「マタイの福音書」連続講解説教

永遠に価値ある者として

マタイによる福音書6章19節から34節
岩本遠億牧師
2007年2月25日

◆天に富を積みなさい

6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

◆体のともし火は目

6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

◆神と富

6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

◆思い悩むな

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

人間は、自分の価値ということにとても敏感です。私たちは、どういう時、自分の価値を感じるでしょうか。また、私たちは常に自分の価値を確認したいと思っています。私たちは何によって自分の価値を確認しているでしょうか。

高価な服を着ること、高価な宝石や時計で身を飾り、良い車に乗り、多くの財産を所有することで自分の価値を確認しようとする場合があります。また、社会的な地位を持つこと、人に影響力のあることをすることなどで自分の価値を確認しようとする場合がある。しかし、このようなものによって自分の価値を確認する人は、これらを失った時、自分の価値を見失ってしまうのです。

このことを、「絶対的価値」「相対的価値」という言葉で説明したいと思います。今、ここで言ったことは、すべて人との比較によって測られる「相対的価値」です。私たちは、自分の価値を人との比較で確認したいと思っているのです。誰よりたくさん持っている。あの人より地位が上だ、あるいは、下だ。と。このような相対的価値は、必ずぐらつきます。それが自分を支えることができなくなる日が必ず来るのです。

イエス様は言われます。「6:19 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

この「富」と訳されている言葉は、他の訳では「宝」とも訳されています。「あなたの宝のあるところにあなたの心もある」とイエス様は言われます。あなたが大切に思うもののところにあなたの心もあると。これは、経験的にも非常によく分かります。

私は、何年か前に新車を買いました。買った時は嬉しくて、いつも車のことばかり考えていました。毎日、駐車場においてある車を何度も見に行く。前から見る。後ろから見る。私の心は車に満たされていました。車が私の宝で、そこに心があったのです。それによって、自分の価値を感じようとしていました。ところが、納車後一週間ぐらいで、私は、車のホイールを縁石で擦ってしまいました。すると、それまで一日に何度も見に行っていたのに、見に行かなくなりました。傷ついた車を見るとがっかりする。つまり、それによって自分の価値を確認できなくなるからです。

イエス様は言われます。「天に富を積みなさい。虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」

では、「天に富を積む」とは、どういうことか。これは、神様だけが握っておられる絶対的な価値の世界に生きることを言います。もし私たちが、神様との関係の中に私たちの真の価値、神の子としての絶対的な価値を見出すことができるなら、私たちは、この世の富、この世の宝が傷ついたり、盗まれたり、失われても、失望することはなくなるのです。自分の存在の基盤が天にあることを知るからです。すると、私たちは、そのような物質的な富によって自分を満たそうという思いから解放され、具体的に、自分の持っているもので困難の中にある人々を助けることができる者となっていくのです。

相対的価値を求めて生きる人は、必ず貪欲に捕らえられます。貪欲について、イエス様は、次のようなたとえ話をしておられます。

ルカ12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

豊作で食べきれない作物は、貧しい人々に分け与えればよかったのです。そのことによって神様の前に豊かなものとなるのだと。聖書は言います。「貪欲こそが偶像礼拝なのだ」と。

「天に富を積む」という言葉は、「献金の呼びかけ」の時に良く使われますが、そのためだけの言葉ではありません。勿論、献金によって前進する神様の働きがありますから、それもおろそかにしてはなりませんが、そのことだけを言っているのではありません。むしろ、私たちの思いと行為、持てるもの、すなわち、私たちの全てで、神様の御心をこの世に実現していくことを意味するのです。困っている人を助け、援助が必要な人に経済的な援助を行い、食べ物を与え、温かい着物を着せ、孤独な人のために自分の時間を割き、痛んでいる人、病んでいる人のために祈ること。私たちにできることと、できないことがあるでしょう。でも、そのできる小さな一つのことを行うことを神様は求めておられるのです。

自分のためではなく、人のために生きることです。この世に神様の平和と義が実現するために生きることです。全ての人が、その持てる物によって価値判断されることなく、存在することそのものに素晴らしい意味と価値を与えられていることを伝えることです。この世において卑しめられている人々の尊厳を回復させることです。

ですから、私たちの心の目が開けて、何が真に価値あるものなのか、人に価値を与えるものは何なのかということが分かるようになると、そこから私たちの存在の全てに光が照らされ、私たちは、神の子の尊厳に満たされるようになっていくのです。6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、 6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」

そして、イエス様は、はっきりと言われます。物質を自分の宝とするものは、物質の奴隷であって、神様に仕えることはできないと。6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」物質を宝としているとき、自分が物質を所有しているようで、実は物質のほうがあなたを所有し、あなたを支配しているのだ。しかし、あなたはそのためにこの世に生まれたのではない。そんなことのために創造されたのではない、とイエス様は仰るのです。「君たちは、物質の奴隷じゃない。物質の奴隷になるために創造されたのではない。君たちは尊い霊的な存在なのだ。尊い神の子なのだ。神様に向かって、天のお父様、と呼びかけながら生きる尊厳ある存在なのだ」というのです。

この世に生きていると、いろいろな声が聞こえます。「お前はこれを持っていない。お前にはこういうところが足りない。もっとこういうものを持っていたら幸せになれるのに。これがあれば、もっと尊くなれるのに。」そして、私たちの目を天のお父様にではなく、この世のもの、目に見えるものに向けようとする。私たちの価値を相対化しようとする。私たちに相対的な価値観を植え付けようとする。

しかし、イエス様は、このような者の声を打ち砕き、私たちの目を開き、神の子の尊厳という絶対的な価値、この世のものが絶対に与えることができない無限の価値を満たしてくださるのです。

「あなたは、尊い存在である。」これがイエス様の宣言なのです。

だからイエス様は言葉を続けられます。

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

あなたに価値を創造した方は、あなたを守り、支えられる方である。あなたの命を支えられる。食べ物を与え、着る物を与えてくださる。あなたが生活のために必要としているものを神様は全部知り、必要を満たして下さる。

勿論、これは、私たちが生きていくために努力しなくても良いなどと言っているのではありません。毎日の献立について悩むのは罪だといっているのではありません。家族を楽しませるために大いに悩んでもらいたい。それも私たちに与えられた喜びだからです。食べる物や着る物、目に見えるものを手に入れることに自分の価値を置いてはいけない。そのために生きてはいけないということです。食べ物は体のため、着物は体のためにあるのであって、私たちの存在は、食べるために存在しているのでも、着るために存在しているのでもないのです。そのことは、頭ではみんな分かっているでしょう。私たちが必要としているのは、そこから抜け出せずにいる私たちを、絶対的な価値の世界に生かしめる命なのです。物質の世界だけを見て生きてきた私たちの実存を霊の世界に移し変える命をもたらしてくださったのがイエス様です。

そして、この美しい花よりもさらに美しく装わせてくださる。天の輝きをもって、あなたのその笑顔の中に、イエス様の姿を表して下さる。あなたがそこにいるだけで、雰囲気が和み、みんなが神様の素晴らしさを誉め讃えるような存在となっていく。イエス様の姿が、あなたの中に形作られていくのです。

6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。

個人的な所有物としては、サリーを2枚とサンダルしか持たなかったマザー・テレサ、皺だらけのおばあさんの顔があれほど輝いていたのは何故でしょう。どんなに美しい花も色あせるほど、美しく輝きを放っていたマザーの顔の秘訣は何だったのでしょう。それは、イエス様の輝きです。イエス様がマザーの中に生きていたからです。イエス様の言葉は、確かにマザーの中に実現したのです。

6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

私は、言語調査と宣教のために単身でパプア・ニューギニアのジャングルに行って全部で7ヶ月間ぐらいそこに暮らしていたことがあります。ジャングルで、水道も電気もガスも何もないところ。お店もない。そういうところでした。ですから、食べ物のことでは非常に苦労したわけですが、食べ物以外のことでも、明日のことを思い煩うということがどういうことか思い知らされるような経験をしました。

現地にはマラリアがありますが、私は、マラリアの予防薬を毎週飲んでいました。マラリアを発症した場合には、それを大量に飲むように処方されていましたので、最初4ヶ月間現地に滞在した時には、全部で何錠ぐらい必要になるかということは、計算で大体分かっていました。しかし、現地の人もマラリアにかかるわけです。そして病人が出ると、私のところに薬をもらいに来る。彼らは、私がマラリアの薬を無限に持っていると思っている。私は、毎晩、マラリアの薬を数えるようになりました。「明日病人が出たらどうしよう。何錠渡そうか」と考えるわけです。病人が出たらその人には10錠服用させなければ意味がないことは知っていましたが、私は恐れました。明日現れるかどうか分からない病人のために思い煩ったのです。そして、ついに、まだ残りはあるのに4錠渡したり、「もうなくなった」と言って彼らに嘘をつきました。

私は何のためにニューギニアに行ったのでしょうか。イエス様の愛を伝えるためではなかったでしょうか。不思議な夢を通して、ニューギニアへの道が開かれ、危機一髪の危険を逃れさせてくださった神様の導きを知っていました。しかし、食生活の苦労、現地の人と分かり合えないことや対立、梯子から転落して肋骨を3本折ったこと、こちらは食べ物がなくて飢えているのに、保管してあった食糧を盗まれたこと、そしてマラリアの不安。このようなことで私は、全くイエス様の愛を伝えるどころの話ではなくなっていました。私は、目に見える状況に縛られ、起こるか起こらないかわからない明日の不安におびえ、全く宣教活動はできず、研究に必要な言語データだけ集めてオーストラリアに帰ったのです。

「もう2度と行きたくない。」それが私の正直な気持ちでした。元々2回現地に行くことになっていましたが、2回目はもう行かないことにして、英語の話せる現地の人をキャンベラに呼んで、研究できるように準備を始めました。大学の教授たちも、時間とエネルギーの節約になると賛成してくれていましたが、私は、胸に棘が刺さったようになっていました。

そもそも、私がニューギニアに行くようになったのは、私が大学4年生の時に、イエス様にお出会いし、癒され、救われた時、「南洋伝道に遣わしてください。言語学の知識をもってあなたを伝えさせて下さい」と祈ったことが実現したものでした。1回目のニューギニア行きの前にも、ほとんど道が閉ざされたかと思った時に、不思議な夢を見て、問題が解決され、道が開かれたのでした。今考えても奇跡的なタイミングでいつくもの関門を潜り抜けるようにして現地にたどり着いたのです。それなのに、自分の弱さ、自分の思い煩いで神様の導きを無にしようとしている。イエス様は赦してくださる。しかし、イエス様に申し訳ないという思いで私は祈りました。

「主よ、もしもう一度行かなければならないのでしたら、教授たちの心に働きかけて、私にニューギニアに行くように命じさせてください。」すると、1週間もしない間に、教授たちは私のことを話し合う会議を開き、岩本遠億はもう一度ニューギニアに行かなければならないと言う決定をしたのです。

博士論文の第一草稿を書きながら、2回目の現地入りの準備を始めました。私は7ヶ月間祈りました。「私が持っているもので彼らが必要とするものを全て与えることができるように、私を強めてください。そして、あなたが私を癒し、私に生けるあなたご自身をお示しくださったように、私の祈りを通して彼らを癒してください。彼らに生けるあなたご自身を現して下さい。」7ヶ月間同じ祈りを続けて、私は現地に入りました。

その時、私は一つのことを決心していました。マラリアの薬の残りの数を数えないと。求められるものは与えよう。神様は、必ず私をオーストラリアの家族のところに帰してくださる。私は疑いませんでした。

そして、現地に入って、村の青年たちを集めて夜の集会を始めました。イエス様の十字架の血の力について毎日のように話をし、賛美を歌い、病気の人のところに祈りに行くことにしました。そして最初に祈りに行ったのが、数ヶ月ほど寝たきりになり、骨と皮だけになって死ぬのを待っていたマーティンでした。3人の青年が私と一緒に来てくれました。私はマーティンを見るなり、湧き上がるものがあり、彼を抱き締めました。そして言いました。「今から2000年前イスラエルと言うところにイエスと言う方が来られた。この方は神であったけれども、人となってやって来られ、多くの人を癒し、多くの人を助け、多くの人を救った。彼は、理解されず、殺されたけれども、蘇って今も生きている。イエスの名を呼んだら、あなたは必ず救われる。」そしてイザヤ書の40章を現地の人にわかる言葉で青年に読んでもらい、祈りました。私は現地の言葉では祈れなかったので、日本語でした。

40:28 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。 40:29 疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。 40:30 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 40:31 主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。

しかし、私が祈り終わったとき、マーティンは言ったのです。「私は、自分自身をイエスに差し出す。私は、イエスが私を救ってくれることを信じる」と。私は、マーティンはクリスチャンなのかと思いました。しかし、びっくりしたのは青年たちでした。青年たちの話によると、マーティンは、これまで一度も教会に来たことがなく、教会に行く人間を馬鹿にしていたのだというのです。

短い単純な福音の言葉、聖書の言葉、そして日本語での祈りでしたが、その中にありありとイエス様がご自身を現して下さったのです。

二日後、私はマーティンのところに行きました。そして、マーティン自身に祈るようにと言いますと、マーティンは、はっきりとこのように言いました。「Bigpela Jesus, Tankyu tru. Bigpela Hamamasu. Bigpela Hamamasu。」これは、「主イエスよ。心から感謝します。大きな喜び。大きな喜び。」今にも死のうとしていたマーティンの中に、生けるイエス様の命が注がれたのです。死の恐怖を突き抜ける圧倒的な喜びが満ち溢れたのです。

また次の日、私はマーティンのところに行きました。青年たちも一緒でした。そして聞きました。「あなたは立てなくなってもう数ヶ月が経つと聞いています。イエス様は多くの人を癒し立ち上がらせました。あなたはイエス様の御名によって立ち上がりたいですか」と。マーティンが「はい」と言うので、イエス様の御名を呼んで祈り、マーティンに言いました。「イエス・キリストの御名によってあなたに命じます。立ち上がって歩け。」マーティンは、信仰によって立ち上がりました。そして、部屋の周りの廊下のようなところに出て、家の外から中を窺っていた人々に向かって、言ったのです。「主イエスは生きている。あなた方もイエスを信じたら救われる」と。

その時から、癒しを求める人々が、やってきたり、祈りに来てくれと呼ばれたりするようになりました。聖書翻訳宣教師のパトリック・エドミストンさんがこの働きに途中から加わって下さり、彼と共に癒しのための祈りの働きを続けました。そして、それから1ヵ月の間に、500名ほどの人が住む村で、50名以上の方々がイエス様の癒しを経験するというイエス様の奇跡を目撃することとなりました。これまで教会に来ていなかった人々が「イエス様は素晴らしい」と言うようになり、村はイエス様の喜びに満たされました。

私の薬も村の人に上げてしまい、なくなりましたが、エドミストンさんが、私の不足を補って下さいました。私はマラリアからも守られ、家族のところに戻ることができたのです。

「神の国とその義を先ず第一に求めなさい。そうすれば、これらのものは、それに加えて与えられる。」

イエス様の言葉は、ただの理想を述べたものではありません。またまやかしでもありません。現実に生きて働く神の力、神の命なのです。

確かに、明日のこと、将来のことを考えると不安になることもあるでしょう。しかし、今日のことで心配しなければならないことがこんなにあるのに、明日のことを心配しても始まらないよ。(これはイエス様のユーモアです。)あなたが思い悩まなくても、明日があなたに代わって思い悩んでくれる。全てのことを過去も、現在も、未来も握って祝福を満たしてくださる。

「まず神の国と神の義を第一に求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。」

絶対的な世界を求めて生きよ。あなたに絶対的な価値を与える絶対的な方がおられる。そして、あなたの周囲に神の国をもたらすものであれ。苦しめる者を助け、励まし、慰め、癒しなさい。彼らのために祈りなさい。キリストの平和をもたらすものであれ。そうすれば、あなたに必要なものはすべて加えて与えられる。

イエス様の言葉が今週一週間、そして生涯にわたって、永遠にあなたを支えますように。

祈りましょう。

関連記事