「マタイの福音書」連続講解説教

愛は分離しない

マタイの福音書第7章1節〜5節
岩本遠億牧師
2019年11月17日

さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。マタイの福音書 7章1~5節

さばく krino=選ぶ、区別する、分離する→判断する、裁く、

×判断の放棄

人間の罪の根源=自分が善悪の基準

自分=善、正しい
あなた=悪、間違っている

裁く=分離する→私は上、あなたは下
           人を排除する

キリストの平和教会の基本方針
・人の批判をしない
・その場にいない人の噂話をしない

人を批判するときの基準は何か?
・自分の気持ち
・社会規範、社会的常識
・聖書の言葉(解釈)・・・これが一番厄介

人を批判する動機は何か?
・教えてやろう・・・上から目線、支配欲

“信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。”ローマ人への手紙 14章1~9節

ローマ教会内の対立:肉を食べるか否か

市場に売っている肉:一旦偶像の宮に捧げたもの

信仰の強い人:偶像に供えた肉を食べても偶像崇拝に加担することにはならないと考える人。

信仰の弱い人:偶像に供えた肉を食べると偶像崇拝に加担することになると考える人。

どうやったら兄弟の目の中の塵を取り除けるのか?

兄弟と一つになることによって
  =自分の基準を放棄することによって可能
仕えることによって

弟子たちの足を洗った主イエス

兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いを自分よりも優れた者として尊敬しなさい。ローマ12:10

優れた者
×能力が優れている
○身分が上

一人一人の心の中に植え付けられている神の言葉に信頼する。

またイエスは言われた。「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」      マルコの福音書 4章26~29節

全てを包み込んで「然り」とする主イエスを信頼する。見上げる。

「私たち、すなわち、私とシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、『然り』と同時に『否』となったような方ではありません。この方においては『然り』だけが実現したのです。神の約束はことごとく、この方において『然り』となったからです。それで、私たちは、この方を通して神に『アーメン』と唱え、栄光を帰するのです。」コリントの信徒への手紙 二 1章19~20節(共同訳)

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