コリント人への手紙第二

日々新しく立ち上がる

コリント人への手紙第二第5章17節ほか
岩本遠億牧師
2013年1月1日

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

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2013年になりました。この年を皆さんはどのような気持ちで迎えられたでしょうか。学校を卒業する、職場を変わる、あるいは新しい責任を引き受けるなどの変化がこの年やってくることが分かっている人にとっては、新しいことへのチャレンジの年となるでしょう。また、昨年一年は自分の願うような生き方ができなかったという人にとっては、今年こそという思いで迎えられた新しい年かもしれません。あるいは自分の思う方向性とは違った道を歩むことになったという方は、神様の御心はどこにあるのだろうと、神様の導きを特に求めるお心が強いかもしれません。去年神様と出会う経験をした方は、新しい期待と希望をもって迎えた年であるのではないかと思います。

いろいろな人がいろいろな思いをもってこの年を始められましたが、私は、イエス様がお一人お一人を握り、背負い、共に歩んでくださる神であることを個人的に体験しながら、毎日を過ごす頃ができるようにと心から願い祈ります。聖書の中で神様は約束しておられます。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヨシュア1:5、申命記31:6,8)。そのことをお一人お一人が深く経験する年でありますように。

日本人は、新年をことのほか大切にする民族だと言って良いでしょう。私は、オーストラリアに5年間住んでいましたが、新年はほとんどクリスマスのおまけのような意味合いしかありませんでした。クリスマスには家族が集まり、教会でも家庭でも多いにお祝いし、クリスマスツリーは1月6日ごろまで飾られます。新年だからといって特別なことをするということはありませんでした。また、教会でも1月1日に礼拝はありませんでした。一方、日本のキリスト教会は、多くの教会で元旦礼拝を行います。それは新しい年を新しい心で迎えたいという日本人の伝統的な精神性を反映したものでありますが、決して異教的であると言って退けるべきものではありません。

何故新年を新しい心で迎えたいと思うのか。それは、新しい自分になりたい。新しい存在として生まれ変わりたいという願いが心の奥底にあるからではないでしょうか。茂木健一郎という脳科学者がいますが、去年2012年1月1日のブログにも、またオンライン版のプレジデント2012年12月27日号にも、何故日本人は初詣をするのかということについて自身の見解を述べています。初詣をする日本人の多くは、決して何かのご利益を求めて初詣に行っているわけではない。基本的に初詣に行って何かご利益があるとは思っていない。むしろ、その年自分が為さなければならないことを前にして、心を整える。新しい自分になって新しい年に出会う出来事に対処するためだという内容のことを述べています。

神仏に向かって無心に手を合わせたりすると、脳の中にある神経の新しい接続ができて、新しいクオリアというものが脳内に作られるそうです。しかし、神経が繋がることによってできるクオリアによって私たちが本当に新しい存在となれるかというと、それは甚だ疑問です。新しい年の目標を立てる、あるいは解決すべき問題を見定める、そしてその年、それをやり抜いたとしても、それは本来自分が持っていた力によるものであって、新しい自分に変わったわけではありません。新しい気持ちと本当に新しくなった自分とは全く違ったものです。

聖書は言います。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです」と。昨年のクリスマスに、私たちの教会では一人の人が洗礼を受け、正式にクリスチャンとしての生活を始めました。その方が、信仰告白の証の中で語っておられました。「自分の中には深い闇があって、悪い感情が湧いてくると自分が真っ黒になってしまう。自分はそのような自分が嫌いで、それを取り除きたいと思っていたけれども、自分ではどうすることもできませんでした。しかし、そんな悪い苦しい感情で一杯になっていた時、聖書をぱっと開いた。するとそこにあったのはルカの福音書の第6章27節から38節でした。それを読んだとき、私は自分の罪を知り、涙が止まりませんでした。そして、イエス様がその罪を赦してくださっていることがわかりました」と。

その方は、そのことがあった日、私にすぐにメールをくださっていました。「今日、とても嬉しいことがあったので、先生にお伝えしたい。明日、会えますか」ということでした。次の日、大学の研究室でお会いしました。そして、それまで持っておられた苦しい胸の内、人を赦せず引き裂かれる思い、自分自身の心の暗闇がどのようなものであったのか、詳しくお語りでした。しかし、この聖書の箇所を読んだとき、自分自身が罪人であったことを知った。ところが、自分が罪人であることを知ったと同時に、自分の心の中に明るい光が照らされて、イエス様が自分を赦してくださっていることを知った。罪の悔い改めの涙と、赦されていることの喜びで満たされた、赦すということを知った、とを詳しくお話くださいました。

誰かに説得されて信仰を持ったのではない。苦しみと自己分裂のどん底にあった時に、開いた聖書。そこで直接聞いたイエス様の言葉。この方は、この時、聖書のことばをとおして直接イエス様に出会ったのであります。そして、全く新しい存在と造りかえられ、赦せなかった人を赦し、人を赦せなかった自分を赦したのです。自分を赦してくださっているイエス様と出会ったからです。

「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、見よ、全てが新しくなりました。」

「誰でも」であります。誰でも、イエス・キリストにあって新しい者と造りかえられる。これが、イエス様が私たち与えてくださる祝福であり、救いであり、赦し、癒しなのであります。この方だけではありません。聖書のことばをとおしてイエス様の声を聞く全てのものたち、私たち一人一人に、イエス様のこの祝福、この命、この赦しと癒しが与えられるのです。

イエス様にあって新しく造られるとは、このようなことを言うのです。その新しく造られたものに与えられる祝福とは一体どのようなものでしょうか。私たちは、それをどのように具体的に経験していくのでしょうか。それは、状況に左右されない、確固とした神の子の実存を与えられるということです。どのような状況の中にあっても決して動くことのない神の子の尊厳を与えられるということであります。

私たちがイエス様に出会い、イエス様を信じてクリスチャンとしての生活を始めても、私たちを取り巻く状況が急に変わるわけではありません。私たちを落胆させる状況は、相変わらずそこにあるかもしれません。しかし、全てのことを神様が御手の中に握って、最善としてくださるという信頼が生まれ、そして、神様がそのように全てを働かせて最善としてくださるということを目撃するようになっていくのです。ローマ人への手紙第8章28節に次のように言われています。

「神を愛する人々、すなわち、御心によって召し出された人々のためには、神が全てのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。」

今のこの苦しい時も、神様の最善という計画、最善のプロセスの一部として用いられるというのです。神様の永遠という時間の中に自分自身が握られていること、決して見放すことも見捨てることもない神様の大きな愛の御手の中に自分があることを知るようになるのです。

私は、以前、パプア・ニューギニアという島のジャングルの奥地に言語調査と伝道に行ったことがあります。そこに導かれるまで、数多くの困難と危険があったのですが、神様が道を開いてくださり、何とか現地に入るところまで導かれました。しかし、あまりの環境の違い、治安の悪さ、食べ物を手に入れることさえ困難な中で、私は体調を崩しました。オーストラリアから私を送り出してくれた家内に電話をしたときに、私は、あまりの大変さに弱音を吐きました。すると、家内がすぐに手紙をくれました。

それには次のように書いてありました。「ニューギニアの人たちに対するあなたの愛と思いは、神様が一番ご存知です。あなたがこれまで祈り、準備してきたことを神様は覚えてくださっています。あなたがやろうと願い、祈ってきたことは、神様が永遠の時間の中で必ず実現してくださいます。だから、あなたは自分にできないことをやろうとするのではなく、あなたにできることをしてください。」

私が成し遂げたいと願い、祈ったけれども自分自身の力では成し遂げることができないであろうこと、それを永遠という時間の中で成し遂げてくださる方は、私にニューギニア伝道の願いを起させ、道を開いて、導いてくださった神様ご自身である。そのことを信じ、私は現地に入りました。いろいろなことがありました。高床式の住居から落ちてあばら骨を折ったり、現地の人との行き違いから、殺されるかもしれないと思ったことなど苦しいこともたくさんありましたが、2回目の伝道旅行の時には、神様が奇跡的な力を顕してくださり、多くの人を癒してくださいました。私が現地にいることができたのはわずか8か月でしたが、その伝道旅行の間に、イエス様を信じ、牧師になる決心をした若者が起こされたのです。彼は、その後神学校に入学し、今、現地で牧会と伝道をしています。私ができたことは、本当に僅かなことでした。しかし、神様がこれをなそうとお決めになっていたことがあった。その大きな計画の中の一つの出来事として、神様は私をお用いになったのです。もちろん、そこには苦しみもありました。しかし、神様ご自身が働かれ、奇跡的な力で村の人々を癒さ、人々がイエス様を信じるようになるのを目撃する驚きと感激、そして深い喜びもありました。全てのことは、神様のご計画の中にあったのです。

一方、私たちが神様の御心だろうと思って進むことの中には、自分の勝手な思い込みという場合もあります。その場合、神様がストップをかけてくださいます。私は、若い時から伝道者として生きていきたいという思いがあり、今申し上げたとおり、ニューギニア伝道という強烈な経験がありました。それで、ニューギニア島で聖書翻訳の働きをしたいと願い、日本に帰国したのち、インドネシア領イリアンジャヤというところに行って、その可能性を調べたことがあります。そこでも、マラリヤにかかったりと、いろいろ面白い経験はしましたが、道は開かれませんでした。神様の御思いは、私の思いとは別のところにあったのです。

また、このキリストの平和教会を始める6年ほど前に自宅で教会をしていたことがありますが、それも、イエス様が私の前に立ちはだかり、私が自分の思いで伝道することをお許しならず、私は教会を閉じなければならなくなりました。私がイエス様の僕、聖書のことばの奉仕者として最も求められる謙遜ということを全く理解していなかったからです。人を集めて伝道することができなくなり、私は苦悩しました。しかし、その間、私は聖書を深く読むようになりました。また、アンドリュー・マーレーという人が書いた『謙遜』という本を読み、キリスト信仰の鍵となる謙遜の意味、その実践、その祝福について知るようになりました。それらの上に、私は毎日聖書のショートメッセージを書き、インターネットで配信するようになったのです。その結果は、皆さんがご存じのとおりです。多くの方々が読んでくださるようになり、その結果、今私たちが今集められているキリストの平和教会の礼拝が始まったのです。

自分の思い通りの人生を歩んできたわけではありません。落胆することも、先が見えずにもがくこともありました。しかし、そのような中で、聖書のことばをとおして出会ってくださるイエス様がいました。聖書のことばをとおして語りかけてくださるイエス様の声を聞くとき、イエス様にある新しい自分が立ち上がるのです。毎日、新しいイエス様の恵みに触れ、毎日、新しい自分を発見することができる。「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです」という聖書のことばを毎日体験することができる。毎日新しい自分を発見することができるのです。

物事が順調に進むときには、高慢にならず謙遜であるように教えられ、落胆するときにも失望しないように支えてくださるイエス様がいる。周りの状況がどのようなものであっても、決して動くとのない希望が与えられる。状況に左右されない神の子の尊厳が満たされるのです。

伝道者パウロは、ピリピというところにあった教会に宛てた手紙の中で次のように言っています。

4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

「どんなことでもできる」とは、どのようなことを意味しているのでしょうか。スーパーマンのように、自分の思うように状況を変え、自分の理想を実現できるということでしょうか。この前後を読むと分かりますが、パウロはこの手紙を書いたとき、牢屋の中に監禁されていました。イエス様による救いと喜びを伝えたために、彼は命を狙われ、逃亡するように旅を続け、伝道をしていたのです。そして、エルサレムで捕らえられ、カイザリヤというところで牢に繋がれました。いつまでたっても裁判が行われる様子はない。そのような中で2年が経ちます。日の光も照らない暗い、不潔な牢獄の中で、彼は以前イエス様を伝えた人たちに手紙を書きました。「喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」彼は牢獄の中から自由な世界に生きている人たちを励まします。「私は、牢獄に繋がれていますが、神の言葉は繋がれていません。」出口の見えないような状況に置かれていても、パウロを内側から支え、その内側から光を照らしておられたイエス様がパウロの中に住み、日々新しい命と希望を与え続けておられたからです。

彼は、告白しました。牢獄の外でもイエス様を伝えることができる。牢獄の中からイエス様を伝えることができる。物質的に豊かな中にあっても、貧しい中にあっても、イエス様を伝えることができる。どのような状況の中にあっても私は生きることができる。全てのことができるのだ。イエス様がこの中に生き、命を注いで生かし、この喜びを満たしてくださるからだと。そしてやがて、パウロは囚人としてローマにまで行き、ローマ皇帝の前でイエス様を告白する機会が与えられるのです。その後、釈放されスペインにまで伝道に赴いたといわれています。

人は言うでしょう。時が悪い。状況が整っていない。だから自分は力を発揮できないのだと。自分が思うような方法、自分の思うような人と、自分の思うような場所で自分がやりたいことができることを人は求め、それができない時に不満に満たされるでしょう。

しかし、イエス様が私たち出会って下さり、私たちを神の子として新しく造りかえてくださった時から全てのことが変わるのです。全てが神様の御手の中で最善とされることが分かるようになる。状況に左右されない神の子の尊厳が一人一人の中に満たされるからです。

この新しい年、お一人お一人、いろいろなところを通られると思います。喜びに満たされることもたくさんあるでしょう。苦しいことや落胆することもあると思います。しかし、「誰でもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られたものです。」「神を愛する人々、すなわち御心に従って召された人々のためには、神は全てのことを働かせて益としてくださる。」

私たちは、状況の奴隷となるために創造されたのではありません。どんな状況の中にあっても、イエス様を信頼し、神の子として輝くために創造されたのです。私たちを永遠に握って離すことのないイエス様の愛と恵みを知るためです。状況を貫いて働くイエス様の永遠の計画と約束を体験するためです。

今年、私たちは成功することもあるでしょう。失敗することもあるかもしれない。しかし、恐れずに前に進みましょう。イエス様が私たちを握ってくださっています。歩けなくなったときにはイエス様が背負ってくださる。だから、イエス様と共に前に進もう。希望を告白しよう。この年は、あなたの御手の中にあります。私たちは、あなたの御手の中にありますと。祈りましょう。