲しみであり、これによってイエス様は地獄にまで落ちていかれたのです。しかし、もう一方で、イエス様の裂かれた存在から流れた永遠の命、十字架の血は、悪魔を倒し、地獄の門を打ち破るものでした。神様は、イエス様を3日目に復活させ、天に引き上げ、ご自身の栄光をお与えになりました。このイエス様が罪よって引き裂かれたものたちをもう一度集めるのです。何故か?それは、十字架の血によって、全人類の罪が罰せられ、罪の問題が根本的に解決したからです。全ての罪に対する代価が支払われたからです。

3.イエス様の私たちに対する取り扱い

私たちの持っている根源的な悲しみは、神様との断絶からきています。これを罪と言います。しかし、この断絶の悲しみを知って下さっている方がおられます。誰よりも、イエス様が、あなたのその悲しみ、私のこの悲しみを知ってくださっているのです。「わたしは、あなたのその悲しみを知っているよ。私は十字架の上でそれを味わったんだ」とおっしゃっている。「しかし、それはただ悲しみを知るだけではない、あなたの悲しみを慰める命を流すため、あなたの痛みを癒す十字架の血を流すためだったのだ」と。そして、「私があなたのために流した十字架の血を受けなさい。私の十字架の血はあなたを赦す。あなたを癒す。あなたを救う。あなたの虚しさの全て、あなたの存在の全てを満たす」とおっしゃっているのです。父なる神様から断絶され、地獄にまで落ちて復活したイエス様だからこそ、深い深い悲しみと苦しみを味わったイエス様だからこそ、もう一度全てのものの悲しみを癒すことが出来るのです。

4.結論

私たちの人生には悲しみがあるでしょう。しかし、私たちは幸いです。私たちは何と祝福されていることでしょう。私たちの存在の中にある、引き裂かれた虚しい場所を十字架の血が満たしてくださるのです。誰にも満たすことができなかった存在の破れ口、神様にしか満たすことができない場所をイエス様が満たしてくださるからです。

「わたしは在る」という名前の神様、私達のイエス様が、今も生きていて、私達の存在の中にある、引き裂かれた虚しい場所にご自身を満たして下さる。私たちは満たされていくでしょう。悲しみを超えるイエス様の臨在が私達の存在をつつんでくださるのです。

そして、この方が私たちを呼び寄せ、癒してくださるように、私たちだけでなく、全てのものを呼び集め、一つの体として下さる。永遠という時間の中で、イエス様が、十字架によって全てを一つに集められるからです。これこそ、イエス様にしかできない慰めの業であり、イエス様がこれを私たちに与えてくださるのです。

今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。ヨハネ16:22

祈りましょう。

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