「ルカの福音書」 連続講解説教

新しい世界へ

ルカの福音書講解(81)第17章1節~10節
岩本遠億牧師
2013年5月19日

17:1 イエスは弟子たちにこう言われた。「つまずきが起こるのは避けられない。だが、つまずきを起こさせる者は、忌まわしいものです。17:2 この小さい者たちのひとりに、つまずきを与えるようであったら、そんな者は石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。17:3 気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。17:4 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」

17:5 使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」17:6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。

17:7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。17:8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」

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地中海世界にイエス様の福音を宣べ伝えるという非常に大きな働きをした使徒パウロは、自分のことを「キリストの僕」と呼び、自己紹介しました。皆さんは、自己紹介する時にどのようにおっしゃるでしょうか。

今日の箇所を自分のものとして受け取る鍵は、この「僕」という言葉にあります。僕とは一体何か。僕と主人との関係は一体どのようなものなのか。イエス様は僕たちに対してどのような思いを持っていらっしゃるのか。

イエス様は、この僕の譬え話によって人を赦すということを弟子たちに教えておられます。弟子たちが「私たちの信仰を増してください」とお願いしたのは、イエス様の教えを行なうことが自分たちにはできないと思ったからです。自分たちが持っている信仰では、到底イエス様がお求めになるように人を赦すことはできないと思ったのです。そのイエス様の教えとは「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。17:4 かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」というものでした。

罪を犯してしまった者を戒めること、そして赦すことを教えておられます。罪を犯させる者は石臼を首に結わえ付けられて海に投げ込まれたほうがましだと言われるほど、罪は恐ろしいもので、罪に対して神様は妥協なさらない。しかし、罪を悔い改める者に対しては、大きな赦しをもって受け入れなさいと教えられます。

「あなたに対して一日に七度罪を犯しても」と言われます。個人的に損害を与えられることであったり、あるいは精神的な苦痛を与えられることかもしれません。「七」という数字は、聖書の中では完全数の一つですから、文字通り七回ということではなく、回数においても、その甚だしさにおいても、個人の限界を超える状況を意味します。

そのような人が「『悔い改めます』と言って七回あなたのところに来るなら、赦してあげなさい」と言われる。七回赦すとは、8度目は赦さなくても良いということではありません。マタイの福音書の中でイエス様は「七を七十倍するまで」と仰っています。つまり、自分に罪を犯した者を自分が裁くということ自体を放棄しなさいということを教えておられるのです。また、「『悔い改めます』と言って七回あなたのところに来るなら、赦してあげなさい」と言っておられますが、これは、謝りにきたら赦してやろうと思っていたらできることではありません。既に自分の中で赦していなければ、謝りに来たときに「赦します」と言うことはできません。

イエス様は、福音書の中で何度も「裁いてはならない」「赦しなさい」と仰っている。主の祈りの中でも、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と祈るように教えておられます。しかし、この赦すということが私たちには一番難しいのです。教会の中でも、裁かないこと、赦すことは、奉仕をすること、人の前で話をすること、多額の献金をすることに較べて何と難しいことかと思います。

私たちは、何故人を裁くのでしょうか。何故、人を赦せないのでしょうか。それは、自分の思いが善悪の基準となっているからです。自分の思いが何にもまして、第一の基準となっている。

しかし、聖書を読むと、善悪の決定権は神様だけにあるのであって、人間にはないということが明確に書かれています。創世記の記事で、アダムとエバがエデンの園の中央にあった善悪の知識の木の実を取って食べた。これが人の罪の源泉であったとありますが、神様だけに決定権がある善悪の判断、これを自分のものにしようとしたところに、人の罪の最も根深いところ、最も解決が難しいところがあるのです。

七度赦せ、あるいは七を七十倍するまで赦せとイエス様がお命じになる。これは、人間の罪の姿を決定付けている思い、すなわち、自分が善悪を決めたいという思いを完全に放棄することをお命じになっているのです。

それに対する弟子の反応が5節です。「17:5 使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』」

つまり、イエス様が命じておられることを行うためには、自分たちが持っている信仰を増していただくことが必要だと感じたのです。「もっと、信仰が篤くなれば。もっと信仰が大きくなれば。もっと信心深くなれば」と思ったということです。

しかし、それに対するイエス様のお答えは非常に厳しいものでした。「17:6 しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」

これは、信仰が大きい、小さいという問題ではない。信仰があるかないかという問題なのだと仰っています。自らが善悪の基準となるという罪のあり方を放棄すること、つまり神様だけにそれをお任せし、自分は裁かないことが、信仰の最も基本的姿勢として求められていると言うのです。

イエス様は、ここで、「これができないお前たちは信仰がない。これができなければ救われない」と断罪しておられるのではありません。むしろ「あなたがたは、神の僕なのだよ」とおっしゃっている。

17:7 ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。17:8 かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』と言わないでしょうか。17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」

私たちは、自分に負い目のある人を赦そうとする時、「大目に見てやる」という気持ちになることがあります。あくまでも、自分が善悪の基準であり、赦すために、その基準を下げてやろうと思うわけです。そこにあるのは、自分が上に立っているという意識です。

ところが、イエス様がここで赦すことを僕のあり方に準えて教えられる時、人を赦すという行為が何か感謝の対象になったり、賞賛の対象になったりするようなものではなく、また、神様からの報いを受けるようなことでもなく、況や人の上に立つような意識を持ってすることではないということが分かります。僕がなすべき当然のことであると教えておられるのです。むしろ、僕のあり方として、赦すということは、当然なことなのだというのです。神様が言いつけられたことをするだけなのだと。

何故かと言うと、主人である神様、イエス様が赦しておられるからです。主人の業をするのが僕です。わたしが赦している。だから僕であるお前も赦せとおっしゃる。

僕とは何か、私たちはここにもう一度立ち帰らなければなりません。ただ、ここを読むだけだと、重労働して帰って来た僕をこき使う主人とかわいそうな僕という印象を持つかもしれません。しかし、これは、当時の一般的な主人と僕の関係を例としておられるので、神様が僕である私たちをこき使われるという訳ではないということは理解しておく必要があります。

僕とは、自己破産してしまい、他の人に買い取られ、その人に仕えるようになった者たちのことです。主人が買い取ってくれたから、食べて行くことができる。生きて行くことができる、そのような者たちです。

僕は、すでに人を赦す立場にはないのです。人を赦すべき立場に立っていない。人を赦す資格も権利もない者、これが僕なのです。況や、人を裁く資格も権利もないのが僕なのです。

私たちは何と愚かだったのでしょう。私たちはイエス様の尊い十字架の血によって買い取っていただかなければ、破滅していた者たちだったのです。イエス様が買い取ってくださった。だから生きていることができるのです。私たちには、もう人を裁く資格も、赦す資格もないということを、私たちは忘れてしまっていたのです。

イエス様は、あなたがたは、なすべきことを全部してしまったら、「私たちは役に立たない僕です」と言えとおっしゃいましたが、私たちの主人であるイエス様がお命じなったことを成し遂げたとしても、私たちは自分の立場を全て失った僕であることには変わりはないのです。だから、言えるのです。低い心を頂き、言うことができる。「私は役に立たない僕です」と。

しかし、そのような僕たちに神様は言われるのです。「あなたは、わたしのしもべ、わたしはあなたを選んで捨てなかった」と。「お前はわたしのものだ。わたしはお前を握って放さないぞ。わたしがお前を十字架の血で買い取ったのだ」と。

皆さん、これだけで十分ではないでしょうか。自己破綻していた私たちをイエス様が買い取ってくださった。私たちには人を赦す権限は残っていません。しかし、イエス様が握ってくださっているのです。

しかも、それだけではないのです。イエス様は、主人と僕の関係について次のようにも述べておられるのです。

12:35 腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。 12:36 主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。 12:37 帰って来た主人に、目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。ルカの福音書12:35

この世の主人は、僕たちに給仕をしたりしないだろう。あなたがたは、この世の主人に仕えるように、神様に仕え、何の権利も資格もない者として生きよ。しかし、あなたがたの真の主人である神様は、この世の主人とは違うのだ。主人を愛し、主人が帰って来るのを今か今かと楽しみに待っている僕たちを、喜び、主人のほうが立って給仕をする、それが神様なのだ。それがわたしなのだとイエス様はおっしゃるのです。

「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10:45

イエス様ご自身は、全人類の罪を贖うために、十字架にかけられ、死んで甦られました。私たちは、この方の僕なのです。この方に買い取られたのです。もう裁く権利も資格も、赦す権利も資格もないのです。この方の十字架の血が注がれるとき、私たちは自分が赦されていること、そして、あの人、この人も赦されていることを知ります。誰一人として、赦す資格さえ持ってない者とされていることを知ります。人が人を裁いたり赦したりという価値観、そのような人と人との関係のあり方そのものを打ち砕かれたのが、イエス様の十字架の贖いだったのです。

今日は、ペンテコステの日、聖霊が弟子たちに下った日です。今日も、聖霊が私たちの存在の奥底に下ってくださり、イエス様の十字架の御業の絶大さを明らかに示してくださいますように。

祈りましょう。

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