「ヨハネの福音書」 連続講解説教

振り向けば、そこに

ヨハネの福音書20章11節から18節
岩本遠億牧師
2011年5月1日

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

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一昨日、英国王室のウィリアム王子とキャサリンさんの結婚式があり、NHKBSで中継が行われました。民放の番組では聖書朗読や説教など、本当に大切な場面で中継が中断されて、生い立ちや、コメンテーターのコメントなどが入れられ、残念な内容となってしまいましたが、NHKBSでは完全生中継ということで、解説はなく、結婚式の様子が良く分かりました。

そして、そこで改めて思われたことが、結婚式とは礼拝そのものであるということです。讃美歌を歌い、聖書を読み、何度も祈る。主の祈りを全員で祈る。そして説教が語られる。そこで捧げられた祈りは真実の祈りであり、説教も新しく結婚生活を始める若者たちに聖書の原則に立つ結婚とは何かを教えるものでした。

英国国教会の長は英国王です。16世紀に政治的な理由でヘンリー8世がカトリックから分離独立して作ったのが英国国教会ですが、説教者が説教台の上から下に座る新郎新婦、エリザベス女王、王室の人々、列席の人々に向かって語る説教を聞いて、私自身心が動くのを感じました。

そして、決してクリスチャンらしくない両親の対立とスキャンダルにまみれた家庭に育ったこのウィリアム王子が正しいキリスト信仰を持ち、幸せな家庭を築きますようにと、願わずにはいられませんでした。

また、日本においてもこの結婚式の中継をとおして(BSで中継を見た人がどれくらいの割合かは分かりませんが)、結婚式とは単なる飾りではなく、真実なキリスト礼拝なのであるということを、多くの人々が知ることができますようにと、心から願い祈りました。

私たちの教会では去年、結婚礼拝式を行いました。真実の礼拝が捧げられるところに、真実の結婚の誓いが行われるのだということを、私たち自身も経験したのであります。

私たちが数年間を使って学んできたヨハネの福音書によれば、イエス様が最初に行われた奇跡の業は、カナで行われた結婚式において、水を葡萄酒に変えるという祝福の業でした。そして、今、私たちのヨハネの福音書の学びは、イエス様の復活の場面であり、イエス様がもたらされた命、イエス様の祝福の業とは何かということが完全に明らかにされるところです。

私たちの与えられている信仰、キリスト信仰の基盤は、主イエスキリストの復活であります。単に霊魂の不滅を信じても私たちは死の支配から解放されることはありません。どんなに浄土への往生、天国に行くことを願っても、死が実際に打ち砕かれ、イエス様が甦らなかったのなら、私たちの願いは、何と虚しいことか。

聖書は私たちに語ります。主イエス・キリストは死の力を打ち破って復活なさったと。死は、打ち破られた。十字架による罪の贖いを信じる信仰も、この死を打ち破ったイエス様が生きているから、イエス様が聖霊を注がれるから、与えられるのです。私たちの信仰の基盤はイエス様の復活であります。私たちがイエス様を信じることができるのは、イエス様は死を打ち破って復活なさったからであります。

先週は復活祭の礼拝で20章1節から10節まで学びました。
今日は、20章の11節から18節までを読みました。ここではマグダラのマリアに復活したご自身を現わされたイエス様が語られます。何故ペテロやヨハネなどの弟子ではなく、女性に最初にご自身を現わされたのかということについては、いろいろな憶測がありますが、憶測はあくまでも憶測なのであって、何が真実かは聖書の言葉を紐解いて、そこからイエス様の言葉を聞くしかありません。しかし、そのことによって、私たちは、再びイエス様がどのような方なのかを改めて知ることができるのであります。

先週のところを復習すると、次のようなことでした。マグダラのマリヤが日曜日の朝早く、まだ暗いうちにイエス様の墓に行くと、墓の入り口に立てかけてあった大きな円盤状の石が転がされ、入口が開いたままになっていた。マリヤは誰かがイエス様の遺体を盗み、これを冒涜したのだと思い、すぐにペテロとヨハネのところに行って、そう告げた。

ペテロとヨハネは墓に走ってやって来た。ペテロが入り、イエス様の体をぐるぐる巻きにした亜麻布が置いてあり、イエス様の頭を巻いてあった布も巻かれた状態で置かれているのを見ました。ヨハネも中に入り、それを見て、信じた。何を信じたかというと、イエス様が復活なさったことを信じたのです。復活なさって、巻かれていた布を、物質を通り抜けて出て行かれたことを信じたということです。イエス様の体を誰かが盗んだとしても、亜麻布を解いて裸のイエス様の遺体を持っていくとは考えられないからです。また、ペテロも同じように信じたと理解するのが自然でしょう。

しかし、彼らは、「16:10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」という詩篇16篇の言葉をはじめ、イエス様について預言されている旧約聖書の言葉を理解しておらず、イエス様の復活が何を意味するのかを知ることができなかった。それで、また恐れと絶望という自分の世界、ばらばらの世界に戻って行った。それが、20章の1節から10節までのところです。

墓の前にはマリヤが取り残された。ヨハネとペテロは、亜麻布がぐるぐる巻きのまま抜け殻になっているから、イエス様は予告なさっていたように甦ったのだと思うということを、マリヤに伝えた筈です。「さあ、一緒に帰ろう」と言ったに違いない。しかし、マリヤは墓の前から動こうとしませんでした。

11節を見ると、「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた」とあります。「外で」とありますが、何の外なのでしょう。墓の外でと理解することができます。また、これは「復活の信仰の外で」と理解することもできます。ペテロとヨハネは墓の中に入って抜け殻を見て、イエス様の復活を信じた。しかし、外に止まり、中に入らなかったマリヤはイエス様の復活を信じることができなかった。彼女は復活の信仰の外にいたのです。

彼女の心は、イエス様の遺体のことだけに縛られていたからです。遺体がないことが、彼女の最大の問題だった。彼女はイエス様の遺体を求めていたと言って良いでしょう。2節、13節に同じように言っています。「20:13 だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」また、15節には、次のように言っています。「「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」

彼女のイエス様に対する尊敬と愛の深さは捨て身の愛であり、打算のない、純粋な愛でした。しかし、イエス様の遺体、死んだイエス様を求める思いが強すぎて、復活の信仰の外にたたずみ、泣くことしかできなかったのがマリヤです。

イエス様が復活したという証拠が目の前にあるのに、信じることができなかった。そんなマリヤにイエス様はご自身を現わされたのです。彼女に復活の信仰を与えるためです。イエス様は、死んだイエス様を探し求めるマリヤに呼びかけられました。

20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。

「マリヤよ」というイエス様の生きた声は、死んだイエス様を探し求めるマリヤの心を一瞬にして変える力がありました。14節に「彼女は、こう言ってから、うしろを振り向いた。するとイエスが立っておられるのが見えた。しかし、彼女にはそれがイエスであることが分からなかった」とあります。振り向いて、イエス様と話していたのです。ただ、それがイエス様だとは分かりませんでした。心の目が閉じていたから、イエス様を見てもイエス様と分からなかった。

しかし、「マリヤよ」という声を聞いた時、彼女はもう一度振り向くことになります。体はイエス様のほうを向いて話しているのですから、ここで「振り向く」と言うのは、心を振り向かせたということです。この「振り向く」と訳されているギリシャ語はと言いますが、体の向きを変えるという意味と、心の向きを変えるという意味があり、日本語訳の聖書では、「悔い改める」と訳されている個所もあります(マタイ18:3)。

参考:マタイ18:3 言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。

「マリヤよ」というイエス様の言葉は、死んだイエス様に縛りつけられていたマリヤの心を甦ったイエス様に振り向かせ、「ラボニ(先生!)」と告白させる力がありました。

マリヤはイエス様にすがりつこうとしました。しかし、イエス様はそれをお許しになりませんでした。なぜなら、マリヤの中には、肉体として蘇ったイエス様、前のように肉体を持って彼らと共に歩むイエス様にすがりつきたいという思いが強くあったからです。すがりつくとは、自分のものとしたいという思いの表れです。

聖書のほかの箇所を見ると、弟子たちがイエス様の体に触ったという箇所、イエス様の足を抱いて礼拝した女たちのことが出てきます。ですから、触るなと仰ったのではありません。「すがりついてはならない。わたしは、これから父のもとに上って行く。この地上に引きとどめようとするあなたの思いに答えることはない。あなたも、引きとどめようとするな」ということです。

イエス様には、これからなすことがあったのです。天に上って、そこから溢れる聖霊を弟子たちに注ぐことです。そして、この地上にいつまでも留まってほしいというマリヤの願いを退け、むしろ、そのような思いをマリヤから取り去り、復活の証人として弟子たちのところにお遣わしになります。

20:17 わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」

これまでイエス様は弟子たちのことを「兄弟」とお呼びになったことはありませんでした。「僕」と呼び、また「友」と呼ばれました。しかし、十字架の贖いを成し遂げた今、弟子たちは「兄弟」とされたのです。イエス様の十字架の血が弟子たちをイエス様の兄弟とした。まだ、恐れ隠れていて、復活の意味も力も理解せず、自分の世界に閉じこもっている者たちを「兄弟」と呼ばれたのです。

あなたは、まだイエス様の復活の力を十分に知らないかもしれない。まだ十分に信じることができずにいるかもしれない。しかし、イエス様は十字架の贖いを成し遂げて、あなたを完全な者とし、ご自分と同じ種類のもの、神の子とし、あなたを「兄弟」と呼んでおられるのであります。

そして、聖霊を注ぎ、時間をかけ、兄弟としての姿を私たちの中に造って行かれる。

マグダラのマリヤは、散り散りになっている弟子たちを訪ね回り、イエス様にお目にかかったこと、これから主が父なる神様のところに戻られること、弟子たちを兄弟と呼んでおられることを伝えました。

来週見ることになりますが、マリヤのこの言葉によって弟子たちは一つのところに集まるようになります。

キリスト信仰に実質を与えるものは、イエス様の復活であります。イエス様の十字架による罪の贖いを信じても、イエス様の復活がなければ、その信仰は実質のないものであるとパウロは喝破しました。イエス様が甦らなかったなら、死の支配が永遠に続くからです。罪が赦されても、死が永遠に支配するなら、私たちは死んで滅んで、全てが終わりになる。罪の赦しの教えも、単なる慰めにしかならない。どんなに浄土への往生を説いても、霊魂の不滅を信じても、死そのものが打ち破られなければ、すべては虚しい。死の力とは、それほど強力であり、私たち人間の前には決して動くことのない強固な壁として存在しているのです。

しかし、イエス様は、死の力を打ち破って甦られました。死の力は打ち破られたのです。十字架の血による贖いによって罪赦された者たちが、イエス様と同じように甦るのです。イエス様が永遠に生きられるように、私たちもイエス様に握られ、永遠に生きる。神の子とされたのです。

今全てを信じることは難しいかもしれません。マリヤも信じることはできませんでした。死んだイエス様だけに心が結びついていた。しかし、そんなマリヤにイエス様はご自身を現わされたのです。「マリヤよ」と語りかけてくださった主は、私たちの名も呼んでくださるのです。死んだイエス様に心が縛られている私たちに甦ったイエス様ご自身が呼びかけてくださる。その時、私たちは生きているイエス様を経験し、イエス様の声に従う者となるでしょう。

マリヤの名を呼ばれた方は、今も生きています。心の耳を澄ましてイエス様の声に耳を傾けましょう。イエス様は、私たちの名を呼ばれます。私たちも復活の信仰に生きる者に変えられるのです。

祈りましょう。

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