「ルカの福音書」 連続講解説教

毎日がクリスマス

ルカの福音書第2章1節~12節
岩本遠億牧師
2012年12月23日

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。 2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。 2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。 2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。 2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

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クリスマスという言葉は、キリストという言葉とマスという言葉の組み合わせでできています。マスとはカトリック教会で言うミサ、すなわち礼拝のことです。ですから、クリスマスとは、キリストを礼拝することを意味します。私たちは、毎週ここでイエス様を礼拝していますから、毎週の礼拝がクリスマスであると言って良いでしょう。さらに、イエス様に出会い、イエス様に祈る生活を始めた者たちにとって、毎日がクリスマスとなったのです。毎日がクリスマスである。何と楽しい、何と嬉しいことでしょう。

日本では、12月24日の夜になると、クリスマスケーキが叩き売りされ、25日にはクリスマスの飾り付けも取り外されます。本当は25日がクリスマスなのに、24日でクリスマスが終わってしまうのが日本です。しかし、イエス様に出会ったその日から、毎日がクリスマスとなる。

街のイルミネーションは消えるでしょう。しかし、私たち一人一人の心の中に入って来てくださったイエス様は、決して消えることのない永遠の光を私たちの内側から照らしてくださる。サンタがくれるプレゼントは、いつか古くなり、あるいは壊れ、いずれ捨てられて行きます。しかし、神様が私たちにプレゼントとして与えてくれたイエス様は、永遠に変わることなく私たちと共にいてくださるのです。

毎日がクリスマスである。一人一人にクリスマスがやってくる。一人一人の中にイエス様がやって来て、その心の中に住み始めてくださる。わたしは、お一人お一人がこのことを本当に深く経験し、喜びに満たされて毎日を生きることができるようにと心から願い、祈ります。

今日読んだ聖書の箇所は、イエス様がこの世にやって来られた時のことが記されているところです。イエス様の母マリヤとその夫ヨセフは、ナザレという町に住んでいました。しかし、当時イスラエルを征服し支配していたローマ皇帝アウグストゥスの命令で、ローマ帝国全体の国勢調査が行われることになり、それぞれが自分の先祖の土地に帰り、そこで登録しなければならなくなりました。

イエス様の養父ヨセフは、紀元前1000年頃イスラエルを治めていたダビデという王の直系でしたので、ダビデの町ベツレヘムに帰りました。すでに臨月を迎えていた妻のマリヤも一緒でした。しかし、そこでマリヤは産気づき、男の子を産みました。それがイエス様です。

しかし、一人の若い女性に陣痛が始まり、今にも子供を産もうとしているのに、誰一人として、子供を産む場所を貸してくれなかった。マリヤは家畜小屋、あるいは、家畜を繋いでおく洞窟でイエス様を産まなければならなかったのです。取り上げてくれる助産婦もなく、家畜の餌となる藁の上に産み落とされたイエス様を、ヨセフは布でくるみ、餌箱の上に置きました。

客間には彼らのいる場所がなかったと言います。温かい部屋でご馳走を食べ、ワインを飲み、楽しく過ごしている人々のところにはイエス様がいる場所はなかったのです。暗く、寂しく、寒くて、誰一人いないとこにイエス様はお生まれになりました。何故、イエス様はそんなところに産まれたのでしょうか。何故、誰もイエス様が産まれるために場所を空けてくれなかったのでしょうか。

今の日本のクリスマスも同様ではないでしょうか。いろいろなところでクリスマス会が開かれます。クリスマスという名の忘年会です。ご馳走が用意され、酒が振る舞われます。温かい部屋でみんな楽しくやっています。しかし、そこにイエス様がいる場所はないのではないでしょうか。自分の心の暗闇をどうすることもできない人、孤独に泣く人、人から無視され、自分を自分でどうすることもできず苦しみの中にある人のところにイエス様はお生まれになるのであります。その人と共に生きるためです。その人と一つになるためです。

イエス様はイスラエルの王としてお生まれになりました。しかし、イエス様が置かれたのは家畜の餌箱でありました。この餌箱こそ、私たち一人一人であると聖書は言っているのです。クリスマスの出来事を描いた絵を見ると、どれも餌箱に置かれたイエス様を描いています。餌箱とイエス様は切り離せないもの、一つなのです。粗末なものです。雑菌だらけのものです。罪に汚れたものです。しかし、イエス様がその上に置かれることによって、この餌箱には永遠の価値が与えられたのではないでしょうか。

イエス様は、罪に汚れた私たちと一つとなり、この私たちの中に住んでくださる。私たちの罪を清め、私たちに永遠の価値を与えてくださるのです。これがクリスマスの出来事であります。

クリスマスの賛美歌の中に「天にはさかえ」という賛美があり、私たちも今年何度も歌って来ました。その中に、「土より出でし、人を活かしめ、尽きぬ命を与えるために」という下りがあります。私たち人間は、大地の塵で造られています。そこに神様が命の息を吹き入れてくださったから、私たちは生きていますが、やがてこの体は死に、土に帰って行かなければなりません。しかし、やがて土に帰って行く私たちを生かし、永遠の命を与えてくださる方がいるのです。このことは、イエス様がこの世に来られる千数百年前に書かれた、出エジプト記という聖書の箇所にも預言されていることです。

20:23 あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。 20:24 わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

この箇所は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルを解放なさった神様が、イスラエルに十戒という律法をお与えになった直後に語られる言葉です。礼拝についてお命じになります。金や銀で偶像を造ってはならないと。そして言われます。「わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。」

土の祭壇を造れと言われますが、これは、後に造られる幕屋の祭壇や神殿の祭壇ではありません。イスラエルの個人個人が自分のところで神様を礼拝するために造る祭壇のことです。そこにある土で造りなさい。高価な石を切り取って来て祭壇を造ってはならないとも仰っています。

2010年のナショナルジオグラフィック誌に、イスラエルのアシュケロンというところで花崗岩で造られた祭壇が発見されたという記事がありました。裕福な人が死者を弔うための香を焚く祭壇で、ローマ帝国から持ち込まれたものであったとのこと。3頭の牡牛の首とリボン、月桂樹がレリーフとして刻まれています。金持ちが自分の力を誇示するために、このような祭壇を自分の土地に設置したもので、神殿や広場などイスラエルのどこにでもあったようです。

しかし、神様は、このように金持ちが自己を誇るような祭壇を造ってはならない。大地の土で祭壇を築きなさいと仰っている。何故かというと、人間が大地の塵で造られているからです。神様は、人を創造なさったとき、大地(アダマー)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き込まれたと聖書は言います。ここで「土の祭壇」と言われる「土」はアダマーです。人間が造られている土で祭壇を造る。つまり、この土の祭壇とは、人間のことを象徴的に表しているのです。そして、その上で、羊や牛の生け贄を捧げなさい、それを全焼の捧げ物としないと言われる。土の祭壇の上に置かれた羊や牛からは、血が滴り、土と一体となるでしょう。そこで焼かれた羊や牛の脂や、灰は、土の上に落ち、土と一体となるでしょう。捧げ物の生け贄と土の祭壇が一体となる、そのために神様はこのようにお定めになったのです。

この羊や牛の生け贄とは、何を意味しているのでしょうか。聖書は言います。全焼の小羊とは、イエス・キリストご自身であると。イエス様は何のために来られたのか。それは、全人類の罪を取り消すためです。人は、自分自身を基準として、物事の善し悪しを決め、人を裁きます。そのようにして、その心は神様からどんどん離れ、人と人は対立します。そして、私たち自身、自分が何者であるのか、自分はどこから来て、今どこにいて、どこに行こうとしているのかが分からなくなっているのではないでしょうか。人は、本当に孤独になってしまった。誰も本当に愛することができなくなった。真実に自分を愛してくれる人を見出すことができなくなった。人が依って立つべきただ一つの神様という基準を捨ててしまったからです。聖書はそれを罪というのです。

神様は、このような罪の状態にあり、自ら汚れて滅んで行こうとしている人間を救うために人となってやって来られたのです。それがイエス様です。イエス様は、家畜小屋で生まれ、貧しく、人から卑しめられていた人たちの友となり、彼らを癒し、救って行かれましたが、ついに誰にも理解されず、かえって人から憎まれ、十字架にかけられて殺されました。しかし、十字架で殺され、流された血こそ、全人類の罪を帳消しにするものだったのです。

神様は、土で祭壇を造れとおっしゃいました。この土の祭壇の上で、神の小羊が殺され、全焼の捧げ物とされるためです。土の祭壇にイエス様の血が注がれる。私たち一人一人にイエス様の血が注がれるのです。土のように命がなく、死んでいた私たちがイエス様の十字架の血によって生きる者となるのです。私たちは真実の愛に生きることができるようになる。神様を愛し、隣人を愛することができるものとなる。隣人を自分自身のように愛することができる者と変えられていくのです。自分のこの弱ささえ、神様が永遠の御手の中に握ってくださっていることが分かるようになる。いつか、イエス様と同じ性質を持つ者に変えられていくのです。

一人一人にクリスマスがやって来る。毎日がクリスマスとなる。それは、イエス様の十字架の血が私たちに注がれ、土である私たちがイエス様と一体となるからです。イエス様は、私たちと一つとなるために十字架に血を流してくださいました。十字架の上で殺され、私たちに血を注ぐことなしに、私たちと一体となることができなかったからです。そのためにイエス様はやって来てくださったのです。私たちはもう自分の罪に悲しまなくて良いのです。イエス様が生まれ、私たちの上に血を注いでくださったからです。私たちはもう、自分がどこに行くのか恐れなくて良いのです。イエス様が私たちを背負い、私たちを握り、永遠の家に連れて帰ってくださるからです。

私たちと一つとなるために産まれてくださった方がイエス様です。あなたは一人ではありません。あなたと一つとなるためにやって来られた方がいるからです。土から出たあなたに永遠の命を与えるためにやって来られた方がいるのです。

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